【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな

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第71話・不安をほどく優しさ

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翌朝――土曜の午前。

ゆったりとした空気の中、ふたりはダイニングテーブルを挟んで朝食を囲んでいた。

澪は昨夜から、何度か言いかけては言葉を飲み込み、また黙る――それを繰り返していた。

崇雅は黙ってコーヒーを口に運びながらも、ふと澪に視線を向ける。

「……何か、気にしてるな」

「えっ?」

突然の指摘に、澪は思わず箸を止めた。

「さっきから、何度も黙り込んでる。……いつもより、箸も進んでない」

「……そう、ですか?」

無理に笑ってごまかそうとする澪。
けれど、崇雅の目はその先を見ていた。

「話せ。……俺に隠すな」

その言葉に、澪は少しだけ俯いて、ようやく小さく口を開いた。

「……明日、お兄さんに会うじゃないですか。
その……ちゃんとした服、持ってきてないなって、昨夜気づいて……」

「……」

「通勤用の服はあるけど、そういう場で着られるような服がなくて……」

澪は、言いながらだんだん声が小さくなる。
着ていく服がないから行けない、なんて言うつもりはない。

でも、彼の大切な人たちに会うのに、きちんとした格好ができないことが恥ずかしくて、情けない。

「……言いにくくて、黙っててごめんなさい」

崇雅は何も言わず、黙って澪を見つめていた。
そして、静かにカップを置くと、椅子から立ち上がる。

「……出かける準備、してくれ」

「え?」

「服を買いに行く。……澪のために」

「……っ!」

驚きとともに顔を上げた澪に、崇雅は穏やかな目で続けた。

「こういうときのために何も用意していないのは、澪のせいじゃない。
でも、俺の恋人として人に会わせるのに、恥をかかせるわけにはいかない」

「崇雅さん……」

「……澪のためだ。遠慮するな」

その一言に、胸が詰まって、澪は言葉を失った。
ただ、小さくうなずくことで精一杯だった。


身支度を整え、澪は崇雅の車で出かけた。
向かうのは都心の百貨店。
普段の休日とは少し違う緊張感を胸に、澪は助手席から街並みを眺めていた。

「……ほんとに、すみません。急にこんなことになって」

「もう謝るな。必要なことだ」

崇雅の言葉は短く、けれど優しかった。


百貨店の婦人服フロア。
崇雅は一通りブランドを見て回ったあと、澪に選択を任せた。

「……俺は詳しくない。店員と相談して決めていい」

「……わかりました。ありがとうございます」

澪は少し緊張しながらも、案内されたコーナーで店員に希望を伝えた。

「きちんとした場でも浮かない服が欲しくて……。あまり派手すぎないものがいいです」

店員は澪の雰囲気を見て、柔らかな色合いのセットアップや、上品なシルエットのワンピースを数点提案してくれた。

(どれも素敵……)

試着室でいくつか試したあと、淡いグレージュに細いベルトが付いたワンピースに決めた。
派手すぎず、けれど上質さが際立つ一着。

靴は足元に馴染むベージュのパンプス。
アクセサリーは華奢なパールのイヤリングとネックレス。
バッグも落ち着いた小ぶりのものを合わせた。

(全部、ちゃんと揃ってよかった……)

試着室で私服に着替えて出てくると、崇雅が手にいくつかの袋を提げて立っていた。

「……え? あの……お会計……?」

「もう済ませた」

「えっ、でも……!」

澪は慌てて財布に手を伸ばす。

「私、自分で買うつもりで……! だって、これは……!」

崇雅は彼女の動きを制するように、静かに言った。

「俺の兄に会うための服だ。俺が払うのが当然だろう」

「……でも……」

「礼儀だ。……それに、俺が“澪を迎えるために”用意したものとして、兄に会ってほしい」

言葉に込められたまっすぐな思いに、澪は返す言葉を失った。

しばらく黙っていたが、やがて小さく微笑んで、頭を下げる。

(そう言ってもらえるなんて……)

やがて、澪は小さく笑った。

「……ありがとうございます。選ぶのに付き合ってくれて……心強かったです」

ぽつりと零した澪の言葉に、崇雅はすぐに返事をせず、ただ静かにこちらを見ていた。
そして少しだけ眉をひそめ、そっぽを向く。

「……付き合っただけで、選んだのは、澪だ」

不器用な優しさの裏に隠された照れ。
その耳が、ほんのりと紅を差しているのを、澪は見逃さなかった。


買い物を終えて帰宅したころには、すでに日が傾きはじめていた。

澪は新しく手にした紙袋をそっと床に置いて、ふぅと息を吐く。
慣れない買い物で多少の疲れはあったけれど、それ以上に心が満たされていた。

「……用意できてよかった。明日、ちゃんと行けそうです」

リビングでジャケットを脱ぎながらそう言う澪に、崇雅は短く返す。

「ああ。似合ってた」

「……えっ?」

「さっきのワンピース。……澪によく似合ってた」

淡々としたその言葉に、澪の顔がぱっと赤く染まる。

「な、なんでそういうの……急に……」

「事実を言っただけだ」

さらりとしたその言い方が、余計にずるい。

(……ほんとにもう)

澪はそっと小さく肩をすくめた。


夕食のあと、ふたりはそれぞれ明日の準備を済ませた。

澪はワンピースをクローゼットにかけ、アクセサリーと靴を並べておく。
それだけで、少し背筋が伸びる気がした。

ホテルのラウンジで、崇雅の兄に会う――
緊張するのは当然だった。
でも今は、崇雅の隣に立つ自分に、少し誇りも持てる気がした。


夜。
寝室の灯りを落とし、澪はいつものように崇雅の隣で眠る準備をしていた。

「……明日、よろしくお願いします」

背を向けかけたところでつぶやくと、背中にぬくもりが触れた。

「心配するな。……澪を守るのは俺の役目だ」

「……はい」

静かな夜。
けれど、そのぬくもりには確かな絆があった。
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