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6話
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王都の城門が見えたとき、胸の奥がきゅっと縮んだ。
遠くから眺める王都は、いつだって完璧に見える。白い城壁、整った街路、塔の上で光る旗。
けれど近づくにつれて、完璧の継ぎ目が見えてきた。
人の流れが歪んでいる。露店の声が少ない。衛兵の動きが硬い。
“回っていない”町の匂いが漂ってくる。
馬車の窓から、私は市場を覗いた。果物の籠が半分しか埋まっていない。水を売る桶の前に、人が集まっている。値札に書かれた数字は、私の記憶より高い。
その数字の高さは、怒りではなく、恐怖を呼ぶ。
恐怖に対して、人間の正気は案外もろい。
「レティシア・アルヴェーン様」
城門の内側で待っていた役人が、私をそう呼んだ。
“様”。
追放のときには聞かなかった呼び方だ。
私はその礼儀に、嬉しさではなく、遅すぎる現実味を感じた。
「案内します。謁見の間へ。……本日は公開の場となっております」
役人は目を伏せたまま言った。
公開。
私が条件として置いた言葉が、ここに形になっている。
それは同時に、私が逃げられないという意味でもある。
逃げるつもりはない。けれど、逃げ道がないことは、いつだって人を少しだけ躊躇させる。
廊下を歩く。石の冷たさが靴越しでも足の裏に伝わる。
周りに目を向けると、壁の装飾は変わっていないのに、空気が違う。
数か月しか経っていないのに、なんだか知らない場所みたいに感じた。
やがて、謁見の間の扉の前に着いた。
ここに立つと、あの舞踏会の夜が背中に重なる気がする。磨かれた床、光、視線。
私は一度、ゆっくり息を吸って吐いた。
香油の匂いが薄い。代わりに、焦げた紙の匂いがする。役所の書類が擦れて、空気が荒れているのだろうか。
扉が開く。
謁見の間は、舞踏会の広間より少し狭い。
けれど視線の密度は、あの夜と同じくらい濃かった。
貴族たち。役人たち。商会の代表らしき男たち。
そして、最後列には民の代表として呼ばれたのか、粗末な服の者もいる。
公開の場――つまり、ここでの言葉は、ここだけに留まらない。
正面の高座に王太子エドワード殿下がいる。
隣には聖女セシル。
二人の配置はあの夜と変わっていないのに、なんだか見え方が違うように感じた。
殿下の顔には、疲れがある。
セシルの白いドレスは今も柔らかいが、その向こうに、焦りが透ける。
殿下が私に顔を向ける。
目が合った瞬間、私は思った。
この人は、私を必要としている。
けれど必要の仕方が、変わっていない。
「レティシア」
殿下が名を呼ぶ。舞踏会のときとは違い、今は少しだけ柔らかい。
柔らかさが戻ったのは、反省ではなく、困窮のせいだろう。
「戻ってきてくれたな。国が……混乱している」
私は膝を折り、頭を下げて礼をした。
礼をするのは屈服ではない。ここが制度の場所だからだ。
顔を上げ、私は言った。
「条件を整えたうえで参りました。本日は公開監査の場と承っております」
その言葉が落ちると、広間に小さな緊張が走った。
公開監査。
その響きは、腹に何か隠している貴族にとって剣より鋭い。
殿下が咳払いをした。
「そうだ。君の……望み通りに」
“望み”。
私の望みではない。
必要だと判断した条件だ。
けれど、今それを訂正しても意味がない。私はここに、“言葉”による勝ち負けをしにきたわけではない。
私は視線を少し横にやった。
書記官席に、見覚えのある男が座っている。財務院の書記官長だ。顔色が悪い。
その隣に、大きな記録水晶が置かれていた。
王国の正式記録庫から運ばれてきたものだろう。人の頭ほどの大きさで、底に銀の台座がついている。
水晶の内側に、わずかな光が眠っている。
促されて、私は一歩前へ出た。
床の光が足元に落ちる。舞踏会の夜のように“裁く光”ではない。
今は私が、光を“使う側”に立っているようだった。
「まず、干ばつ救済基金について説明いたします」
私の声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
落ち着いているのは、感情がないからではない。
感情を手順に変えて、その正しさを信じているからだ。
「基金の原資は、王国の臨時徴税分、商会からの寄付、そして聖女セシル様が呼びかけて集まった寄付金です」
ここで、セシルの肩がわずかに震えたのが目に入った。
だが、私は見なかったふりをする。
誰かを責めるために、ここに立っているのではない。
責任の所在を、記録で固定するために立っているのだ。
「次に、支出の流れを説明します」
私は書記官長に目配せした。
彼が恐る恐る頷き、記録水晶の台座に触れる。
銀の台が、淡い音を立てたように光った。
水晶の内側に薄い光が走り、空中に線が浮かび上がる。
線は文字になり、数字になり、簡潔な表に組み変わる。
それは魔法というより、“記録を見える形にする道具”だった。
光は眩しくないし、目にも刺さらない。
ただ、真実からの逃げ場をなくすだけ。
――これが、記録の魔法。
嘘を真実にする魔法ではない。
真実を隠せなくする魔法。
「こちらが、基金の入金記録です」
私は指先で空中の表をなぞる。触れているわけではないのに、指の動きに合わせて表の行が淡く縁取られる。
見せるべきところが、自然に浮かぶようになっている。
王国の記録庫の水晶は、こういう“閲覧の手順”まで組み込まれているのだと、私は少しだけ感心した。
記録を読む者が、迷わないように。
「そして、こちらが支出。干ばつ対応として承認された項目です」
幾つもの項目が並ぶ。
井戸修繕。水路工事。穀物購入。輸送費。護衛費。
ここまでは、誰もが頷ける。
私は一度、息を吸った。
次の行から、空気が変わる。
「……次に、用途変更」
その言葉が出た瞬間、貴族たちの扇が一斉に止まった。
扇の動きが止まると、音が消える。
音が消えると、かすかな息遣いも聞こえるようになる。
「用途変更とは、基金の使用目的を別の項目へ移す手続きです。緊急時には必要です。ですが、記録が残り、決裁者が明記されます」
私は水晶の表を少しだけ下へ送った。
行が切り替わり、用途変更の履歴が現れる。
そこに並ぶのは、短い文と、日付と、決裁者の名。
名は――ひとつではなかった。
複数の貴族の名があった。
そして、その一番上に、王太子の補佐官の名があった。
わざわざ、名を読み上げたりはしない。
読み上げなくても、本人たちは自分の名を見つける。
人は、生まれたときから共にある自分の名は見逃さない。
「この用途変更により、井戸修繕費が一部削られています」
会場がざわめき立つ中で、私は続けた。
「代わりに計上されたのは、王都の祭典運営費。……そして、宮廷の慰問事業費」
慰問事業。
それ自体は美しい言葉だ。
ただ、その美しい言葉の裏側に何かがあることを、私は知っている。
「慰問事業費の内訳を表示します」
水晶に触れた書記官長の手が、わずかに震えた。
震えるのは当然だ。ここで震えない人間がいるなら、それは上手に嘘をつける人間だ。
内訳が浮かぶ。
高価な布。飾り花。飲食。舞台設営。贈答品。
干ばつで水が足りない国が、花を買う。
その矛盾が、文字の並びだけで突き刺さる。
私はそこで、ようやく殿下を見た。
疲れが見えていた顔色が、さらに悪くなっている。
知らなかったのか。知っていたのか。
どちらにしても、今この場での答えは同じだ。
その責任は、溶けない。
「次に、支払い遅延について」
私は殿下の様子を無視して、話を進める。
この公開監査は、復讐心の爆発が目的ではない。
真実を取り戻す、その手順の完了だ。
「支払いが遅れた理由は単純です。基金の流用で現金が不足し、さらに決裁記録が停止したため、誰も判を押せなくなった」
決裁記録。
その言葉だけで、財務院の役人たちの背筋が固くなる。
決裁記録は、王国の仕組みの骨だ。
骨が折れれば、体はまっすぐ立てない。
「決裁記録が停止したのは、私が追放された翌日」
その日付を示すと、会場が一瞬だけ凍った。
日付は魔法より強い。
日付は、物語を無力化する。
「停止命令を出したのは、こちら」
水晶の表に、短い命令書が浮かぶ。
命令書には、王太子印の写しがある。
押したのは殿下か、殿下の名を使った誰かか。
しかし印は印だ。印がある限り、責任は殿下に帰ってくる。
殿下が小さく息を呑んだ。
その息は、言い訳を発する前の呼吸だった。
私は、言い訳を許す余地を作らないように、淡々と続けた。
「この停止により、用途変更の履歴が追えなくなり、“消えた”ように見えた支出はそのままに。結果として、横領の疑いを晴らすことは不可能になりました」
“疑いを晴らす”。
その言葉を、私はできるだけ事務的に言った。
もし怒りを混ぜれば、それは人間個人の争いになる。
私は、仕組みの犯罪として提示したい。
「以上が、基金に関する記録です」
私は、ゆっくりと一礼した。
広間は静かだった。
静かすぎて、怖いほどだった。
誰も拍手しない。
誰も声をあげない。
ただ、空気が確実に変わっている。
人々は今、理解している。
“消えた”のではない。
“動かされた”のだと。
しかもそれは、聖女の涙でも、王太子の言葉でも隠せない形で残っていると。
私は次の段階へ進むために、水晶の表示を切り替えた。
そこには、もう一つの項目が浮かび上がる。
――聖女セシルの寄付金。
セシルに目を向けると、その指先が胸元で小さく動いた。
そしてあの夜のように、指輪が一瞬だけ光を拾った。
私はその光を、今度は確かに見た。
模造の決裁印。
記録の前では、飾りの光はただの嘘の反射にしかならない。
「続いて、聖女様が集められた寄付金について」
私は声の調子を変えずに続ける。
そうすることで、感情ではなく手順だと周囲に示す。
「寄付金は確かに集まりました。ですが、支払いの宛先が曖昧で、受領の署名が不足しています」
不足。
それは責めるための言葉ではない。
正しい会計を追求するための言葉だ。
その言葉は、優しい顔をしない。
その代わり、誰も特別扱いしない。
私は水晶の中の一覧を、淡々と示した。
欠けている署名。
一致しない日付。
説明のない用途。
「以上です」
言い終えた瞬間、私は初めて、自分の肩が少しだけ軽くなっているのを感じた。
記録は、私の味方ではない。
記録は、ただそこにある。
ただそこにあるものを、見える形にしただけだ。
それでも、私は思う。
舞踏会で私を裁いた“空気”より、これの方がずっと公平だと。
殿下が口を開いた。
そして、何かを言おうとするが言葉にならず、口をつぐんだ。
私はそれを、遮らない。
遮らない代わりに、逃げ道を残さない。
逃げ道を残さないことが、今日の私の仕事だ。
「殿下」
私は丁寧に呼びかけた。
「この記録を前提に、次に確認すべきは“誰が何を決めたか”です。責任の所在が明確になれば、支払いは再開できます。配給も戻せます。ですが――」
私はそこで少しだけ間を置いた。
間は、言葉より強いときがある。
「――背負うべき責任が溶けたままでは、何も戻りません」
殿下の目が揺れた。
その揺れは反省ではない。
おそらく、恐れだ。
自分が“守られる側”ではなく、“問われる側”になった恐れ。
広間の空気は、静かなまま硬くなる。
硬くなるほど、嘘は息ができない。
私は水晶の光を、そっと消した。
光が消えると、余計な眩しさがなくなり、残るのは人の表情だけになる。
ここから先は、もう少しだけ――残酷になる。
遠くから眺める王都は、いつだって完璧に見える。白い城壁、整った街路、塔の上で光る旗。
けれど近づくにつれて、完璧の継ぎ目が見えてきた。
人の流れが歪んでいる。露店の声が少ない。衛兵の動きが硬い。
“回っていない”町の匂いが漂ってくる。
馬車の窓から、私は市場を覗いた。果物の籠が半分しか埋まっていない。水を売る桶の前に、人が集まっている。値札に書かれた数字は、私の記憶より高い。
その数字の高さは、怒りではなく、恐怖を呼ぶ。
恐怖に対して、人間の正気は案外もろい。
「レティシア・アルヴェーン様」
城門の内側で待っていた役人が、私をそう呼んだ。
“様”。
追放のときには聞かなかった呼び方だ。
私はその礼儀に、嬉しさではなく、遅すぎる現実味を感じた。
「案内します。謁見の間へ。……本日は公開の場となっております」
役人は目を伏せたまま言った。
公開。
私が条件として置いた言葉が、ここに形になっている。
それは同時に、私が逃げられないという意味でもある。
逃げるつもりはない。けれど、逃げ道がないことは、いつだって人を少しだけ躊躇させる。
廊下を歩く。石の冷たさが靴越しでも足の裏に伝わる。
周りに目を向けると、壁の装飾は変わっていないのに、空気が違う。
数か月しか経っていないのに、なんだか知らない場所みたいに感じた。
やがて、謁見の間の扉の前に着いた。
ここに立つと、あの舞踏会の夜が背中に重なる気がする。磨かれた床、光、視線。
私は一度、ゆっくり息を吸って吐いた。
香油の匂いが薄い。代わりに、焦げた紙の匂いがする。役所の書類が擦れて、空気が荒れているのだろうか。
扉が開く。
謁見の間は、舞踏会の広間より少し狭い。
けれど視線の密度は、あの夜と同じくらい濃かった。
貴族たち。役人たち。商会の代表らしき男たち。
そして、最後列には民の代表として呼ばれたのか、粗末な服の者もいる。
公開の場――つまり、ここでの言葉は、ここだけに留まらない。
正面の高座に王太子エドワード殿下がいる。
隣には聖女セシル。
二人の配置はあの夜と変わっていないのに、なんだか見え方が違うように感じた。
殿下の顔には、疲れがある。
セシルの白いドレスは今も柔らかいが、その向こうに、焦りが透ける。
殿下が私に顔を向ける。
目が合った瞬間、私は思った。
この人は、私を必要としている。
けれど必要の仕方が、変わっていない。
「レティシア」
殿下が名を呼ぶ。舞踏会のときとは違い、今は少しだけ柔らかい。
柔らかさが戻ったのは、反省ではなく、困窮のせいだろう。
「戻ってきてくれたな。国が……混乱している」
私は膝を折り、頭を下げて礼をした。
礼をするのは屈服ではない。ここが制度の場所だからだ。
顔を上げ、私は言った。
「条件を整えたうえで参りました。本日は公開監査の場と承っております」
その言葉が落ちると、広間に小さな緊張が走った。
公開監査。
その響きは、腹に何か隠している貴族にとって剣より鋭い。
殿下が咳払いをした。
「そうだ。君の……望み通りに」
“望み”。
私の望みではない。
必要だと判断した条件だ。
けれど、今それを訂正しても意味がない。私はここに、“言葉”による勝ち負けをしにきたわけではない。
私は視線を少し横にやった。
書記官席に、見覚えのある男が座っている。財務院の書記官長だ。顔色が悪い。
その隣に、大きな記録水晶が置かれていた。
王国の正式記録庫から運ばれてきたものだろう。人の頭ほどの大きさで、底に銀の台座がついている。
水晶の内側に、わずかな光が眠っている。
促されて、私は一歩前へ出た。
床の光が足元に落ちる。舞踏会の夜のように“裁く光”ではない。
今は私が、光を“使う側”に立っているようだった。
「まず、干ばつ救済基金について説明いたします」
私の声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
落ち着いているのは、感情がないからではない。
感情を手順に変えて、その正しさを信じているからだ。
「基金の原資は、王国の臨時徴税分、商会からの寄付、そして聖女セシル様が呼びかけて集まった寄付金です」
ここで、セシルの肩がわずかに震えたのが目に入った。
だが、私は見なかったふりをする。
誰かを責めるために、ここに立っているのではない。
責任の所在を、記録で固定するために立っているのだ。
「次に、支出の流れを説明します」
私は書記官長に目配せした。
彼が恐る恐る頷き、記録水晶の台座に触れる。
銀の台が、淡い音を立てたように光った。
水晶の内側に薄い光が走り、空中に線が浮かび上がる。
線は文字になり、数字になり、簡潔な表に組み変わる。
それは魔法というより、“記録を見える形にする道具”だった。
光は眩しくないし、目にも刺さらない。
ただ、真実からの逃げ場をなくすだけ。
――これが、記録の魔法。
嘘を真実にする魔法ではない。
真実を隠せなくする魔法。
「こちらが、基金の入金記録です」
私は指先で空中の表をなぞる。触れているわけではないのに、指の動きに合わせて表の行が淡く縁取られる。
見せるべきところが、自然に浮かぶようになっている。
王国の記録庫の水晶は、こういう“閲覧の手順”まで組み込まれているのだと、私は少しだけ感心した。
記録を読む者が、迷わないように。
「そして、こちらが支出。干ばつ対応として承認された項目です」
幾つもの項目が並ぶ。
井戸修繕。水路工事。穀物購入。輸送費。護衛費。
ここまでは、誰もが頷ける。
私は一度、息を吸った。
次の行から、空気が変わる。
「……次に、用途変更」
その言葉が出た瞬間、貴族たちの扇が一斉に止まった。
扇の動きが止まると、音が消える。
音が消えると、かすかな息遣いも聞こえるようになる。
「用途変更とは、基金の使用目的を別の項目へ移す手続きです。緊急時には必要です。ですが、記録が残り、決裁者が明記されます」
私は水晶の表を少しだけ下へ送った。
行が切り替わり、用途変更の履歴が現れる。
そこに並ぶのは、短い文と、日付と、決裁者の名。
名は――ひとつではなかった。
複数の貴族の名があった。
そして、その一番上に、王太子の補佐官の名があった。
わざわざ、名を読み上げたりはしない。
読み上げなくても、本人たちは自分の名を見つける。
人は、生まれたときから共にある自分の名は見逃さない。
「この用途変更により、井戸修繕費が一部削られています」
会場がざわめき立つ中で、私は続けた。
「代わりに計上されたのは、王都の祭典運営費。……そして、宮廷の慰問事業費」
慰問事業。
それ自体は美しい言葉だ。
ただ、その美しい言葉の裏側に何かがあることを、私は知っている。
「慰問事業費の内訳を表示します」
水晶に触れた書記官長の手が、わずかに震えた。
震えるのは当然だ。ここで震えない人間がいるなら、それは上手に嘘をつける人間だ。
内訳が浮かぶ。
高価な布。飾り花。飲食。舞台設営。贈答品。
干ばつで水が足りない国が、花を買う。
その矛盾が、文字の並びだけで突き刺さる。
私はそこで、ようやく殿下を見た。
疲れが見えていた顔色が、さらに悪くなっている。
知らなかったのか。知っていたのか。
どちらにしても、今この場での答えは同じだ。
その責任は、溶けない。
「次に、支払い遅延について」
私は殿下の様子を無視して、話を進める。
この公開監査は、復讐心の爆発が目的ではない。
真実を取り戻す、その手順の完了だ。
「支払いが遅れた理由は単純です。基金の流用で現金が不足し、さらに決裁記録が停止したため、誰も判を押せなくなった」
決裁記録。
その言葉だけで、財務院の役人たちの背筋が固くなる。
決裁記録は、王国の仕組みの骨だ。
骨が折れれば、体はまっすぐ立てない。
「決裁記録が停止したのは、私が追放された翌日」
その日付を示すと、会場が一瞬だけ凍った。
日付は魔法より強い。
日付は、物語を無力化する。
「停止命令を出したのは、こちら」
水晶の表に、短い命令書が浮かぶ。
命令書には、王太子印の写しがある。
押したのは殿下か、殿下の名を使った誰かか。
しかし印は印だ。印がある限り、責任は殿下に帰ってくる。
殿下が小さく息を呑んだ。
その息は、言い訳を発する前の呼吸だった。
私は、言い訳を許す余地を作らないように、淡々と続けた。
「この停止により、用途変更の履歴が追えなくなり、“消えた”ように見えた支出はそのままに。結果として、横領の疑いを晴らすことは不可能になりました」
“疑いを晴らす”。
その言葉を、私はできるだけ事務的に言った。
もし怒りを混ぜれば、それは人間個人の争いになる。
私は、仕組みの犯罪として提示したい。
「以上が、基金に関する記録です」
私は、ゆっくりと一礼した。
広間は静かだった。
静かすぎて、怖いほどだった。
誰も拍手しない。
誰も声をあげない。
ただ、空気が確実に変わっている。
人々は今、理解している。
“消えた”のではない。
“動かされた”のだと。
しかもそれは、聖女の涙でも、王太子の言葉でも隠せない形で残っていると。
私は次の段階へ進むために、水晶の表示を切り替えた。
そこには、もう一つの項目が浮かび上がる。
――聖女セシルの寄付金。
セシルに目を向けると、その指先が胸元で小さく動いた。
そしてあの夜のように、指輪が一瞬だけ光を拾った。
私はその光を、今度は確かに見た。
模造の決裁印。
記録の前では、飾りの光はただの嘘の反射にしかならない。
「続いて、聖女様が集められた寄付金について」
私は声の調子を変えずに続ける。
そうすることで、感情ではなく手順だと周囲に示す。
「寄付金は確かに集まりました。ですが、支払いの宛先が曖昧で、受領の署名が不足しています」
不足。
それは責めるための言葉ではない。
正しい会計を追求するための言葉だ。
その言葉は、優しい顔をしない。
その代わり、誰も特別扱いしない。
私は水晶の中の一覧を、淡々と示した。
欠けている署名。
一致しない日付。
説明のない用途。
「以上です」
言い終えた瞬間、私は初めて、自分の肩が少しだけ軽くなっているのを感じた。
記録は、私の味方ではない。
記録は、ただそこにある。
ただそこにあるものを、見える形にしただけだ。
それでも、私は思う。
舞踏会で私を裁いた“空気”より、これの方がずっと公平だと。
殿下が口を開いた。
そして、何かを言おうとするが言葉にならず、口をつぐんだ。
私はそれを、遮らない。
遮らない代わりに、逃げ道を残さない。
逃げ道を残さないことが、今日の私の仕事だ。
「殿下」
私は丁寧に呼びかけた。
「この記録を前提に、次に確認すべきは“誰が何を決めたか”です。責任の所在が明確になれば、支払いは再開できます。配給も戻せます。ですが――」
私はそこで少しだけ間を置いた。
間は、言葉より強いときがある。
「――背負うべき責任が溶けたままでは、何も戻りません」
殿下の目が揺れた。
その揺れは反省ではない。
おそらく、恐れだ。
自分が“守られる側”ではなく、“問われる側”になった恐れ。
広間の空気は、静かなまま硬くなる。
硬くなるほど、嘘は息ができない。
私は水晶の光を、そっと消した。
光が消えると、余計な眩しさがなくなり、残るのは人の表情だけになる。
ここから先は、もう少しだけ――残酷になる。
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涙に暮れるわたしを慰めてくれたのは、王国最強の騎士団副団長だった。
彼に守られ、真実の愛を知ったとき、地味で陰気だったわたしは、もういなかった。
やがて、彼は新妻の悪行によって失脚。復縁を求めて縋りつく元婚約者に、わたしは冷たく告げる。
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