殿下は婚約破棄した私を“横領犯”として追放しましたが、私が“王国の財布”だとご存じなかったのですか?

なかすあき

文字の大きさ
7 / 8

7話

 記録水晶の光が消えると、謁見の間は急に“人間の場所”になった。

 光の中では誰もが平等に見える。数字も、名前も、日付も、同じ強さで浮かび上がる。
 けれど光が消えた瞬間、そこに残るのは視線の逃げ方だ。
 誰が誰を見ないようにするか。誰が誰に背を向けるか。誰が、半歩だけ距離を取るか。

 私はそれを、床の冷たさを感じながら見ていた。
 舞踏会の夜、私に向けられた視線が、今は別の方向に流れ始めている。
 それは勝利の甘さではなく、ある種の静けさを伴った現実だった。
 空気が、今度は彼らを裁き始めたのだ。

 殿下が口を開いた。
 言葉は喉の奥で一度ひっかかり、それから形になって出てきた。

「……レティシア。君の示した記録が正しいとしても、国は今、危機にある。混乱を広げるのは得策ではない」

 “得策”。
 政治の言葉。
 責任を“最善”の影に隠す言葉。

 私は息を吸い、吐いた。
 胸の奥の怒りが、まだ熱を持っているのが分かる。
 けれど私は、その熱をそのまま外へ出さない。
 熱い言葉は、彼らにとって都合のいい“感情的な女”を生み出すことになる。
 ここまできて、それは許さない。

「混乱は、既にあります」

 私は丁寧に言った。

「支払い遅延は続き、徴税は乱れ、備蓄の放出は滞っています。混乱を広げるかどうかではなく、混乱を止めるかどうかです」

 殿下の眉がわずかに動いた。
 反論しようとして、言葉を飲み込んだのが分かる。
 飲み込んだ理由は、私が正しいからではない。
 記録があるからだ。

 聖女セシルが一歩前へ出た。
 白いドレスの裾が、床をすべる。
 その動きが、舞踏会の夜と同じように見えた。
 彼女は泣ける場所を選ぶのが上手い。

「レティシア様……」

 彼女は私の名を呼び、声を震わせた。
 声の震えは祈りの余韻に似ている。
 周囲の誰かが、小さく息を呑む。

「私は……私は、ただ……苦しむ方々のために……。雨が降らない中で、できることを……」

 言葉は美しい。
 美しいからこそ、誰もがその中に入りたくなる。
 責任から守ってもらえるから。

 私はセシルの顔を見た。
 涙が、頬の上で光っている。
 けれどその光は、水晶の光とは違う。ただの、逃げ道を作るための光だ。

「セシル様」

 私は敬称を崩さずに言った。

「祈りを否定いたしません。ですが、寄付金の受領記録が不足しています。受領の署名、契約書、支払いの控え。これらを提示していただければ、疑念は晴れます」

 疑念。
 私は“罪”と断定しては言わなかった。
 罪と言えば、セシルは被害者になれる。
 疑念と言えば、必要なのは証明だ。
 証明は、涙ではできない。

 セシルの唇がわずかに開き、言葉を発することなく閉じる。
 言い返す言葉が見つからないのだろう。
 それでも彼女は、泣き顔のまま微笑もうとする。

「……記録は、神殿で管理しておりました。私自身は……」

 その瞬間、私は彼女の指先を見た。
 指輪が、また光を拾う。
 舞踏会の夜に見た光と同じ。
 決裁印に似た意匠。

 私は、その指輪を検めたりはしない。
 指摘した場合にセシルに与えられる“罰”は、想像に難くないから。
 ただ、逃げ道を狭めて、真実を追い求めるだけで十分。

「神殿の管理であれば、なおさら提出できます」

 私は淡々と続けた。

「神殿は誠実さの象徴です。記録を示せば、民は安心します。示せないのであれば――民は不安になります」

 “不安”は、脅しではない。
 現実の説明だ。
 現実の説明は、時に刃になる。

 セシルは一度、瞬きをした。
 涙が落ちる。
 落ちた涙は、床に吸われる。
 水を求める国の床が、涙を吸う。
 私はその光景に、胸の奥で短い痛みを覚えた。

 ――この国は、涙で回ってしまった。
 だからこそ、今、涙では回らない形に戻さなければならない。

 殿下が苛立ちを隠せない声で言った。

「レティシア、君は冷たい」

 冷たい。
 また、あのときと同じ言葉。
 便利な言葉。
 私を“人でない”側に追いやる言葉。

 私は、ほんの少しだけ口角を上げた。笑みではない。
 これは理解の形だ。

「冷たいのは、数字ではありません」

 私は言った。

「嘘です。嘘は、民の食卓を、ひいては国を冷やします」

 その言葉が落ちたとき、広間の空気がまた一段硬くなった。
 誰も笑わない。
 誰も拍手しない。
 ただ、殿下の背後に立つ貴族たちの距離が、さらに半歩広がった。

 私はそれを見逃さなかった。
 今回の公開監査は、大声の断罪ではない。
 しかし、支持の喪失という静かな音は確実に流れていた。

 そのとき、書記官長が震える声で言った。

「……殿下。支払い遅延の件、商会からの催促が限界です。これ以上遅れれば、交易が止まります。税も入りません」

 商会の代表らしき男が、重い声で続けた。

「我々は祈りを尊びます。しかし、支払いがなければ物は動きません。飢えるのは民です」

 誰も、殿下を責めている口調ではない。
 それでも、殿下の顔がわずかに青ざめた。
 責められるより怖いのは、“見放される”ことかもしれない。

 殿下は、周囲を見回した。
 助けを求める視線。
 かつてなら、貴族たちはそれに応えたのだろう。
 けれど今、彼らは目を逸らした。
 目を逸らすことで、自分の名が記録に残るのを避けるのだ。

 私は殿下のその視線の動きを見て、心の奥で確信した。
 この人は今まで、空気に守られてきた。
 空気が味方であるうちは、責任は浮かばない。
 でも空気が離れた瞬間、責任は沈まない。
 むしろ浮かび上がる。

「殿下」

 私は改めて呼びかけた。
 ここからは、最後の決算の時間だ。
 いかに殿下であっても、真実から目を背けることは許されない。

「私が王都へ来たのは、誰かを破滅させるためではありません。支払いを再開し、備蓄を動かし、配給を戻すためです」

 殿下の顔が一瞬、希望の形になる。
 私はその希望を、甘く受け止めない。

「そのために必要なのは、責任の明確化と、再発防止です。私は条件を提示しました」

 私は手元の文書を取り出した。
 羊皮紙に書かれた条文。
 辺境支援の固定予算、基金の公開監査の定例化、決裁記録の復旧と変更禁止、神殿会計の提出期限。
 そして、違反した場合の責任者の明記。

「殿下の印を頂ければ、私は財務院の混乱を止めます」

 殿下は、私の持つ文書を見た。
 その目に、焦りが浮かぶ。
 印を押せば、責任が固まる。
 押さなければ、崩れる。

 殿下は唇を噛み、やがて言った。

「……その条件を飲めば、君は戻るのだな。王太子妃として」

 最後の一手。
 彼はここで“婚約”を餌に、私をあるべき場所に戻そうとしている。
 戻れば、また私は道具になる。
 だから私は、ここではっきりと告げなければならない。

 私は、深く息を吸った。
 この言葉は、私の人生の軸を決める言葉になる。

「殿下」

 私は丁寧に、しかし、誤解が生じないように言った。

「婚約は、私を国の道具にするものでした。――壊した道具は元に戻せば済むと、お考えですか」

 殿下の顔が、固まった。
 それは怒りでも、悲しみでもない。
 理解できない人の顔だった。
 “道具”と言われた瞬間、自分が何をしてきたかが露わになる。

「私は王都へ戻ります。ですが、それは“殿下のもの”としてではありません」

 一息に、続ける。

「私は制度のために動きます。民のために動きます。……そして、辺境のために動きます」

 言い終えた瞬間、広間の空気が、別の形に変わった。
 拍手ではない。
 ざわめきでもない。
 “決着がついた”という沈黙だろう。

 殿下は、視線を彷徨わせた。
 しかし、もう誰も彼を守らない。
 守れば、自分の名も記録に沈むから。

「……印を」

 殿下は小さく言った。
 それは命令ではなく、懇願に近い声だった。

 書記官長が文書を受け取り、殿下の前へ運ぶ。
 殿下が印章を手に取った。
 赤い蝋が溶かされ、文書に垂らされていく。
 封蝋の匂いが、広間に広がった。

 私はその匂いを吸い込みながら、舞踏会の夜を思い出した。
 あのときの印は、私を追放するために押された。
 今度の印は、私を解放するために押される。

 殿下が蝋の上に印を押した。
 ぐっと力が入り、そして、印が離れる。
 そこに残った紋章は、ただの模様ではない。責任の形だ。

 その瞬間、私は胸の奥で小さく、何かがほどけるのを感じた。
 勝ったからではない。
 “条件”が固定されたからだ。
 嘘が逃げる穴が塞がったからだ。

 聖女セシルが、何か言いたげに唇を震わせた。
 けれど彼女は言葉を出せなかった。
 記録の前で、言葉は軽い。
 涙は、もっと軽い。
 重いのは、印と日付と、署名だ。

 私は、深く一礼した。

「承知いたしました。これより財務院の支払いを再開し、備蓄の放出を進めます。併せて、神殿会計の提出期限を定め、寄付金の行き先を確認します」

 淡々と告げると、商会の代表が深く頭を下げた。
 民の代表が、ほっと息を吐いた。
 その息は、祈りの吐息ではない。
 暮らしが戻ることへの、現実の息だ。

 殿下は、まだ私を見ていた。
 目の奥に、取り返しのつかない何かが浮かんでいる。
 恐れか、後悔か、怒りか。
 そのどれであっても、今はもう遅い。

 私は殿下の視線を受け止め、最後に一つだけ、静かに言った。

「殿下。国のため、という言葉は便利です。責任の所在を溶かします。――私は、その便利さを終わらせに来ました」

 言葉は穏やかだった。
 でも、それは刃より深く刺さる言葉だったと思う。
 なぜならそれは、殿下の逃げ場所そのものを消すから。

 私は背を向けた。
 背を向けても、もう怖くなかった。
 舞踏会の光の中で背を向けたときとは違う。
 今は、私の背後に記録がある。契約がある。
 そして、辺境の水路の音がある。

 これは、終わりではない。
 始まりのための整地だ。
 私はその整地を、静かに終えた。

あなたにおすすめの小説

学園では婚約者に冷遇されていますが、有能なので全く気になりません。〜学園でお山の大将されてても、王宮では私の方が有能ですから〜

織り子
恋愛
王都カラディナにある国立魔術学園では、満十六歳の生徒たちの社交界デビューを兼ねた盛大なパーティーが開かれていた。 侯爵令嬢タレイア・オルトランは、婚約者である第二王子アスラン・オグセリアの迎えを待つも、結局ひとりで会場へ向かうことになる。 学園では身分の差がないとはいえ、アスランが公然とタレイアを侮辱し続けてきたことで、彼女は生徒たちから冷笑と蔑視の的となっていた。しかしタレイアは、王城で政務を担ってきた聡明さと矜持を失わず、毅然と振る舞う。

「お姉様の味方なんて誰もいないのよ」とよく言われますが、どうやらそうでもなさそうです

越智屋ノマ
恋愛
王太子ダンテに盛大な誕生日の席で婚約破棄を宣言された侯爵令嬢イヴ。 彼の隣には、妹ラーラの姿――。 幼い頃から家族に疎まれながらも、王太子妃となるべく努力してきたイヴにとって、それは想定外の屈辱だった。 だがその瞬間、国王クラディウスが立ち上がる。 「ならば仕方あるまい。婚約破棄を認めよう。そして――」 その一声が、ダンテのすべてをひっくり返す。 ※ふんわり設定。ハッピーエンドです。

勘違いも凄いと思ってしまったが、王女の婚約を破棄させておいて、やり直せると暗躍するのにも驚かされてしまいました

珠宮さくら
恋愛
プルメリアは、何かと張り合おうとして来る令嬢に謝罪されたのだが、謝られる理由がプルメリアには思い当たらなかったのだが、一緒にいた王女には心当たりがあったようで……。 ※全3話。

愚か者が自滅するのを、近くで見ていただけですから

越智屋ノマ
恋愛
宮中舞踏会の最中、侯爵令嬢ルクレツィアは王太子グレゴリオから一方的に婚約破棄を宣告される。新たな婚約者は、平民出身で才女と名高い女官ピア・スミス。 新たな時代の象徴を気取る王太子夫妻の華やかな振る舞いは、やがて国中の不満を集め、王家は静かに綻び始めていく。 一方、表舞台から退いたはずのルクレツィアは、親友である王女アリアンヌと再会する。――崩れゆく王家を前に、それぞれの役割を選び取った『親友』たちの結末は?

「通訳など辞書で足りる」と追放された令嬢——三国会談で、婚約者は一言も話せなくなった

歩人
ファンタジー
宮廷通訳官エレノーラは五つの言語を操り、婚約者クラウスの外交を陰で支えてきた。 だがクラウスは言った。「通訳など辞書で足りる。お前は要らない」 追放されたエレノーラは隣国で新たな道を歩み始める。 一方、クラウスは三国会談の場で辞書片手に立ち往生。 誤訳が外交問題に発展し、窮地に陥ったその場に、隣国の通訳官として現れたのは——。 「その言葉は、もう翻訳できません」

呼ばれてもいないのに行ったら大変なことになりました

七瀬ななし
恋愛
公爵令嬢ソフィーは、悪意なく人を追い詰める“本物の天然”である。多忙な王太子と会えず寂しさを感じていた彼女は、ある日「小さなパーティーがある」と聞き、招待もないままサプライズ訪問を決行する。ところがその会場では、帝国の策略によって、若き貴族たちが薬を使われ、女性との関係を強制的に作らされるという不穏な集まりが開かれていた。 状況を理解しきらぬまま「なんということでしょう!」と叫び、人を呼んだソフィーの行動により、計画は一気に露見。王太子を含む関係者は処罰され、彼は継承権を失い戦場へ送られることになる。一方で、以前からソフィーに想いを寄せていた第二王子が新たな王太子となり、彼女との婚約が決まる。 結果として国家を救った形となり王から感謝されるソフィーだが、本人は戸惑い気味である。ただ一つ、「呼ばれていない場には行かない方がいい」という教訓だけを、春の出来事としてぼんやりと胸に刻むのだった。

わたくしがお父様に疎まれている?いいえ、目に入れても痛くない程溺愛されております。

織り子
ファンタジー
王国貴族院の卒業記念パーティーの場で、大公家の令嬢ルクレツィア・アーヴェントは王太子エドワードから突然の婚約破棄を告げられる。 父であるアーヴェント大公に疎まれている―― 噂を知った王太子は、彼女を公衆の面前で侮辱する。

覚悟は良いですか、お父様? ―虐げられた娘はお家乗っ取りを企んだ婿の父とその愛人の娘である異母妹をまとめて追い出す―

Erin
恋愛
【完結済・全3話】伯爵令嬢のカメリアは母が死んだ直後に、父が屋敷に連れ込んだ愛人とその子に虐げられていた。その挙句、カメリアが十六歳の成人後に継ぐ予定の伯爵家から追い出し、伯爵家の血を一滴も引かない異母妹に継がせると言い出す。後を継がないカメリアには嗜虐趣味のある男に嫁がられることになった。絶対に父たちの言いなりになりたくないカメリアは家を出て復讐することにした。7/6に最終話投稿予定。