7 / 14
第6話:最初の勝利
しおりを挟む
二月の空は、抜けるように青く、そして残酷なまでに澄んでいた。
和夫はカーテンの隙間から、庭の門扉が閉まる音を待っていた。
「和夫さん、お買い物に行ってくるわね。今日はあんたの好きな、ちょっと高い苺を買ってきてあげるから。大人しく待ってるのよ」
母・キヨの弾んだ声。獲物を檻に残して出かける飼育員の、あの無自覚な優しさがこもった声だ。
ガチャン。門扉が閉まる。自転車のチェーンが回る音が遠ざかる。
その瞬間、和夫は部屋を飛び出した。
「今だ……今しかない」
昨夜奪還したマイナンバーカードと印鑑は、すでにポケットの中で熱を帯びている。だが、肝心の「通帳」がまだだ。昨夜、母の化粧台で見つけた通帳は、いわば「母が管理している記録」に過ぎない。年金が振り込まれる「本尊」は、母が肌身離さず持っているポシェットか、あるいは……。
和夫は迷わず、キヨが「家令」として君臨するキッチンの棚へ向かった。
そこには、家計簿や領収書が整然と並ぶ、母の統治の象徴があった。
「どこだ……どこに隠した」
和夫は、二十年分の抑圧をぶつけるように、棚の中身を次々と引き出した。
指先に触れる、古い紙のざらつき。埃の匂い。
母が執着する「節約」の証である、大量のクーポン券。その束を払い除けた奥に、それはあった。
小さな、古いクッキーの空き缶。
蓋を開けると、そこには数枚の通帳と、年金証書が整然と収められていた。
和夫は、自分の名前が書かれた「障害基礎年金」の文字を指でなぞった。
「あった……。これだ。これさえあれば……」
通帳を掴んだ和夫の手は、止まらなかった。
彼はそのまま玄関へ走り、昨日まで母に隠されていた自分の外出用の靴を、下駄箱の奥から力任せに引きずり出した。
靴べらを使う余裕さえない。踵を潰すようにして足をねじ込み、和夫は外へ飛び出した。
二十年ぶりの、本当の「脱走」だ。
駅前の大通り。
激しく行き交う車の騒音、排気ガスの焦げたような匂い、すれ違う人々の話し声。
すべてが和夫の皮膚を刺す針のように感じられた。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ」
過呼吸になりそうな肺を、佐藤の教え通り、冷たい空気で満たす。
(大丈夫だ。僕は今、自分のお金を取り戻しに行くんだ。泥棒じゃない。これは、僕の権利だ)
銀行の自動ドアが開いた。
温かい暖房の風とともに、紙の匂いと、静かな喧騒が和夫を包む。
発券機の前で立ち尽くす和夫に、行員が声をかけた。
「……いらっしゃいませ。本日はどのようなご用件でしょうか?」
和夫は、心臓の音が口から漏れそうなほど激しく打っているのを感じながら、掠れた声で答えた。
「あ、あの……年金の……振込口座を、変えたいんです。僕の、名義の、新しい口座を……作って……」
案内された窓口。
仕切りの向こう側に座る女性行員は、事務的で、しかし穏やかだった。
「ご本人様確認書類と、お届け印をお願いいたします」
和夫は、震える手でマイナンバーカードと、象牙の印鑑、そして奪還したばかりの通帳を差し出した。
行員が書類を確認している数分間、和夫は冷や汗でシャツが背中に張り付くのを感じていた。
もし、ここで「お母様はどうされましたか?」と聞かれたら?
もし、母が今、この銀行に現れたら?
「……はい、佐藤和夫様。お手続きを進めさせていただきますね」
その言葉は、和夫の耳に、まるで天からの福音のように響いた。
行員の手によって、タブレットに自分の名前が打ち込まれていく。
「こちらの新しい口座に、次回から年金が振り込まれるようにお手続きいたします。これまでの口座は、お母様が管理されていたとのことですが、これからはご自身でお使いになるということでよろしいですね?」
「……はい。僕が、自分で。……自立したいんです」
和夫の声が、震えた。
窓口の女性は、一瞬だけ和夫の目を見て、柔らかく微笑んだ。
「承知いたしました。大切なお金ですからね」
三十分後。
和夫の手には、まだインクの匂いが残る、真っさらな青い通帳が握られていた。
【残高 ¥0】
数字はない。けれど、この空白こそが、和夫にとっての「自由」の証明だった。
誰にも一円も抜き取られない、誰の趣味にも兄の贅沢にも汚されない、純粋な、僕だけの居場所。
銀行を出ると、午後三時の陽光が駅前広場を照らしていた。
和夫は広場の片隅にあるベンチに、崩れ落ちるように座り込んだ。
ふと見ると、ポケットの中にあったはずの、あの「四千二百十八円」が入った古い通帳が覗いていた。
あの数字。僕を死ぬほど絶望させた、母の搾取の証。
けれど、もう、あれを見て怯える必要はない。
「……あ」
視界が、急に滲んだ。
和夫は両手で顔を覆った。
「あぁ……っ……ああああ……」
嗚咽が、喉の奥からせり上がってくる。
通行人が不思議そうに彼を見て通り過ぎる。
けれど、和夫は止まらなかった。
二十年間、あの静まり返った子供部屋で、母の顔色を窺い、自分の感情を殺し、ただ「生かされている」だけだった男が、初めて自分自身の足で地面を踏み、自分の権利を主張した。
頬を伝う涙は、冬の風に吹かれて冷たい。
けれど、その奥にある胸の鼓動は、これまでにないほど熱かった。
(お母さん、僕は……取り戻したよ)
奪われたのは一千万円かもしれない。けれど、今取り戻したのは、それよりもずっと価値のある「明日を選ぶ権利」だ。
和夫は、涙を袖で拭い、ゆっくりと立ち上がった。
広場の時計が、四時を告げる。
もうすぐ母が、苺を持って帰宅するだろう。
けれど、帰る場所は同じでも、そこに帰る男はもう、昨日までの「無力な息子」ではない。
和夫は、新しい通帳を胸のポケットの奥深く、心臓に近い場所にしまった。
そこから伝わる確かな重みが、彼に告げていた。
これが、君の人生の、本当の第一ページ目だと。
第6話:最初の勝利。
駅前の喧騒の中で流した涙は、亡命者が初めて踏んだ、自由な大地の味だった。
和夫はカーテンの隙間から、庭の門扉が閉まる音を待っていた。
「和夫さん、お買い物に行ってくるわね。今日はあんたの好きな、ちょっと高い苺を買ってきてあげるから。大人しく待ってるのよ」
母・キヨの弾んだ声。獲物を檻に残して出かける飼育員の、あの無自覚な優しさがこもった声だ。
ガチャン。門扉が閉まる。自転車のチェーンが回る音が遠ざかる。
その瞬間、和夫は部屋を飛び出した。
「今だ……今しかない」
昨夜奪還したマイナンバーカードと印鑑は、すでにポケットの中で熱を帯びている。だが、肝心の「通帳」がまだだ。昨夜、母の化粧台で見つけた通帳は、いわば「母が管理している記録」に過ぎない。年金が振り込まれる「本尊」は、母が肌身離さず持っているポシェットか、あるいは……。
和夫は迷わず、キヨが「家令」として君臨するキッチンの棚へ向かった。
そこには、家計簿や領収書が整然と並ぶ、母の統治の象徴があった。
「どこだ……どこに隠した」
和夫は、二十年分の抑圧をぶつけるように、棚の中身を次々と引き出した。
指先に触れる、古い紙のざらつき。埃の匂い。
母が執着する「節約」の証である、大量のクーポン券。その束を払い除けた奥に、それはあった。
小さな、古いクッキーの空き缶。
蓋を開けると、そこには数枚の通帳と、年金証書が整然と収められていた。
和夫は、自分の名前が書かれた「障害基礎年金」の文字を指でなぞった。
「あった……。これだ。これさえあれば……」
通帳を掴んだ和夫の手は、止まらなかった。
彼はそのまま玄関へ走り、昨日まで母に隠されていた自分の外出用の靴を、下駄箱の奥から力任せに引きずり出した。
靴べらを使う余裕さえない。踵を潰すようにして足をねじ込み、和夫は外へ飛び出した。
二十年ぶりの、本当の「脱走」だ。
駅前の大通り。
激しく行き交う車の騒音、排気ガスの焦げたような匂い、すれ違う人々の話し声。
すべてが和夫の皮膚を刺す針のように感じられた。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ」
過呼吸になりそうな肺を、佐藤の教え通り、冷たい空気で満たす。
(大丈夫だ。僕は今、自分のお金を取り戻しに行くんだ。泥棒じゃない。これは、僕の権利だ)
銀行の自動ドアが開いた。
温かい暖房の風とともに、紙の匂いと、静かな喧騒が和夫を包む。
発券機の前で立ち尽くす和夫に、行員が声をかけた。
「……いらっしゃいませ。本日はどのようなご用件でしょうか?」
和夫は、心臓の音が口から漏れそうなほど激しく打っているのを感じながら、掠れた声で答えた。
「あ、あの……年金の……振込口座を、変えたいんです。僕の、名義の、新しい口座を……作って……」
案内された窓口。
仕切りの向こう側に座る女性行員は、事務的で、しかし穏やかだった。
「ご本人様確認書類と、お届け印をお願いいたします」
和夫は、震える手でマイナンバーカードと、象牙の印鑑、そして奪還したばかりの通帳を差し出した。
行員が書類を確認している数分間、和夫は冷や汗でシャツが背中に張り付くのを感じていた。
もし、ここで「お母様はどうされましたか?」と聞かれたら?
もし、母が今、この銀行に現れたら?
「……はい、佐藤和夫様。お手続きを進めさせていただきますね」
その言葉は、和夫の耳に、まるで天からの福音のように響いた。
行員の手によって、タブレットに自分の名前が打ち込まれていく。
「こちらの新しい口座に、次回から年金が振り込まれるようにお手続きいたします。これまでの口座は、お母様が管理されていたとのことですが、これからはご自身でお使いになるということでよろしいですね?」
「……はい。僕が、自分で。……自立したいんです」
和夫の声が、震えた。
窓口の女性は、一瞬だけ和夫の目を見て、柔らかく微笑んだ。
「承知いたしました。大切なお金ですからね」
三十分後。
和夫の手には、まだインクの匂いが残る、真っさらな青い通帳が握られていた。
【残高 ¥0】
数字はない。けれど、この空白こそが、和夫にとっての「自由」の証明だった。
誰にも一円も抜き取られない、誰の趣味にも兄の贅沢にも汚されない、純粋な、僕だけの居場所。
銀行を出ると、午後三時の陽光が駅前広場を照らしていた。
和夫は広場の片隅にあるベンチに、崩れ落ちるように座り込んだ。
ふと見ると、ポケットの中にあったはずの、あの「四千二百十八円」が入った古い通帳が覗いていた。
あの数字。僕を死ぬほど絶望させた、母の搾取の証。
けれど、もう、あれを見て怯える必要はない。
「……あ」
視界が、急に滲んだ。
和夫は両手で顔を覆った。
「あぁ……っ……ああああ……」
嗚咽が、喉の奥からせり上がってくる。
通行人が不思議そうに彼を見て通り過ぎる。
けれど、和夫は止まらなかった。
二十年間、あの静まり返った子供部屋で、母の顔色を窺い、自分の感情を殺し、ただ「生かされている」だけだった男が、初めて自分自身の足で地面を踏み、自分の権利を主張した。
頬を伝う涙は、冬の風に吹かれて冷たい。
けれど、その奥にある胸の鼓動は、これまでにないほど熱かった。
(お母さん、僕は……取り戻したよ)
奪われたのは一千万円かもしれない。けれど、今取り戻したのは、それよりもずっと価値のある「明日を選ぶ権利」だ。
和夫は、涙を袖で拭い、ゆっくりと立ち上がった。
広場の時計が、四時を告げる。
もうすぐ母が、苺を持って帰宅するだろう。
けれど、帰る場所は同じでも、そこに帰る男はもう、昨日までの「無力な息子」ではない。
和夫は、新しい通帳を胸のポケットの奥深く、心臓に近い場所にしまった。
そこから伝わる確かな重みが、彼に告げていた。
これが、君の人生の、本当の第一ページ目だと。
第6話:最初の勝利。
駅前の喧騒の中で流した涙は、亡命者が初めて踏んだ、自由な大地の味だった。
0
あなたにおすすめの小説
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる