『49歳の亡命 〜子供部屋からの脱出〜』

かおるこ

文字の大きさ
6 / 14

第5話:奪還作戦の立案

しおりを挟む
真夜中、古い木造家屋は生き物のようにきしむ。
和夫は布団の中で、耳を極限まで研ぎ澄ませていた。

一階の寝室から聞こえる、母・キヨの規則正しい寝息。そして時折混じる、老いた喉が鳴らす小さないびき。和夫はそのリズムを数え、彼女が深い眠りの周期に入ったことを確信した。

(今だ……)

和夫は音もなく身を起こした。二十年、この家で息を潜めて生きてきた彼は、どの床板が鳴り、どの建具が音を立てるかを熟知している。廊下の左端から三枚目の板を避け、つま先に体重を乗せて滑るように移動する。それは、自立を拒まれてきた男が、皮肉にも支配から逃れるために磨き上げた「気配を消す技術」だった。

階段を下りる際も、和夫は壁に手を添え、自重を分散させた。暗闇に慣れた目は、月の光がわずかに差し込むリビングの輪郭を捉える。

(印鑑、身分証、通帳。……母さんが僕を縛るための、呪いの道具)

捜索の第一候補は、リビングにある重厚なマホガニーのサイドボードだ。キヨは大事な書類をいつも「ここなら安心」と言って引き出しの奥に突っ込んでいた。和夫は指先に神経を集中させ、取っ手をミリ単位で引く。古い木材が擦れ合う「カサッ」という音さえ、今の和夫には爆音のように聞こえた。

引き出しの中には、母が溜め込んだ診察券や、期限切れのクーポン、そして兄・哲也からの「金の無心」を綴った手紙が乱雑に押し込まれていた。
「……ない」

第二候補、仏壇の隠し引き出し。
和夫は膝をつき、線香の死えた匂いが漂う仏壇の前に這いつくばった。先祖を敬う場所を漁る背徳感など、今の彼にはない。あるのは、剥き出しの生存本能だけだ。
引き出しを抜いた奥の空洞に手を差し込むと、指先に硬い感触があった。
小さな布袋。
期待に胸を膨らませて中身を取り出すが、それは母が心酔している「開運の数珠」だった。和夫は思わず舌打ちしそうになり、それを飲み込む。

(どこだ。もっと執着が強く、かつ僕が絶対に触れない場所……)

冷たい汗が背中を伝う。捜索開始から三十分。
その時、和夫の脳裏に、母の寝室にある「化粧台」が浮かんだ。
亡き父の遺影が飾られ、キヨが毎日一時間かけて顔を塗り固める場所。あそこは聖域だ。「汚い手で触るんじゃないわよ」と、和夫は子供の頃から厳しく言い聞かされてきた。

和夫は迷わず、母の眠る寝室へと足を進めた。
引き戸の隙間から漏れる、重苦しい湿布の匂い。キヨの寝息が、すぐそばで聞こえる。
暗闇の中、和夫は四つん這いになり、床を這うようにして化粧台へ近づいた。

キヨが寝返りを打つ。「……和夫……さん……」
心臓が跳ね上がった。全身が凍りつき、呼吸が止まる。
数秒の静寂。母は夢の中で息子を縛っているのか、再び低い寝息を立て始めた。

和夫は化粧台の最下段、観音開きの扉を開けた。そこには、古い家計簿が何冊も積み重なっていた。その家計簿の山を慎重にどかすと、奥に黒い革製のクラッチバッグが隠されていた。

「これだ……」

バッグのファスナーを開ける。金属の音が、耳元で鋭く響く。
中には、和夫の名前が記された「マイナンバーカード」と、彼が二十歳の時に作った、象牙の「実印」が入っていた。

指先が震える。
カードに写る自分の写真は、今よりもずっと頬がこけ、死んだ魚のような目をしている。けれど、これは間違いなく、佐藤和夫という人間がこの世に存在することを証明する唯一のパスポートだ。

(奪還したぞ……!)

和夫はそれらを懐に押し込み、再び気配を消して部屋を脱出した。
自室に戻り、内側から鍵をかけた瞬間、肺に残っていた空気が一気に漏れ出た。
和夫は床に座り込み、手に入れたばかりのカードと印鑑を、月明かりの下で何度も確認した。

プラスチックのカードの冷たさと、印鑑のずっしりとした重み。
それは、母がこれまで彼に与えてきた、どんな「甘い言葉」よりも温かく、確かな救いだった。

「これで、口座を変えられる。僕のお金が、僕のところに戻ってくる……」

和夫は、古いスマホで相談員・佐藤にメッセージを送った。
『パスポートを手に入れました。明日、決行します』

画面から返ってきた一通の通知。
『了解しました。明日の朝、銀行でお待ちしています。一歩ずつ、確実に。』

和夫は、カードを胸に抱いたまま布団に入った。
天井の木目は相変わらず醜い履歴書のようだったが、不思議ともう、彼を嘲笑っているようには見えなかった。

翌朝、キヨが台所で味噌汁を作る音が聞こえてくる。
「和夫さーん、朝ごはんよ! 今日はお豆腐をたくさん入れたわよ」
昨夜、自分の聖域が侵されたことも知らず、獲物を飼い慣らしているつもりの、暢気な支配者の声。

和夫は鏡の前で、ひげを剃り、シャツの襟を正した。
「……いってきます」
小さく、けれど誰にも邪魔されない意志を込めて、和夫は呟いた。

作戦の第一段階、終了。
和夫は、ポケットの中の重みを感じながら、決戦の朝へと踏み出した。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします

二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位! ※この物語はフィクションです 流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。 当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。

思い出さなければ良かったのに

田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。 大事なことを忘れたまま。 *本編完結済。不定期で番外編を更新中です。

可愛らしい人

はるきりょう
恋愛
「でも、ライアン様には、エレナ様がいらっしゃるのでは?」 「ああ、エレナね。よく勘違いされるんだけど、エレナとは婚約者でも何でもないんだ。ただの幼馴染み」 「それにあいつはひとりで生きていけるから」 女性ながらに剣術を学ぶエレナは可愛げがないという理由で、ほとんど婚約者同然の幼馴染から捨てられる。 けれど、 「エレナ嬢」 「なんでしょうか?」 「今日の夜会のパートナーはお決まりですか?」  その言葉でパートナー同伴の夜会に招待されていたことを思い出した。いつものとおりライアンと一緒に行くと思っていたので参加の返事を出していたのだ。 「……いいえ」  当日の欠席は著しく評価を下げる。今後、家庭教師として仕事をしていきたいと考えるのであれば、父親か兄に頼んででも行った方がいいだろう。 「よければ僕と一緒に行きませんか?」

いちばん好きな人…

麻実
恋愛
夫の裏切りを知った妻は 自分もまた・・・。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

春に狂(くる)う

転生新語
恋愛
 先輩と後輩、というだけの関係。後輩の少女の体を、私はホテルで時間を掛けて味わう。  小説家になろう、カクヨムに投稿しています。  小説家になろう→https://ncode.syosetu.com/n5251id/  カクヨム→https://kakuyomu.jp/works/16817330654752443761

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

処理中です...