『49歳の亡命 〜子供部屋からの脱出〜』

かおるこ

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第7話:嵐の前夜

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夕食の時間は、地獄へのカウントダウンだった。

和夫は、二階の自室で嵐の気配を感じていた。一階から聞こえる、激しい物音。食器が重なり合う不協和音。そして、これまでに聞いたことのない、母・キヨの地を這うような唸り声。

母は買い物から戻り、いつものように和夫の年金を引き出そうと、隠し場所のクッキー缶を開けたのだろう。あるいは、銀行からの何らかの通知を目にしたのかもしれない。

「和夫……。和夫さん! 降りてきなさい!」

階段の下から突き上げられる声は、もはや「聖母」のものではなかった。それは獲物を逃した飢えた獣の咆哮だった。和夫は、懐にある新しい通帳を強く握りしめた。心臓が肋骨を内側から叩き壊さんばかりに暴れている。

一階のリビングに降りると、そこはすでに「戦場」だった。
食卓の上には、母が買ってきたはずの高級な苺が、無残にぶち撒けられていた。甘い匂いが、殺伐とした空気の中でひどく場違いに漂っている。

「これ、どういうこと?」
キヨの手には、空になったクッキー缶と、和夫が隠しきれなかった古い通帳があった。
「銀行に行ったわね。口座、変えたわね。誰にそそのかされたの? あの佐藤っていう相談員? それとも、お母さんを捨てて一人で贅沢でもするつもり?」

「……贅沢なんてしない。ただ、自分のお金を、自分で持ちたかっただけだ」
和夫の声は震えていたが、視線は逸らさなかった。苺の果汁が床に滴る音が、時計の針のように響く。

「自分のお金ですって?」
キヨの顔が、怒りでどす黒く変色していく。
「あんたの命は誰がつなぎ止めてきたと思ってるの! この二十年、あんたが部屋で震えている間、お母さんがどれだけ頭を下げて、どれだけ節約して……。それを、恩を仇で返すのね! この親不孝者が!」

キヨは食卓の椅子を蹴り飛ばした。ガシャン、と派手な音が響き、和夫の肩が跳ねる。
「返しなさい。今すぐ銀行に行って元に戻して。じゃないと、あんた、明日から食べるものもないわよ。この家で寝る場所もないわよ。お母さんはね、あんたのために、あんたのために……」

突然、キヨはその場に崩れ落ち、泣き始めた。
「ああ……情けない。一生懸命育てた息子に、泥棒扱いされるなんて。お父さんが生きていたら、なんて言うかしら。和夫さん、お願いよ。お母さんを一人にしないで。あんたがいなくなったら、お母さん、生きていけないわ」

これだ。和夫が最も恐れていた、母の最終兵器。「泣き落とし」という名の、底なし沼。
かつての和夫なら、ここで膝をつき、「ごめんなさい」と謝って、すべてを差し出していただろう。母の涙は、彼にとって何よりも重い呪縛だった。

しかし、和夫の脳裏に、あの通帳の数字が浮かんだ。
【ザンタカ ¥4,218】
その数字は、母が流している涙よりも、ずっと誠実で、ずっと残酷な真実を語っていた。

「……お母さん。もう、その手には乗らない」
「何ですって?」

「僕のためって言いながら、兄貴に金を送ってたじゃないか。僕のためって言いながら、変な数珠や通販のガラクタを買い漁ってたじゃないか。お母さんは、僕を守ってたんじゃない。僕が外に出られないことを利用して、僕を『金づる』にしてたんだ」

「黙りなさい! あんたに何がわかるの! 家族の助け合いよ!」

「助け合いじゃない、搾取だ!」
和夫の怒声が、リビングの空気を切り裂いた。自分でも驚くほどの声量だった。
「僕は、あんたを慰めるための人形じゃない。兄貴の家族を養うための道具でもない。僕は四十九歳の男だ。……僕は、あなたの所有物じゃないんだ!」

キヨは目を見開き、言葉を失った。まるで、大切にしていた家具がいきなり意志を持って喋り出したのを、信じられないという顔で見つめている。

「……出ていけ」
キヨが、低く冷たい声で言った。
「そんなに自立したいなら、今すぐこの家を出ていきなさい。一分も置いてあげないわ。四千円で何ができるか、試してみればいいわ。野垂れ死ぬのが関の山よ。そうしたら、泣きながら戻ってきたって、もう玄関は開けてあげないから!」

「……ああ、わかった。出ていくよ。でも、今すぐじゃない。準備ができたらだ」

和夫は、キヨの罵声を背中に浴びながら、階段を駆け上がった。
部屋に飛び込み、内側から鍵をかける。
ガチャン。
その音は、これまでの「監禁」の音ではなく、和夫が自らを外界の悪意から守るための「防壁」の音だった。

ドアの向こうで、母が狂ったようにドアを叩き、叫んでいる。
「開けなさい! 和夫! 親不孝者! あんたなんか、産まなければよかった!」
その言葉は、和夫の胸を深く抉った。けれど、不思議と涙は出なかった。
ただ、部屋の中に充満する、古い本と自分の体臭が混じった匂いが、ひどく疎ましく感じられた。

和夫は床に座り込み、リュックサックを引き寄せた。
何を持っていく?
ゲーム機はいらない。豪華な服もない。
ただ、自分の名義の通帳と、印鑑。そして、佐藤からもらった名刺。

窓の外は、真っ暗な夜が広がっていた。
母の叫び声は、やがて嗚咽に変わり、リビングへと遠ざかっていった。
家の中は、嵐が去った後のような、不気味な静寂に包まれる。

和夫は暗闇の中で、自分の手をじっと見つめた。
震えている。けれど、逃げ出したいという震えではない。
新しい世界へ飛び出す前の、武者震いに似た何か。

「……僕は、僕になるんだ」

第7話:嵐の前夜。
和夫は、四十九年かけて築き上げられた「偽りの平和」が崩壊した瓦礫の中で、たった一人の「亡命者」として、夜明けを待ち続けた。

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