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5 付き添いたい夫
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結婚して十日ほどしたその日、ローゼリアには結婚後初となる王宮の外での公務の予定が入っていた。
婚約者時代からローゼリアは、王太子の婚約者として孤児院の慰問を定期的に行なってきた。そして今日、それが王太子妃の公務として入れられていたのだ。
ローゼリアの公務に関係する予定は、夫であるヘンリックの元にも届いていた。朝晩共に食事の席に着いてはいても二人の間に会話はないので、ヘンリックがローゼリアの予定を知ったのは、王太子の決裁が必要な書類の中にローゼリアが孤児院へ出向く為の計画書があったからだった。
計画書にはローゼリアだけが出掛ける事になっていたのだが、ヘンリックは何とかして自分も一緒に行こうと思っていた。
結婚式があった為に執務が溜まっていたのは分かっていた。この機会を逃すと次にローゼリアが公務で外へ出るのは来月になる。それでは遅いとヘンリックは思っていた。
「お言葉ですが殿下、妃殿下にご同行されてしまっては午前中のこちらの執務が滞ってしまいます。これまでも妃殿下はお一人で行かれていらっしゃったのですから、殿下が同行されなくてもよろしいのでは?」
「来年には戴冠式もございますから、今のうちに少しでも地方領主たちの陳情書に目をお通しになられるかどうかで即位後の貴族たちの印象も違ってきます。今は一件でも多く陳情書へのご対応していただきたく思います」
側近二人から次々と反対されたヘンリックは一瞬怯んだが、何とか言い返そうとした時に思わぬところから助け舟が入った。
側近たちに言い返そうとしたヘンリックの味方をしたのはエーヴェルトだった。
「殿下は執務の為に結婚休暇をお取りする事が出来なかったのですから、大切な妃殿下との公務へ行かれるのもよろしいのでは? 陳情書は我が派閥の貴族家からの分でしたら私も受け持ちましょう」
そう笑顔で言ったのだった。
執務室にいた誰もが驚いた顔をして固まっていた。
皆は王太子夫妻が不仲だから、どちらからも結婚休暇の申請が無かった事を知っている。しかし王太子妃であるローゼリアの兄であるエーヴェルトは、まるで不仲などという事実は無かったかのうように“大切な妃殿下”と言い切ったのだ。
妃殿下を大切に思っているのはヘンリックではなく、妹を溺愛しているエーヴェルトの方だろう、と誰もが心の中で思ったが、言葉に出せる者はいなかった。
「え、……ああ、そうしてもらえると助かる」
当事者であるヘンリックですら困惑した表情を浮かべながら、エーヴェルトからの助け舟に乗るように答えた。
王太子の執務室には同世代の者しかいない。少し年上の文官はいるが、彼は子爵家出身の者だった。この中で身分が最も高いのは当然ヘンリックだが、その次は公爵家令息のエーヴェルトで、続いて侯爵家の者が一人いる他は伯爵家以下の家の者ばかりだった。
この場でエーヴェルトが王太子夫妻は執務の為に結婚休暇を取れなかったのだと言い、ヘンリックが否定をしなかった。そうなるとそれが事実となる。ヘンリックは結婚休暇を取らなかったのではなく、取れなかったのだと。
こうしてヘンリックはローゼリアの公務がある日に、彼女が乗る前に馬車に先に乗り込んで彼女を待つ事に成功したのだった。
◆◆◆
馬車に乗ろうとしたローゼリアは、馬車の中にヘンリックの姿を認めると、大きな瞳をさらに大きく見開いてから眉を寄せた。
「あら、乗る馬車を間違えたのかしら? 本日の公務は私一人のはずですのに」
ローゼリアは不快感を隠そうともせずに瞳を細める。
「今日は私も一緒に行こうと思って予定を空けたんだ」
ヘンリックはローゼリアに精いっぱいの笑顔を見せて手を差し出す。十一年間も婚約をしていたが、彼が彼女に笑顔を向けたのはこれが初めてだった。
「まあ、殿下はお暇ですのね」
そう嫌味を言いながらもローゼリアは素直にヘンリックの手を取り、馬車の中へ引き入れてもらった。
そうして馬車は走り出した。
「キミは以前から孤児院の慰問をしてくれていたね」
「ええ、最初は王太子殿下と婚約者との公務と聞いておりましたが、殿下は幼き頃よりお忙しいご様子でしたわね。本来は王太子妃の公務ですし、ご多忙な殿下のお手を煩わせるような事ではありませんの。で、す、か、ら、これまで通り私一人でも問題はありませんわ」
「……」
確か最初の数回はヘンリックもローゼリアと一緒に孤児院への慰問へは行っていたのだった。しかしヘンリックがローゼリアと行きたくないと言ったら、ヘンリックの予定にその公務は組み込まれなくなったのだ。当時は孤児院の慰問そのものがなくなったのだとヘンリックは都合良く考えていたのだった。
しかし、ヘンリックが行かなくなった後もローゼリアは一人でずっと公務を続けていた。その事を知ったのはつい最近で、そう思うと気まずい気持ちになり、ヘンリックからは何も言えなくなってしまった。
そしてお互いに何も話さないまま馬車は孤児院へと到着した。大した距離ではなかったハズなのに、ヘンリックにはとても長い時間馬車に乗っていたような気持ちになっていた。
馬車を降りたローゼリアはヘンリックの事など見向きもせずに、慣れた足取りで孤児院の敷地へと入って行くので、ヘンリックは慌ててローゼリアの後を追った。ヘンリックの後には護衛騎士たちが数人ほど付いてきた。
庭では孤児院で暮らしている子もたちが遊んでいたが、その中でも少し大きい数人の子どもたちがローゼリアの元へと掛け寄ってきた。
「こんにちは、ローゼリアさま」
「お久しぶりです、ローゼリアさま」
「ローゼリアさま、ご結婚おめでとうございます」
12、3歳くらいの子どもたちはローゼリアの側へ来ると、立ち止まってきちんと挨拶をする。
平民の子どもは礼儀を知らないと思っていたヘンリックは驚いた表情を浮かべた。
以前マリーナと一緒に街を歩いていた時、平民街のそばで平民と思われる子どもとマリーナがぶつかりそうになった事があった。
その時の子どもは一瞬驚いた表情を浮かべてから、くるりとすぐに背中を向けると謝りもせずに無言で平民街の方へ走って逃げてしまった。確かあれでマリーナの機嫌が悪くなってしまい、ヘンリックは彼女にネックレスを買うはめになってしまったのだった。
あの時のマリーナは平民の子どもは礼儀を知らず、衛生観念も低く薄汚れているから、あまり近付きたくないし、ぶつからなくて良かったと言っていた。
あの子どもは、くたびれた服を着てはいたが、マリーナが言うほど汚れている印象はなかった。
今、目の前にいる子どもたちも、着古した服を着てはいたがあの時の子どもと同じように顔や頭は汚れてはいないから、平民の子でもマリーナが言っていたほど衛生観念が低いとは思えなかった。
大きな子どもたちはローゼリアに挨拶をすると、頭を下げて小さな子どもたちの方へ行ってしまった。
「随分と礼儀正しい子どもたちなのだな」
「ええ、あの子たちはあと一年でここを出ないといけませんから、数カ月ほど前から礼儀作法を教えていますの」
「孤児院ではそのような事を教えているのか?」
「定期的にフォレスターの使用人を家庭教師として派遣していますのよ。その家庭教師も元はこの孤児院を出た者なのです。全員が貴族家で働く事は無理でも、小さな頃から読み書きと計算も教えていますから、商家の下働きくらいは出来るようにしていますわ」
少し離れた木の下では小さな子どもたちが固まっていて、様子を伺うようにローゼリアとヘンリックをじっと見つめている。ローゼリアは自分からその子どもたちへ近づくと、ドレスに土が付いてしまうのも気にせずにしゃがんみ込んで彼らと何かを話し始める。子どもたちは時々笑顔を浮かべていて、ローゼリアは背中を向けていたのでどんな表情をしているのかは分からなかったが、子どもの頭を撫でてやっていた。
ヘンリックが子どもたちとローゼリアの様子を少し離れた場所から見ていたら、孤児院の建物のドアが開き、平民と思われる中年の男性と女性が姿を現した。
二人はまず、ヘンリックへ近づいて挨拶をする。
「王太子殿下、この度はご結婚おめでとうございます。妃殿下にはご令嬢時代から当院は良くしていただいております」
そう言って男性と女性が頭を下げる。
「いや、頭を上げてくれ。ローゼリアはよく公務でここへ来るのか?」
「ええ、他の孤児院や救護医院へも訪問されていらっしゃいますので、ウチにお見えになられるのは公務としては数カ月に一度ですが、個人的にはもっとおいでになられていらっしゃいますし、ローゼリア様のお名前でいつも寄付までいただいております。先日のご成婚のパレードの時は、ひとめ妃殿下をお見かけしたいと、皆で大通りに行ったのですが、私どもにお気付きになられて妃殿下は、私どもに笑顔を向けてお手をお振りになって下さいました。子どもたちがそれはもう喜んでおりました。さらにパレードを見に来てくれたお礼だと、妃殿下のお名前で数日前にはお菓子まで頂きまして、本当に良くしていただいております」
「……殿下」
その時ヘンリックの背後にいた騎士から声を掛けられたので振り向くと彼は大きなバスケットを手にしていた。上から布がかけられていたので何が入っているのかはわからなかった。騎士の顔をよく見たら、今回の公務に連れてきている騎士は皆、ローゼリアがフォレスターから連れてきた騎士たちだった。
彼らはこの場所に何度も来ているのか、子どもたちも騎士たちに慣れている様子だし、抱え上げたりして子どもと遊び始める騎士もいた。
騎士からバスケットを渡されたヘンリックは、よくわからないままに院の代表者と思われる男性に渡した。
恭しくバスケットを受け取った男性が布を取ると、バスケットの中にはカップケーキがたくさん入っていた。
「本当にいつも、ありがとうございます」
男性がそう言ってすぐに、バスケットに気付いた子どもたちが何人か寄ってきた。
「わぁ! ロゼさまのおうちのお菓子だー!」
「ねえ、いつたべるのお? はやくロゼさまのお菓子、たべたいよお」
「ロゼさまありがとうございまーす!」
甘いお菓子の登場に子どもたちは皆が喜び、バスケットを持っている男性の元へ来る子どもや、ローゼリアに礼を言いに駆け寄る子どもで庭はとても賑やかだった。
やがて騎士たちに子どもたちを任せたローゼリアが、両手にそれぞれ小さな子の手を繋ぎながらヘンリックたちの元へやってきた。
孤児院の代表をしている男性が深く頭を下げる。
「妃殿下、この度はご結婚おめでとうございます」
「ふふふ、妃殿下なんて恥ずかしいですわ。今日も子どもたちは皆元気そうですわね。ちゃんと食べる事ができているようで良かったわ」
「ええ、それはもう妃殿下とフォレスター家の方々のお陰です」
「気にしないで、私もここに来るのは楽しみにしているのよ」
そう言ってローゼリアはころころと笑うのだった。
帰りの馬車の中でヘンリックはローゼリアに尋ねたいことがいくつかあった。
「あのバスケットの中の菓子はフォレスターからか?」
「ええ、王宮の料理人を信頼していない訳ではないのですが、子どもたちが食べ慣れた好きな味ですので。それに子どもたちに渡すのなら素朴な味の方がいいと思いますの。王宮で出す菓子の味を覚えてしまうのは可愛そうですわ。その点フォレスター家の料理人は慣れていますから、出仕した兄から今朝受け取りましたのよ」
「子どもたちにはキミはいつも素顔で会っていたのか? 化粧を変えたキミの顔を見ても誰も驚いていなかった」
「え? ……あれは私の白い顔が怖いと怯えたり、泣き出す子が何人もいたので、孤児院の慰問の時だけは白粉は控えていましたの」
「どうして以前のキミは、あんなに顔を白く塗っていたのだ?」
「ランゲルでは白い顔が良いとされているからですわ」
「……そうか。今でも充分白いと私は思うのだが」
「……」
孤児院にいた時はあんなに良い笑顔を見せていたローゼリアだったが、馬車に入るとその笑顔は消えていた。そしてヘンリックの顔は見ず、下を向いたまま淡々とした口調でヘンリックの問いに答えるのだった。婚約者だった頃とは違って、彼女から話しかける事はほとんど無くなっていて、結婚してからの彼らの関係は、すっかり逆転していた。
かつての自分がそうであったように、彼女にとって今この時は楽しくない、きっとそういう事なのだろう。
ローゼリアの固い表情に、ヘンリックはこれ以上彼女との会話を続ける事が出来なかった。
婚約者時代は義務と責任感でローゼリアは辛抱強くヘンリックに話し掛けていたのだが、彼女ほど強くはないヘンリックにはそれが出来なかった。
婚約者時代からローゼリアは、王太子の婚約者として孤児院の慰問を定期的に行なってきた。そして今日、それが王太子妃の公務として入れられていたのだ。
ローゼリアの公務に関係する予定は、夫であるヘンリックの元にも届いていた。朝晩共に食事の席に着いてはいても二人の間に会話はないので、ヘンリックがローゼリアの予定を知ったのは、王太子の決裁が必要な書類の中にローゼリアが孤児院へ出向く為の計画書があったからだった。
計画書にはローゼリアだけが出掛ける事になっていたのだが、ヘンリックは何とかして自分も一緒に行こうと思っていた。
結婚式があった為に執務が溜まっていたのは分かっていた。この機会を逃すと次にローゼリアが公務で外へ出るのは来月になる。それでは遅いとヘンリックは思っていた。
「お言葉ですが殿下、妃殿下にご同行されてしまっては午前中のこちらの執務が滞ってしまいます。これまでも妃殿下はお一人で行かれていらっしゃったのですから、殿下が同行されなくてもよろしいのでは?」
「来年には戴冠式もございますから、今のうちに少しでも地方領主たちの陳情書に目をお通しになられるかどうかで即位後の貴族たちの印象も違ってきます。今は一件でも多く陳情書へのご対応していただきたく思います」
側近二人から次々と反対されたヘンリックは一瞬怯んだが、何とか言い返そうとした時に思わぬところから助け舟が入った。
側近たちに言い返そうとしたヘンリックの味方をしたのはエーヴェルトだった。
「殿下は執務の為に結婚休暇をお取りする事が出来なかったのですから、大切な妃殿下との公務へ行かれるのもよろしいのでは? 陳情書は我が派閥の貴族家からの分でしたら私も受け持ちましょう」
そう笑顔で言ったのだった。
執務室にいた誰もが驚いた顔をして固まっていた。
皆は王太子夫妻が不仲だから、どちらからも結婚休暇の申請が無かった事を知っている。しかし王太子妃であるローゼリアの兄であるエーヴェルトは、まるで不仲などという事実は無かったかのうように“大切な妃殿下”と言い切ったのだ。
妃殿下を大切に思っているのはヘンリックではなく、妹を溺愛しているエーヴェルトの方だろう、と誰もが心の中で思ったが、言葉に出せる者はいなかった。
「え、……ああ、そうしてもらえると助かる」
当事者であるヘンリックですら困惑した表情を浮かべながら、エーヴェルトからの助け舟に乗るように答えた。
王太子の執務室には同世代の者しかいない。少し年上の文官はいるが、彼は子爵家出身の者だった。この中で身分が最も高いのは当然ヘンリックだが、その次は公爵家令息のエーヴェルトで、続いて侯爵家の者が一人いる他は伯爵家以下の家の者ばかりだった。
この場でエーヴェルトが王太子夫妻は執務の為に結婚休暇を取れなかったのだと言い、ヘンリックが否定をしなかった。そうなるとそれが事実となる。ヘンリックは結婚休暇を取らなかったのではなく、取れなかったのだと。
こうしてヘンリックはローゼリアの公務がある日に、彼女が乗る前に馬車に先に乗り込んで彼女を待つ事に成功したのだった。
◆◆◆
馬車に乗ろうとしたローゼリアは、馬車の中にヘンリックの姿を認めると、大きな瞳をさらに大きく見開いてから眉を寄せた。
「あら、乗る馬車を間違えたのかしら? 本日の公務は私一人のはずですのに」
ローゼリアは不快感を隠そうともせずに瞳を細める。
「今日は私も一緒に行こうと思って予定を空けたんだ」
ヘンリックはローゼリアに精いっぱいの笑顔を見せて手を差し出す。十一年間も婚約をしていたが、彼が彼女に笑顔を向けたのはこれが初めてだった。
「まあ、殿下はお暇ですのね」
そう嫌味を言いながらもローゼリアは素直にヘンリックの手を取り、馬車の中へ引き入れてもらった。
そうして馬車は走り出した。
「キミは以前から孤児院の慰問をしてくれていたね」
「ええ、最初は王太子殿下と婚約者との公務と聞いておりましたが、殿下は幼き頃よりお忙しいご様子でしたわね。本来は王太子妃の公務ですし、ご多忙な殿下のお手を煩わせるような事ではありませんの。で、す、か、ら、これまで通り私一人でも問題はありませんわ」
「……」
確か最初の数回はヘンリックもローゼリアと一緒に孤児院への慰問へは行っていたのだった。しかしヘンリックがローゼリアと行きたくないと言ったら、ヘンリックの予定にその公務は組み込まれなくなったのだ。当時は孤児院の慰問そのものがなくなったのだとヘンリックは都合良く考えていたのだった。
しかし、ヘンリックが行かなくなった後もローゼリアは一人でずっと公務を続けていた。その事を知ったのはつい最近で、そう思うと気まずい気持ちになり、ヘンリックからは何も言えなくなってしまった。
そしてお互いに何も話さないまま馬車は孤児院へと到着した。大した距離ではなかったハズなのに、ヘンリックにはとても長い時間馬車に乗っていたような気持ちになっていた。
馬車を降りたローゼリアはヘンリックの事など見向きもせずに、慣れた足取りで孤児院の敷地へと入って行くので、ヘンリックは慌ててローゼリアの後を追った。ヘンリックの後には護衛騎士たちが数人ほど付いてきた。
庭では孤児院で暮らしている子もたちが遊んでいたが、その中でも少し大きい数人の子どもたちがローゼリアの元へと掛け寄ってきた。
「こんにちは、ローゼリアさま」
「お久しぶりです、ローゼリアさま」
「ローゼリアさま、ご結婚おめでとうございます」
12、3歳くらいの子どもたちはローゼリアの側へ来ると、立ち止まってきちんと挨拶をする。
平民の子どもは礼儀を知らないと思っていたヘンリックは驚いた表情を浮かべた。
以前マリーナと一緒に街を歩いていた時、平民街のそばで平民と思われる子どもとマリーナがぶつかりそうになった事があった。
その時の子どもは一瞬驚いた表情を浮かべてから、くるりとすぐに背中を向けると謝りもせずに無言で平民街の方へ走って逃げてしまった。確かあれでマリーナの機嫌が悪くなってしまい、ヘンリックは彼女にネックレスを買うはめになってしまったのだった。
あの時のマリーナは平民の子どもは礼儀を知らず、衛生観念も低く薄汚れているから、あまり近付きたくないし、ぶつからなくて良かったと言っていた。
あの子どもは、くたびれた服を着てはいたが、マリーナが言うほど汚れている印象はなかった。
今、目の前にいる子どもたちも、着古した服を着てはいたがあの時の子どもと同じように顔や頭は汚れてはいないから、平民の子でもマリーナが言っていたほど衛生観念が低いとは思えなかった。
大きな子どもたちはローゼリアに挨拶をすると、頭を下げて小さな子どもたちの方へ行ってしまった。
「随分と礼儀正しい子どもたちなのだな」
「ええ、あの子たちはあと一年でここを出ないといけませんから、数カ月ほど前から礼儀作法を教えていますの」
「孤児院ではそのような事を教えているのか?」
「定期的にフォレスターの使用人を家庭教師として派遣していますのよ。その家庭教師も元はこの孤児院を出た者なのです。全員が貴族家で働く事は無理でも、小さな頃から読み書きと計算も教えていますから、商家の下働きくらいは出来るようにしていますわ」
少し離れた木の下では小さな子どもたちが固まっていて、様子を伺うようにローゼリアとヘンリックをじっと見つめている。ローゼリアは自分からその子どもたちへ近づくと、ドレスに土が付いてしまうのも気にせずにしゃがんみ込んで彼らと何かを話し始める。子どもたちは時々笑顔を浮かべていて、ローゼリアは背中を向けていたのでどんな表情をしているのかは分からなかったが、子どもの頭を撫でてやっていた。
ヘンリックが子どもたちとローゼリアの様子を少し離れた場所から見ていたら、孤児院の建物のドアが開き、平民と思われる中年の男性と女性が姿を現した。
二人はまず、ヘンリックへ近づいて挨拶をする。
「王太子殿下、この度はご結婚おめでとうございます。妃殿下にはご令嬢時代から当院は良くしていただいております」
そう言って男性と女性が頭を下げる。
「いや、頭を上げてくれ。ローゼリアはよく公務でここへ来るのか?」
「ええ、他の孤児院や救護医院へも訪問されていらっしゃいますので、ウチにお見えになられるのは公務としては数カ月に一度ですが、個人的にはもっとおいでになられていらっしゃいますし、ローゼリア様のお名前でいつも寄付までいただいております。先日のご成婚のパレードの時は、ひとめ妃殿下をお見かけしたいと、皆で大通りに行ったのですが、私どもにお気付きになられて妃殿下は、私どもに笑顔を向けてお手をお振りになって下さいました。子どもたちがそれはもう喜んでおりました。さらにパレードを見に来てくれたお礼だと、妃殿下のお名前で数日前にはお菓子まで頂きまして、本当に良くしていただいております」
「……殿下」
その時ヘンリックの背後にいた騎士から声を掛けられたので振り向くと彼は大きなバスケットを手にしていた。上から布がかけられていたので何が入っているのかはわからなかった。騎士の顔をよく見たら、今回の公務に連れてきている騎士は皆、ローゼリアがフォレスターから連れてきた騎士たちだった。
彼らはこの場所に何度も来ているのか、子どもたちも騎士たちに慣れている様子だし、抱え上げたりして子どもと遊び始める騎士もいた。
騎士からバスケットを渡されたヘンリックは、よくわからないままに院の代表者と思われる男性に渡した。
恭しくバスケットを受け取った男性が布を取ると、バスケットの中にはカップケーキがたくさん入っていた。
「本当にいつも、ありがとうございます」
男性がそう言ってすぐに、バスケットに気付いた子どもたちが何人か寄ってきた。
「わぁ! ロゼさまのおうちのお菓子だー!」
「ねえ、いつたべるのお? はやくロゼさまのお菓子、たべたいよお」
「ロゼさまありがとうございまーす!」
甘いお菓子の登場に子どもたちは皆が喜び、バスケットを持っている男性の元へ来る子どもや、ローゼリアに礼を言いに駆け寄る子どもで庭はとても賑やかだった。
やがて騎士たちに子どもたちを任せたローゼリアが、両手にそれぞれ小さな子の手を繋ぎながらヘンリックたちの元へやってきた。
孤児院の代表をしている男性が深く頭を下げる。
「妃殿下、この度はご結婚おめでとうございます」
「ふふふ、妃殿下なんて恥ずかしいですわ。今日も子どもたちは皆元気そうですわね。ちゃんと食べる事ができているようで良かったわ」
「ええ、それはもう妃殿下とフォレスター家の方々のお陰です」
「気にしないで、私もここに来るのは楽しみにしているのよ」
そう言ってローゼリアはころころと笑うのだった。
帰りの馬車の中でヘンリックはローゼリアに尋ねたいことがいくつかあった。
「あのバスケットの中の菓子はフォレスターからか?」
「ええ、王宮の料理人を信頼していない訳ではないのですが、子どもたちが食べ慣れた好きな味ですので。それに子どもたちに渡すのなら素朴な味の方がいいと思いますの。王宮で出す菓子の味を覚えてしまうのは可愛そうですわ。その点フォレスター家の料理人は慣れていますから、出仕した兄から今朝受け取りましたのよ」
「子どもたちにはキミはいつも素顔で会っていたのか? 化粧を変えたキミの顔を見ても誰も驚いていなかった」
「え? ……あれは私の白い顔が怖いと怯えたり、泣き出す子が何人もいたので、孤児院の慰問の時だけは白粉は控えていましたの」
「どうして以前のキミは、あんなに顔を白く塗っていたのだ?」
「ランゲルでは白い顔が良いとされているからですわ」
「……そうか。今でも充分白いと私は思うのだが」
「……」
孤児院にいた時はあんなに良い笑顔を見せていたローゼリアだったが、馬車に入るとその笑顔は消えていた。そしてヘンリックの顔は見ず、下を向いたまま淡々とした口調でヘンリックの問いに答えるのだった。婚約者だった頃とは違って、彼女から話しかける事はほとんど無くなっていて、結婚してからの彼らの関係は、すっかり逆転していた。
かつての自分がそうであったように、彼女にとって今この時は楽しくない、きっとそういう事なのだろう。
ローゼリアの固い表情に、ヘンリックはこれ以上彼女との会話を続ける事が出来なかった。
婚約者時代は義務と責任感でローゼリアは辛抱強くヘンリックに話し掛けていたのだが、彼女ほど強くはないヘンリックにはそれが出来なかった。
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