『49歳の亡命 〜子供部屋からの脱出〜』

かおるこ

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第6話:最初の勝利

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二月の空は、抜けるように青く、そして残酷なまでに澄んでいた。

和夫はカーテンの隙間から、庭の門扉が閉まる音を待っていた。
「和夫さん、お買い物に行ってくるわね。今日はあんたの好きな、ちょっと高い苺を買ってきてあげるから。大人しく待ってるのよ」
母・キヨの弾んだ声。獲物を檻に残して出かける飼育員の、あの無自覚な優しさがこもった声だ。

ガチャン。門扉が閉まる。自転車のチェーンが回る音が遠ざかる。
その瞬間、和夫は部屋を飛び出した。

「今だ……今しかない」

昨夜奪還したマイナンバーカードと印鑑は、すでにポケットの中で熱を帯びている。だが、肝心の「通帳」がまだだ。昨夜、母の化粧台で見つけた通帳は、いわば「母が管理している記録」に過ぎない。年金が振り込まれる「本尊」は、母が肌身離さず持っているポシェットか、あるいは……。

和夫は迷わず、キヨが「家令」として君臨するキッチンの棚へ向かった。
そこには、家計簿や領収書が整然と並ぶ、母の統治の象徴があった。
「どこだ……どこに隠した」
和夫は、二十年分の抑圧をぶつけるように、棚の中身を次々と引き出した。
指先に触れる、古い紙のざらつき。埃の匂い。
母が執着する「節約」の証である、大量のクーポン券。その束を払い除けた奥に、それはあった。

小さな、古いクッキーの空き缶。
蓋を開けると、そこには数枚の通帳と、年金証書が整然と収められていた。
和夫は、自分の名前が書かれた「障害基礎年金」の文字を指でなぞった。
「あった……。これだ。これさえあれば……」

通帳を掴んだ和夫の手は、止まらなかった。
彼はそのまま玄関へ走り、昨日まで母に隠されていた自分の外出用の靴を、下駄箱の奥から力任せに引きずり出した。
靴べらを使う余裕さえない。踵を潰すようにして足をねじ込み、和夫は外へ飛び出した。

二十年ぶりの、本当の「脱走」だ。

駅前の大通り。
激しく行き交う車の騒音、排気ガスの焦げたような匂い、すれ違う人々の話し声。
すべてが和夫の皮膚を刺す針のように感じられた。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ」
過呼吸になりそうな肺を、佐藤の教え通り、冷たい空気で満たす。
(大丈夫だ。僕は今、自分のお金を取り戻しに行くんだ。泥棒じゃない。これは、僕の権利だ)

銀行の自動ドアが開いた。
温かい暖房の風とともに、紙の匂いと、静かな喧騒が和夫を包む。
発券機の前で立ち尽くす和夫に、行員が声をかけた。
「……いらっしゃいませ。本日はどのようなご用件でしょうか?」

和夫は、心臓の音が口から漏れそうなほど激しく打っているのを感じながら、掠れた声で答えた。
「あ、あの……年金の……振込口座を、変えたいんです。僕の、名義の、新しい口座を……作って……」

案内された窓口。
仕切りの向こう側に座る女性行員は、事務的で、しかし穏やかだった。
「ご本人様確認書類と、お届け印をお願いいたします」

和夫は、震える手でマイナンバーカードと、象牙の印鑑、そして奪還したばかりの通帳を差し出した。
行員が書類を確認している数分間、和夫は冷や汗でシャツが背中に張り付くのを感じていた。
もし、ここで「お母様はどうされましたか?」と聞かれたら?
もし、母が今、この銀行に現れたら?

「……はい、佐藤和夫様。お手続きを進めさせていただきますね」

その言葉は、和夫の耳に、まるで天からの福音のように響いた。
行員の手によって、タブレットに自分の名前が打ち込まれていく。
「こちらの新しい口座に、次回から年金が振り込まれるようにお手続きいたします。これまでの口座は、お母様が管理されていたとのことですが、これからはご自身でお使いになるということでよろしいですね?」

「……はい。僕が、自分で。……自立したいんです」

和夫の声が、震えた。
窓口の女性は、一瞬だけ和夫の目を見て、柔らかく微笑んだ。
「承知いたしました。大切なお金ですからね」

三十分後。
和夫の手には、まだインクの匂いが残る、真っさらな青い通帳が握られていた。
【残高 ¥0】
数字はない。けれど、この空白こそが、和夫にとっての「自由」の証明だった。
誰にも一円も抜き取られない、誰の趣味にも兄の贅沢にも汚されない、純粋な、僕だけの居場所。

銀行を出ると、午後三時の陽光が駅前広場を照らしていた。
和夫は広場の片隅にあるベンチに、崩れ落ちるように座り込んだ。

ふと見ると、ポケットの中にあったはずの、あの「四千二百十八円」が入った古い通帳が覗いていた。
あの数字。僕を死ぬほど絶望させた、母の搾取の証。
けれど、もう、あれを見て怯える必要はない。

「……あ」

視界が、急に滲んだ。
和夫は両手で顔を覆った。
「あぁ……っ……ああああ……」
嗚咽が、喉の奥からせり上がってくる。

通行人が不思議そうに彼を見て通り過ぎる。
けれど、和夫は止まらなかった。
二十年間、あの静まり返った子供部屋で、母の顔色を窺い、自分の感情を殺し、ただ「生かされている」だけだった男が、初めて自分自身の足で地面を踏み、自分の権利を主張した。

頬を伝う涙は、冬の風に吹かれて冷たい。
けれど、その奥にある胸の鼓動は、これまでにないほど熱かった。

(お母さん、僕は……取り戻したよ)

奪われたのは一千万円かもしれない。けれど、今取り戻したのは、それよりもずっと価値のある「明日を選ぶ権利」だ。
和夫は、涙を袖で拭い、ゆっくりと立ち上がった。

広場の時計が、四時を告げる。
もうすぐ母が、苺を持って帰宅するだろう。
けれど、帰る場所は同じでも、そこに帰る男はもう、昨日までの「無力な息子」ではない。

和夫は、新しい通帳を胸のポケットの奥深く、心臓に近い場所にしまった。
そこから伝わる確かな重みが、彼に告げていた。
これが、君の人生の、本当の第一ページ目だと。

第6話:最初の勝利。
駅前の喧騒の中で流した涙は、亡命者が初めて踏んだ、自由な大地の味だった。

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