『49歳の亡命 〜子供部屋からの脱出〜』

かおるこ

文字の大きさ
10 / 14

第9話:50歳へのカウントダウン

しおりを挟む
二〇二六年、二月。五十歳の誕生日まで、あと三日。

和夫の部屋は、かつてないほど「剥き出し」になっていた。
二十年間、自分を外部の視線から守り、同時に縛り付けてきたガラクタの山を、和夫は少しずつゴミ袋に詰めていた。古いゲーム機のコードが、まるで干からびた血管のように絡まり合う。埃の匂いが舞い、喉をイガイガと刺激した。

一方で、階下からは、生命の気配が消えつつあった。
あの日以来、母・キヨは「食事」を作らなくなった。
家中を支配していた、あの重苦しくも温かい煮物の匂いは消え、代わりに漂ってきたのは、放置された洗い物の生臭さと、母の絶望が腐敗したような、冷たく淀んだ空気だった。

和夫は、キッチンへ降りた。
キヨは、薄暗いリビングのソファで、死んだように横たわっていた。
「……お母さん。冷蔵庫の納豆、賞味期限切れてるよ。何か食べるもの、買ってこようか?」

キヨはゆっくりと身を起こした。その顔からは生気が失われ、深いシワが老婆のような影を落としている。
「……いらないわよ。どうせ私は、あんたに捨てられるんだから。このまま、ここで干からびて死ぬだけだわ。あんたが望んだことでしょう?」

「捨てるとか、そういうことじゃない。僕は、僕の人生を生きたいだけだ」

「人生? 五十にもなって、何が人生よ」
キヨの声は掠れ、毒液のように冷たかった。
「あんたは、お母さんに寄生して生きてきたのよ。お母さんの肉を食らって、ここまで大きくなったの。それを、今さら『自立』なんて……。外の人たちが、あんたをどう見るか。一ヶ月もすれば、泣きながらこのドアを叩くことになるわ。その時、私はもういないかもしれないけどね」

呪いの言葉が、再び和夫の背中に這い寄る。
かつての和夫なら、この「無気力な母」という姿に罪悪感を抱き、自分の荷解きを始めていただろう。しかし、今の彼は、母の指先の震えが、計算された「演技」であることをどこかで察していた。それは、共依存という名の深い沼で、相手を沈めるための最後のあがきだ。

「……荷物、まとめたよ。明日の朝、佐藤さんが車で迎えに来る」

「勝手にしなさい」
キヨは再び背を向け、毛布を頭から被った。
「その代わり、この家にあるものは、お箸一膳だって持っていかせないからね。全部、お母さんが買ったものなんだから」

和夫は黙って二階へ戻った。
部屋の隅に置かれたリュックサックには、新しい下着と、銀行で作ったあの通帳、そして一冊の古い文庫本だけが入っていた。
それは、彼が二十代の頃、まだ「外」に希望を持っていた頃に何度も読み返した、サン=テグジュペリの『夜間飛行』だった。

本を開くと、古い紙の、どこかバニラに似た甘い匂いがした。
『障害は、克服すべきものとして存在するのではない。それは、耐え忍ぶべきものであり、それによって自分を形作るものである』
かつて鉛筆で引いた線が、時を超えて和夫に語りかける。
母に管理されていた二十年間、この本だけが、和夫にとっての本当の「聖域」だったのだ。

夜が更ける。五十歳へのカウントダウンが、静かに進む。
和夫は、部屋の明かりを消した。
暗闇の中、隣の部屋から、母の忍び泣くような、あるいは笑っているような、奇妙な声が聞こえてきた。
それは、長年連れ添った「支配者」と「被支配者」が、その契約を解除する時の、断末魔の音だった。
寂しさが、和夫の胸を締め付ける。どれほど歪んでいても、ここは彼の世界のすべてだったのだ。母の体温、母の作る味噌汁、母の叱咤。それらを失う恐怖は、肉を裂かれるような痛みを伴っていた。

けれど、和夫は目を閉じた。
(痛くていい。寂しくていい。……僕は、一人の人間として、夜を越えるんだ)

翌朝。冷たい雨が降っていた。
佐藤の運転する車が、門の前に停まる。
和夫はリュックを背負い、一階へ降りた。

キヨは玄関の上がり框(かまち)に座っていた。
髪は乱れ、パジャマの上に古い羽織を引っ掛けている。
「……本当に行くのね、和夫」

「うん。行くよ」

「……お金、持ってるの? お母さんに少し、返しなさいよ。今まで育ててあげた分」

最後の最後まで、母の言葉は「金」と「恩」に固執していた。
和夫は、ポケットから千円札を一枚取り出し、下駄箱の上に置いた。
「……これは、昨日のパン代。お母さん、ちゃんと食べてね。健康でいて」

「……あんたなんて、大嫌いよ」
キヨの瞳に、一瞬だけ、激しい憎悪と、それ以上の深い絶望が宿った。
「大嫌い。……大嫌い……」

「……僕も、お母さんが怖かった。でも、感謝もしてるよ。……さよなら」

和夫は、母の震える声を振り切り、玄関の扉を開けた。
外気は氷のように冷たかったが、和夫の肺を心地よく刺激した。
水たまりを蹴り、佐藤の車へと歩む。

車の助手席に座り、窓越しに家を見上げた。
二階の自分の部屋。二十年間、一度も窓を開けることがなかった、あのカーテンの奥。
そこにはもう、佐藤和夫という幽霊はいない。

「行きましょうか、和夫さん」
佐藤の穏やかな声に、和夫は小さく頷いた。

車が動き出す。
バックミラーの中で、小さくなっていく家。
玄関先に、ぼんやりと佇む母の影が見えたような気がしたが、和夫は二度と振り返らなかった。

リュックの中の本が、背中に硬く当たっている。
五十歳まで、あと数時間。
和夫の「夜間飛行」が、ついに始まった。

第9話:50歳へのカウントダウン。
それは、凄惨な決別を経て、一冊の本と一通の通帳だけを武器に、嵐の海へと飛び出した亡命者の背中。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします

二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位! ※この物語はフィクションです 流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。 当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。

思い出さなければ良かったのに

田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。 大事なことを忘れたまま。 *本編完結済。不定期で番外編を更新中です。

可愛らしい人

はるきりょう
恋愛
「でも、ライアン様には、エレナ様がいらっしゃるのでは?」 「ああ、エレナね。よく勘違いされるんだけど、エレナとは婚約者でも何でもないんだ。ただの幼馴染み」 「それにあいつはひとりで生きていけるから」 女性ながらに剣術を学ぶエレナは可愛げがないという理由で、ほとんど婚約者同然の幼馴染から捨てられる。 けれど、 「エレナ嬢」 「なんでしょうか?」 「今日の夜会のパートナーはお決まりですか?」  その言葉でパートナー同伴の夜会に招待されていたことを思い出した。いつものとおりライアンと一緒に行くと思っていたので参加の返事を出していたのだ。 「……いいえ」  当日の欠席は著しく評価を下げる。今後、家庭教師として仕事をしていきたいと考えるのであれば、父親か兄に頼んででも行った方がいいだろう。 「よければ僕と一緒に行きませんか?」

いちばん好きな人…

麻実
恋愛
夫の裏切りを知った妻は 自分もまた・・・。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

春に狂(くる)う

転生新語
恋愛
 先輩と後輩、というだけの関係。後輩の少女の体を、私はホテルで時間を掛けて味わう。  小説家になろう、カクヨムに投稿しています。  小説家になろう→https://ncode.syosetu.com/n5251id/  カクヨム→https://kakuyomu.jp/works/16817330654752443761

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

処理中です...