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第9話:50歳へのカウントダウン
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二〇二六年、二月。五十歳の誕生日まで、あと三日。
和夫の部屋は、かつてないほど「剥き出し」になっていた。
二十年間、自分を外部の視線から守り、同時に縛り付けてきたガラクタの山を、和夫は少しずつゴミ袋に詰めていた。古いゲーム機のコードが、まるで干からびた血管のように絡まり合う。埃の匂いが舞い、喉をイガイガと刺激した。
一方で、階下からは、生命の気配が消えつつあった。
あの日以来、母・キヨは「食事」を作らなくなった。
家中を支配していた、あの重苦しくも温かい煮物の匂いは消え、代わりに漂ってきたのは、放置された洗い物の生臭さと、母の絶望が腐敗したような、冷たく淀んだ空気だった。
和夫は、キッチンへ降りた。
キヨは、薄暗いリビングのソファで、死んだように横たわっていた。
「……お母さん。冷蔵庫の納豆、賞味期限切れてるよ。何か食べるもの、買ってこようか?」
キヨはゆっくりと身を起こした。その顔からは生気が失われ、深いシワが老婆のような影を落としている。
「……いらないわよ。どうせ私は、あんたに捨てられるんだから。このまま、ここで干からびて死ぬだけだわ。あんたが望んだことでしょう?」
「捨てるとか、そういうことじゃない。僕は、僕の人生を生きたいだけだ」
「人生? 五十にもなって、何が人生よ」
キヨの声は掠れ、毒液のように冷たかった。
「あんたは、お母さんに寄生して生きてきたのよ。お母さんの肉を食らって、ここまで大きくなったの。それを、今さら『自立』なんて……。外の人たちが、あんたをどう見るか。一ヶ月もすれば、泣きながらこのドアを叩くことになるわ。その時、私はもういないかもしれないけどね」
呪いの言葉が、再び和夫の背中に這い寄る。
かつての和夫なら、この「無気力な母」という姿に罪悪感を抱き、自分の荷解きを始めていただろう。しかし、今の彼は、母の指先の震えが、計算された「演技」であることをどこかで察していた。それは、共依存という名の深い沼で、相手を沈めるための最後のあがきだ。
「……荷物、まとめたよ。明日の朝、佐藤さんが車で迎えに来る」
「勝手にしなさい」
キヨは再び背を向け、毛布を頭から被った。
「その代わり、この家にあるものは、お箸一膳だって持っていかせないからね。全部、お母さんが買ったものなんだから」
和夫は黙って二階へ戻った。
部屋の隅に置かれたリュックサックには、新しい下着と、銀行で作ったあの通帳、そして一冊の古い文庫本だけが入っていた。
それは、彼が二十代の頃、まだ「外」に希望を持っていた頃に何度も読み返した、サン=テグジュペリの『夜間飛行』だった。
本を開くと、古い紙の、どこかバニラに似た甘い匂いがした。
『障害は、克服すべきものとして存在するのではない。それは、耐え忍ぶべきものであり、それによって自分を形作るものである』
かつて鉛筆で引いた線が、時を超えて和夫に語りかける。
母に管理されていた二十年間、この本だけが、和夫にとっての本当の「聖域」だったのだ。
夜が更ける。五十歳へのカウントダウンが、静かに進む。
和夫は、部屋の明かりを消した。
暗闇の中、隣の部屋から、母の忍び泣くような、あるいは笑っているような、奇妙な声が聞こえてきた。
それは、長年連れ添った「支配者」と「被支配者」が、その契約を解除する時の、断末魔の音だった。
寂しさが、和夫の胸を締め付ける。どれほど歪んでいても、ここは彼の世界のすべてだったのだ。母の体温、母の作る味噌汁、母の叱咤。それらを失う恐怖は、肉を裂かれるような痛みを伴っていた。
けれど、和夫は目を閉じた。
(痛くていい。寂しくていい。……僕は、一人の人間として、夜を越えるんだ)
翌朝。冷たい雨が降っていた。
佐藤の運転する車が、門の前に停まる。
和夫はリュックを背負い、一階へ降りた。
キヨは玄関の上がり框(かまち)に座っていた。
髪は乱れ、パジャマの上に古い羽織を引っ掛けている。
「……本当に行くのね、和夫」
「うん。行くよ」
「……お金、持ってるの? お母さんに少し、返しなさいよ。今まで育ててあげた分」
最後の最後まで、母の言葉は「金」と「恩」に固執していた。
和夫は、ポケットから千円札を一枚取り出し、下駄箱の上に置いた。
「……これは、昨日のパン代。お母さん、ちゃんと食べてね。健康でいて」
「……あんたなんて、大嫌いよ」
キヨの瞳に、一瞬だけ、激しい憎悪と、それ以上の深い絶望が宿った。
「大嫌い。……大嫌い……」
「……僕も、お母さんが怖かった。でも、感謝もしてるよ。……さよなら」
和夫は、母の震える声を振り切り、玄関の扉を開けた。
外気は氷のように冷たかったが、和夫の肺を心地よく刺激した。
水たまりを蹴り、佐藤の車へと歩む。
車の助手席に座り、窓越しに家を見上げた。
二階の自分の部屋。二十年間、一度も窓を開けることがなかった、あのカーテンの奥。
そこにはもう、佐藤和夫という幽霊はいない。
「行きましょうか、和夫さん」
佐藤の穏やかな声に、和夫は小さく頷いた。
車が動き出す。
バックミラーの中で、小さくなっていく家。
玄関先に、ぼんやりと佇む母の影が見えたような気がしたが、和夫は二度と振り返らなかった。
リュックの中の本が、背中に硬く当たっている。
五十歳まで、あと数時間。
和夫の「夜間飛行」が、ついに始まった。
第9話:50歳へのカウントダウン。
それは、凄惨な決別を経て、一冊の本と一通の通帳だけを武器に、嵐の海へと飛び出した亡命者の背中。
和夫の部屋は、かつてないほど「剥き出し」になっていた。
二十年間、自分を外部の視線から守り、同時に縛り付けてきたガラクタの山を、和夫は少しずつゴミ袋に詰めていた。古いゲーム機のコードが、まるで干からびた血管のように絡まり合う。埃の匂いが舞い、喉をイガイガと刺激した。
一方で、階下からは、生命の気配が消えつつあった。
あの日以来、母・キヨは「食事」を作らなくなった。
家中を支配していた、あの重苦しくも温かい煮物の匂いは消え、代わりに漂ってきたのは、放置された洗い物の生臭さと、母の絶望が腐敗したような、冷たく淀んだ空気だった。
和夫は、キッチンへ降りた。
キヨは、薄暗いリビングのソファで、死んだように横たわっていた。
「……お母さん。冷蔵庫の納豆、賞味期限切れてるよ。何か食べるもの、買ってこようか?」
キヨはゆっくりと身を起こした。その顔からは生気が失われ、深いシワが老婆のような影を落としている。
「……いらないわよ。どうせ私は、あんたに捨てられるんだから。このまま、ここで干からびて死ぬだけだわ。あんたが望んだことでしょう?」
「捨てるとか、そういうことじゃない。僕は、僕の人生を生きたいだけだ」
「人生? 五十にもなって、何が人生よ」
キヨの声は掠れ、毒液のように冷たかった。
「あんたは、お母さんに寄生して生きてきたのよ。お母さんの肉を食らって、ここまで大きくなったの。それを、今さら『自立』なんて……。外の人たちが、あんたをどう見るか。一ヶ月もすれば、泣きながらこのドアを叩くことになるわ。その時、私はもういないかもしれないけどね」
呪いの言葉が、再び和夫の背中に這い寄る。
かつての和夫なら、この「無気力な母」という姿に罪悪感を抱き、自分の荷解きを始めていただろう。しかし、今の彼は、母の指先の震えが、計算された「演技」であることをどこかで察していた。それは、共依存という名の深い沼で、相手を沈めるための最後のあがきだ。
「……荷物、まとめたよ。明日の朝、佐藤さんが車で迎えに来る」
「勝手にしなさい」
キヨは再び背を向け、毛布を頭から被った。
「その代わり、この家にあるものは、お箸一膳だって持っていかせないからね。全部、お母さんが買ったものなんだから」
和夫は黙って二階へ戻った。
部屋の隅に置かれたリュックサックには、新しい下着と、銀行で作ったあの通帳、そして一冊の古い文庫本だけが入っていた。
それは、彼が二十代の頃、まだ「外」に希望を持っていた頃に何度も読み返した、サン=テグジュペリの『夜間飛行』だった。
本を開くと、古い紙の、どこかバニラに似た甘い匂いがした。
『障害は、克服すべきものとして存在するのではない。それは、耐え忍ぶべきものであり、それによって自分を形作るものである』
かつて鉛筆で引いた線が、時を超えて和夫に語りかける。
母に管理されていた二十年間、この本だけが、和夫にとっての本当の「聖域」だったのだ。
夜が更ける。五十歳へのカウントダウンが、静かに進む。
和夫は、部屋の明かりを消した。
暗闇の中、隣の部屋から、母の忍び泣くような、あるいは笑っているような、奇妙な声が聞こえてきた。
それは、長年連れ添った「支配者」と「被支配者」が、その契約を解除する時の、断末魔の音だった。
寂しさが、和夫の胸を締め付ける。どれほど歪んでいても、ここは彼の世界のすべてだったのだ。母の体温、母の作る味噌汁、母の叱咤。それらを失う恐怖は、肉を裂かれるような痛みを伴っていた。
けれど、和夫は目を閉じた。
(痛くていい。寂しくていい。……僕は、一人の人間として、夜を越えるんだ)
翌朝。冷たい雨が降っていた。
佐藤の運転する車が、門の前に停まる。
和夫はリュックを背負い、一階へ降りた。
キヨは玄関の上がり框(かまち)に座っていた。
髪は乱れ、パジャマの上に古い羽織を引っ掛けている。
「……本当に行くのね、和夫」
「うん。行くよ」
「……お金、持ってるの? お母さんに少し、返しなさいよ。今まで育ててあげた分」
最後の最後まで、母の言葉は「金」と「恩」に固執していた。
和夫は、ポケットから千円札を一枚取り出し、下駄箱の上に置いた。
「……これは、昨日のパン代。お母さん、ちゃんと食べてね。健康でいて」
「……あんたなんて、大嫌いよ」
キヨの瞳に、一瞬だけ、激しい憎悪と、それ以上の深い絶望が宿った。
「大嫌い。……大嫌い……」
「……僕も、お母さんが怖かった。でも、感謝もしてるよ。……さよなら」
和夫は、母の震える声を振り切り、玄関の扉を開けた。
外気は氷のように冷たかったが、和夫の肺を心地よく刺激した。
水たまりを蹴り、佐藤の車へと歩む。
車の助手席に座り、窓越しに家を見上げた。
二階の自分の部屋。二十年間、一度も窓を開けることがなかった、あのカーテンの奥。
そこにはもう、佐藤和夫という幽霊はいない。
「行きましょうか、和夫さん」
佐藤の穏やかな声に、和夫は小さく頷いた。
車が動き出す。
バックミラーの中で、小さくなっていく家。
玄関先に、ぼんやりと佇む母の影が見えたような気がしたが、和夫は二度と振り返らなかった。
リュックの中の本が、背中に硬く当たっている。
五十歳まで、あと数時間。
和夫の「夜間飛行」が、ついに始まった。
第9話:50歳へのカウントダウン。
それは、凄惨な決別を経て、一冊の本と一通の通帳だけを武器に、嵐の海へと飛び出した亡命者の背中。
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