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38 婚約
しおりを挟む「彼が今日ここに来たのは、岸井さんに会いにきたのかもしれません。でも、彼女とはうまくいっていないようで……。社内でも色々噂が立っていたんです。異動して離れたことで、冷静になれるかと思っていたんですが……そうもいかなかったみたいですね」
苦笑混じりにそう告げる神崎さんの横顔は、どこか相手を思いやるような柔らかさを帯びていた。
「……西橋の話は、もうやめましょう。明日のデートの話をしませんか?」
空気をそっと和らげるように、神崎さんが微笑む。
その言葉に、私は思わず何度も頷いていた。
――日曜は、神崎さんのご両親と食事に行く日だ。
「父も母も、紬さんに会えるのを楽しみにしているんですよ」
「嬉しいです! ……でも大丈夫、でしょうか?」
「そのままの紬さんでいいと思いますよ。心配なら、僕に任せてください」
そう言って神崎さんは、当日着て行く服や靴を一式プレゼントしてくれた。
“似合うと思ったから”と、照れたように手渡してくれるその仕草が、なんだか胸に優しく響く。
倫太郎のことが頭をよぎって落ち込む時間なんて、もう長くは続かない。
私は前を向いている。
明日は、神崎さんのご両親との食事会。
緊張するけど、楽しみでなかなか眠れなかった。
――日曜の夕暮れ。
私たちは神崎家行きつけの料亭の個室に通された。
襖が静かに閉じると同時に、胸の鼓動がひときわ大きくなる。
「初めまして。広瀬紬と申します」
先に席に着いていたご両親が、穏やかな所作で立ち上がった。
利仁さんのお父様――利樹さんは落ち着いた物腰で、お母様――仁美さんは温かさの滲む笑みを浮かべている。
「今日は来てくださってありがとうね、紬さん」
仁美さんの柔らかな声が、張りつめていた緊張をそっとほどいていく。
一般家庭で育った自分が、この立派な家の“未来の家族”として受け入れられるのか――そんな不安がすうっと薄らぐ。
「こちらこそ……お会いできて嬉しいです」
席につき、食事が運ばれ、穏やかな会話が続く。
思っていたよりもはるかに温かい空気が流れていた。
「利仁が……紬さんのことをとても大切にしているのが分かるわ」
仁美さんの言葉に、隣で神崎さんの表情がわずかに緩む。
「紬さんは、お仕事も真面目で評判がいいそうね」
「広告制作会社だったな。今度、うちと仕事をしてみてもいいかもしれない」
「まぁ、それは楽しみね。きっと利仁も気合いが入るわ」
楽しげに話す神崎夫婦。
――きっと事前に、私のことを調べてくれていたのだろう。
それは不思議と嫌な気持ちではなく、むしろ“真剣に向き合ってくれている”と感じられて胸が温かくなる。
横を見ると、神崎さんが静かに微笑んでいた。
――ほら、心配することなんてなかったでしょう。
そんな声が聞こえてきそうで、思わず頬が緩む。
やがて、話題は自然と未来へと移っていった。
「あなたたちがお互いを大切に想っているのは、見ていれば分かるわ」
仁美さんが湯のみを置きながら、優しく告げる。
「将来を共にすると決めているなら、婚約をしてもいいんじゃないかしら?」
さらりと言われ、私は思わず背筋を伸ばした。
ご両親との顔合わせで、もう婚約を認めていただけるとは思っていなかったからだ。
喜びが胸いっぱいに広がっていく。
「利仁が選んだ相手なら、私たちは反対しないわ」
背中をそっと押されるようなその言葉を受け、私は深く頭を下げる。
「っ、ありがとうございます!」
「これからよろしくね、紬さん」
こうして、私たちは正式に婚約することになった。
◇ ◇ ◇
翌朝。
通勤電車の中で、スマートフォンが突然にぎやかに震えた。
「えっ!?」
大きな声が出てしまい、慌てて口元をおさえる。
〈神崎グループ御曹司・神崎利仁氏、一般女性と婚約〉
〈お相手は、広告制作会社勤務の20代女性〉
思わず画面を二度見してしまった。
昨夜決まったばかりの婚約が、もうネットニュースになっている。
嬉しさと緊張が入り混じり、心臓が落ち着かない。
「でも、まだ両親にも伝えていないのに……」
(神崎さんの婚約者が私だって知ったら、絶対驚くだろうな……)
倫太郎と別れたことですら、まだきちんと伝えられていないのに。
いきなり“神崎グループの御曹司と婚約しました”なんて報告をしたら――。
元々あまりしゃべらない父は、ぽかんと口を開けたまま言葉をなくし、母は声にならない声を漏らすに違いない。
その光景が目に浮かんで、私は思わず小さく笑ってしまった。
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