【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな

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第58話・言葉のない朝、視線だけが揺れていた

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会社の駐車場に車が停まると、崇雅は無言のまま助手席のドアを開けた。
澪は小さく会釈し、言葉もないまま車を降りる。

二人の間に会話は一切なく、
車内で流れていた微かなエンジン音だけが、重たい空気の中でしんと響いていた。

(……今、私はどんな顔をしているんだろう)

澪は俯いたまま、ギプスで固定された右腕をかばいながら、エレベーターへと向かう。
足取りは自然を装っていたが、胸の内はぐらついたままだった。

自分のデスクのあるフロアに着くと、崇雅は一言も発さず先に降り、
そのまま関係部署へと歩を進める。

伝えるのは、必要最小限のことだけだった。

・澪が通勤中に負傷したこと
・右手が不自由なため、作業に制限があること

人事と労務には、通勤災害として労災申請を進めるよう手配を依頼する。
その声色に、私情は一切にじまなかった。
ただ淡々と、職務としての報告を終えたに過ぎない。

けれど、張り詰めたような背中の緊張は、隠しきれてはいなかった。

「結城さん、お大事に」

そう声をかけてくれた同僚に、小さく頭を下げながらも、澪の心はざわついたままだった。

崇雅はそれ以上、澪に何も言わず、自分のデスクへと向かっていく。

その背に、今朝触れた温度を思い出す。
けれど、振り返ることもなく去っていくその姿は、もうただの“上司”にしか見えなかった。

(……ごめんなさい)

声には出せず、心の奥でそう呟いた。


ビルの窓を打つ雨音が、じわじわと空気に染み込んでいく。
遠くで雷鳴も響いていて、照明がついているはずのフロアが妙に暗く感じられた。

光が沈んで見えるのは、きっと天気のせいだけじゃない。
澪の心も、同じようにくすんでいた。

右手はしっかりとギプスで固定されたまま。
たったそれだけのことなのに、仕事は想像以上に進まなかった。

ショートカットキーが使えない。
手書きのメモも取れない。
資料をめくる指先すら思うように動かず、小さな苛立ちが積もっていく。

(こんなにも、不自由だったっけ……)

無理に左手でやろうとすると、力が入りすぎて余計に疲れる。
焦るほどに、心まで重たくなった。

(……迷惑、かけてる)

誰かに何かを言われたわけじゃない。
でも、自分だけがこの流れについていけてないような気がしてならなかった。


昼休み。
コンビニで買ったおにぎりの包装すら、片手ではうまく開けられなかった。
何度も滑る指先。ようやく剥がせたときには、海苔が破れていた。

(……ごはん食べるだけでも、こんなに苦労するなんて)

机に突っ伏したくなる気持ちを堪え、ひと口だけ無理に食べる。
食欲はほとんどなく、それ以上、手は進まなかった。

崇雅の姿は近くにあるのに、なぜか遠い。
あの朝の出来事が、まるで夢だったように感じられるほど、
彼は何もなかったように仕事をこなしていた。

——いや。
きっと、何もなかったように「している」のだ。

(私が、全部……壊したから…)

沈黙は、雨音とともに深く、重たく積もっていく。
湿気がまとわりつくフロア。
並ぶ濡れた傘。
窓の外の光のない空が、澪の心と重なっていた。


午後の業務も終盤に差しかかる頃。
澪は資料をめくる手を止め、深くため息をついた。

利き手が使えないだけで、こんなにも仕事が進まないとは。
ミスしないように神経を張りつめすぎて、頭の奥がじんじんと痛む。

(ちゃんとやらなきゃ……)

でも焦れば焦るほど、空回りばかりが続いていた。

「結城さん。ちょっといい?」

不意にかけられた声に、はっと顔を上げる。
そこにいたのは、西岡だった。

「……はい?」

「このデータ、入力手伝おうか?」

「えっ、大丈夫です……自分でやれますから」

反射的にそう返したけれど、右手に力は入らず、左手では思うように操作できない。

「……じゃあ、こっちの資料のコピーと並行してみて。俺、入力やるから」

そう言って、澪の横に椅子を引いて腰掛ける。

「……あの、本当に大丈夫です。これ、私の仕事ですし」

「わかってる。でも——“仕事ができる人”ほど無理をするのも知ってる」

その言葉に、返す言葉が詰まった。

「怪我のことも、気持ちのことも。全部ひとりで抱え込まなくていいよ」

その声には、叱責も同情もなく、ただ静かな優しさがにじんでいた。
澪は俯いたまま、小さく頷く。

「……すみません」

「謝らなくていい。俺たちチームなんだから」

優しく言って、淡々とパソコンに向かう西岡の姿が、澪の心を少しだけほぐしてくれた。

けれど——

背後から視線を感じた気がして、そっと振り返る。
デスクの向こう、書類を見ていたはずの崇雅が、わずかに顔を上げていた。

その目は、何も言わないのに、どこか鋭く澪と西岡の距離を測っているように見えた。

(……見てた)

ただの先輩と後輩の会話。
なのに、どうして胸がざわつくのだろう。
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