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第8話:グループホームという選択
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立てこもり三日目。ドアを隔てた向こう側では、母が毒を吐くか、あるいは死んだように沈黙するか、そのどちらかだった。
和夫は、佐藤からの連絡を待って、早朝の静寂を縫うように家を抜け出した。もう、忍び足で歩く必要はなかった。ただ、母の視線が背中に刺さるのを、古い上着の襟を立てて遮るだけだった。
「和夫さん、よく決断しましたね」
駅近くの喫茶店。佐藤は、温かいカフェオレを注文してくれた。泡立ったミルクの甘い匂いが、数日間固形物を受け付けなかった和夫の胃を、優しく、けれど確実に刺激する。
「……いきなり一人暮らしは、やっぱり怖いんです。お母さんの言う通り、僕はまだ、公共料金の払い方も、隣の人との挨拶の仕方も知らない」
「それでいいんです。だからこその『グループホーム』です。今日はこれから、一つ見学に行きましょう。見に行って、嫌だったら断ればいい。それだけのことです」
佐藤が案内してくれたのは、住宅街の角にある、ごく普通の二階建ての一軒家だった。表札には『ひだまりの家』と、丸みを帯びた文字で書かれている。
玄関を開けると、そこには母の家のような「煮物の重苦しい匂い」はなかった。代わりに、少し安っぽいフローリングワックスの匂いと、誰かが焼いているトーストの香ばしい匂いが漂っていた。
「あ、佐藤さん! こんにちは」
奥から出てきたのは、エプロン姿の快活そうな女性スタッフと、和夫より少し年下に見える、ひょろりとした男性だった。
「和夫さん、こちらは入居者の山下さんです」
「……あ、どうも。山下、です。よろしくお願いします」
山下と呼ばれた男性は、和夫と目を合わせるのが苦手なようで、視線を泳がせながらも、ぎこちなく頭を下げた。その指先が、和夫と同じように微かに震えているのを見て、和夫は不意に胸を突かれた。
「山下さんも、半年前まで十五年、自宅で引きこもっていたんですよ」
佐藤がそっと耳打ちする。
「……十五年?」
和夫は思わず声を漏らした。自分と同じ。いや、自分よりも若くして、同じ闇を抱えていた人間が、今、ここに立って「こんにちは」と言っている。
山下が、小さな声で話し始めた。
「僕も……最初は、ここに来るの、死ぬほど怖かったです。親以外の人間と話すなんて、無理だと思ってた。でも……ここは、失敗しても怒鳴られないから。ご飯を焦がしても、『次から気をつけよう』って言ってもらえるから」
山下の言葉は、和夫の硬く凍りついた心に、温かいお湯をかけるように染み込んだ。
母の家では、失敗は「罪」だった。母の思い通りに動けないことは「病気」の証拠であり、だからこそ「管理されるべき」だという理屈に使われた。
「和夫さん、こちらが空いている個室です」
案内されたのは、六畳ほどの洋室だった。
備え付けのベッドと、簡素なデスク。クローゼット。
驚くほど何もない。けれど、その「何もない」ことが、和夫には堪らなく美しく見えた。
壁に染み付いた母の呪いもない。二十年分の後悔を吸い込んだ古い畳もない。
ここは、これから自分が描くべき、真っ白なキャンバスだ。
「……ここは、鍵をかけてもいいんですか?」
「ええ、もちろんです。ここはあなたの『家』ですから。プライバシーは守られます。ただ、食事の時間にはリビングに集まる、というルールがあるだけです」
スタッフの言葉に、和夫は窓の外を見た。
そこからは、知らない街の、知らない屋根が並んでいるのが見えた。
街を走る自転車のベルの音、遠くの工事の音。
それらすべてが、自分を拒絶しているのではなく、ただそこに「在る」のだと、和夫は感じた。
リビングに戻ると、他の入居者たちが数人、テレビを見たり、雑誌をめくったりしていた。
一人の女性が、和夫を見て言った。
「新しい人? 緊張するよね。私も一ヶ月、部屋から出られなかったから。大丈夫だよ、ここのカレー、結構美味しいから」
和夫は、不器用な笑みを浮かべた。
自分と同じように、傷つき、震え、それでも「自分の足で立ちたい」と願う人たちが、ここに集まっている。
母は「外は残酷だ」と言った。けれど、ここにあるのは、残酷さではなく、不器用な者同士が寄せ合う、静かな「敬意」だった。
(僕……ここで、生きてみたい)
和夫の胸の奥で、小さく、けれど消えない火が灯った。
それは、母への復讐のためでもなく、過去を取り戻すためでもない。
ただ、明日という時間を、自分の意志で消費してみたいという、猛烈な「生への渇望」だった。
「……佐藤さん」
和夫は、隣に立つ佐藤を振り返った。
「僕、ここに入りたいです。ここから、始めてみたいんです」
佐藤は、深く頷いた。
「わかりました。手続きを進めましょう。お母さんとの交渉は、僕たちも間に入ります。和夫さんは、自分の荷物をまとめることだけに集中してください」
帰り道、和夫は駅前のドラッグストアに立ち寄った。
自分専用の歯ブラシと、新しいタオルを一組買った。
母に買ってもらうのではなく、自分の口座から下ろした「自分のお金」で。
レジの袋を握りしめる感触が、これほどまでに心強いとは思わなかった。
「自立」とは、孤独になることではない。
「自分を救ってくれる場所」を、自分で選ぶことなのだ。
四十九歳の亡命者は、ついに自分の「新天地」を見つけた。
和夫は、夕暮れの街を歩きながら、初めて自分の未来に、小さな期待を抱いていた。
第8話:グループホームという選択。
それは、他人の優しさを信じることで、自分自身を許し始めた、最初の午後。
和夫は、佐藤からの連絡を待って、早朝の静寂を縫うように家を抜け出した。もう、忍び足で歩く必要はなかった。ただ、母の視線が背中に刺さるのを、古い上着の襟を立てて遮るだけだった。
「和夫さん、よく決断しましたね」
駅近くの喫茶店。佐藤は、温かいカフェオレを注文してくれた。泡立ったミルクの甘い匂いが、数日間固形物を受け付けなかった和夫の胃を、優しく、けれど確実に刺激する。
「……いきなり一人暮らしは、やっぱり怖いんです。お母さんの言う通り、僕はまだ、公共料金の払い方も、隣の人との挨拶の仕方も知らない」
「それでいいんです。だからこその『グループホーム』です。今日はこれから、一つ見学に行きましょう。見に行って、嫌だったら断ればいい。それだけのことです」
佐藤が案内してくれたのは、住宅街の角にある、ごく普通の二階建ての一軒家だった。表札には『ひだまりの家』と、丸みを帯びた文字で書かれている。
玄関を開けると、そこには母の家のような「煮物の重苦しい匂い」はなかった。代わりに、少し安っぽいフローリングワックスの匂いと、誰かが焼いているトーストの香ばしい匂いが漂っていた。
「あ、佐藤さん! こんにちは」
奥から出てきたのは、エプロン姿の快活そうな女性スタッフと、和夫より少し年下に見える、ひょろりとした男性だった。
「和夫さん、こちらは入居者の山下さんです」
「……あ、どうも。山下、です。よろしくお願いします」
山下と呼ばれた男性は、和夫と目を合わせるのが苦手なようで、視線を泳がせながらも、ぎこちなく頭を下げた。その指先が、和夫と同じように微かに震えているのを見て、和夫は不意に胸を突かれた。
「山下さんも、半年前まで十五年、自宅で引きこもっていたんですよ」
佐藤がそっと耳打ちする。
「……十五年?」
和夫は思わず声を漏らした。自分と同じ。いや、自分よりも若くして、同じ闇を抱えていた人間が、今、ここに立って「こんにちは」と言っている。
山下が、小さな声で話し始めた。
「僕も……最初は、ここに来るの、死ぬほど怖かったです。親以外の人間と話すなんて、無理だと思ってた。でも……ここは、失敗しても怒鳴られないから。ご飯を焦がしても、『次から気をつけよう』って言ってもらえるから」
山下の言葉は、和夫の硬く凍りついた心に、温かいお湯をかけるように染み込んだ。
母の家では、失敗は「罪」だった。母の思い通りに動けないことは「病気」の証拠であり、だからこそ「管理されるべき」だという理屈に使われた。
「和夫さん、こちらが空いている個室です」
案内されたのは、六畳ほどの洋室だった。
備え付けのベッドと、簡素なデスク。クローゼット。
驚くほど何もない。けれど、その「何もない」ことが、和夫には堪らなく美しく見えた。
壁に染み付いた母の呪いもない。二十年分の後悔を吸い込んだ古い畳もない。
ここは、これから自分が描くべき、真っ白なキャンバスだ。
「……ここは、鍵をかけてもいいんですか?」
「ええ、もちろんです。ここはあなたの『家』ですから。プライバシーは守られます。ただ、食事の時間にはリビングに集まる、というルールがあるだけです」
スタッフの言葉に、和夫は窓の外を見た。
そこからは、知らない街の、知らない屋根が並んでいるのが見えた。
街を走る自転車のベルの音、遠くの工事の音。
それらすべてが、自分を拒絶しているのではなく、ただそこに「在る」のだと、和夫は感じた。
リビングに戻ると、他の入居者たちが数人、テレビを見たり、雑誌をめくったりしていた。
一人の女性が、和夫を見て言った。
「新しい人? 緊張するよね。私も一ヶ月、部屋から出られなかったから。大丈夫だよ、ここのカレー、結構美味しいから」
和夫は、不器用な笑みを浮かべた。
自分と同じように、傷つき、震え、それでも「自分の足で立ちたい」と願う人たちが、ここに集まっている。
母は「外は残酷だ」と言った。けれど、ここにあるのは、残酷さではなく、不器用な者同士が寄せ合う、静かな「敬意」だった。
(僕……ここで、生きてみたい)
和夫の胸の奥で、小さく、けれど消えない火が灯った。
それは、母への復讐のためでもなく、過去を取り戻すためでもない。
ただ、明日という時間を、自分の意志で消費してみたいという、猛烈な「生への渇望」だった。
「……佐藤さん」
和夫は、隣に立つ佐藤を振り返った。
「僕、ここに入りたいです。ここから、始めてみたいんです」
佐藤は、深く頷いた。
「わかりました。手続きを進めましょう。お母さんとの交渉は、僕たちも間に入ります。和夫さんは、自分の荷物をまとめることだけに集中してください」
帰り道、和夫は駅前のドラッグストアに立ち寄った。
自分専用の歯ブラシと、新しいタオルを一組買った。
母に買ってもらうのではなく、自分の口座から下ろした「自分のお金」で。
レジの袋を握りしめる感触が、これほどまでに心強いとは思わなかった。
「自立」とは、孤独になることではない。
「自分を救ってくれる場所」を、自分で選ぶことなのだ。
四十九歳の亡命者は、ついに自分の「新天地」を見つけた。
和夫は、夕暮れの街を歩きながら、初めて自分の未来に、小さな期待を抱いていた。
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