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二〇二六年、二月十七日。午前零時。
和夫は、見慣れない天井を見つめていた。
昨夜入居したばかりのグループホーム『ひだまりの家』の個室。古い畳の匂いではなく、真新しいシーツの糊の香りと、ほんのりと残る洗剤の匂いが、鼻腔をくすぐる。
スマートフォンの画面が、静かに光った。
【二月十七日 午前〇時〇分】
「……五十だ」
独り言が、六畳の空間に柔らかく響いた。
四十九年前の今日、この世に生を受けた。けれど、本当の意味で「自分」として目覚めたのは、今日なのかもしれない。
和夫はゆっくりと身を起こし、枕元に置いてあった小さな紙袋を引き寄せた。
中には、昨日の夕方、初めて一人でコンビニへ行って買った、百十円のホットコーヒーが入っている。
すでに冷めてしまった紙コップの蓋を開けると、微かに苦い香りが立ち上った。
一口、含んでみる。
母が淹れる、砂糖たっぷりの甘いカフェオレとは違う。喉の奥に引っかかるような、剥き出しの苦味。
「……にが」
和夫は、小さく笑った。この苦味こそが、自分の年金で、自分の意志で、自分のために選んだ「自由の味」だった。
朝、六時。
階下から、朝食を準備する食器の音が聞こえてきた。
カチャカチャという乾いた音は、母の家の刺すような緊張感を含んだ音とは違い、どこか心地よいリズムを刻んでいる。
和夫は、昨日まで着ていた防虫剤の匂いのする服ではなく、佐藤と一緒に選んだ、安物だが清潔な紺色のパーカーに袖を通した。
和夫は、窓の鍵に手をかけた。
指先に伝わるアルミサッシの冷たさ。
これまで四十九年間、和夫が見つめてきたのは、母が丹精込めて手入れし、彼を閉じ込めてきた「あの庭」だけだった。
深呼吸を一つして、窓を力いっぱい引く。
「……あ」
入ってきたのは、鋭く冷たい、けれど驚くほど透明な冬の風だった。
窓の外には、庭はない。
すぐ下を走る道路。向かいのマンションのベランダに干された洗濯物。遠くの駅へと急ぐ、知らない誰かの自転車のベル。
どこにでもある、名もなき街の、ありふれた朝の景色。
けれど、そこには「自由」が溢れていた。
排気ガスの匂い、誰かの朝ごはんの焼魚の匂い。それらすべてが、和夫の頬を叩き、「お前もこの世界の一員だ」と告げているようだった。
「和夫さん、おはようございます。起きてますか?」
ドアを叩く音。昨日のスタッフの声だ。
「はい、起きてます。今、行きます」
和夫の声は、もう掠れていなかった。
リビングへ降りると、昨日の山下さんが、トーストを口に運んでいた。
「あ……お、おはよう。佐藤さん」
「おはよう、山下さん」
名字が同じ「佐藤」である相談員の佐藤が、今日は非番のはずなのに、顔を出してくれていた。
「和夫さん、誕生日おめでとうございます」
「……ありがとうございます」
和夫は照れくさそうに頭を下げた。
「どうですか、初めての朝は」
「コーヒーが、苦かったです。冷めてたからかもしれないけど」
和夫の言葉に、リビングに小さな笑い声が起きた。
「それでいいんですよ。苦いのも、寒いのも、全部あなたが自分で選んだ結果ですから」
佐藤はそう言って、和夫の前に一枚のチラシを置いた。
『地域清掃ボランティア募集』『軽作業・内職パートナー募集』
「さて、五十歳の初仕事。何か興味があるものはありますか?」
和夫は、チラシに目を落とした。
文字が躍っている。かつては自分を追い詰めるだけの「社会」という記号が、今は自分を招き入れる「招待状」に見えた。
「……あの、掃除から始めてみたいです。外の空気を吸いながら、体を動かしたい」
「いいですね。まずは一時間から始めましょう」
朝食を終えた和夫は、再び自分の部屋に戻った。
机の上には、あの『夜間飛行』の文庫本と、新しい通帳が並んでいる。
通帳の中身は、まだ数百円の残高しかない。母が使い込んだ一千万円は、もう戻ってこないかもしれない。
けれど、和夫は不思議と惜しいとは思わなかった。
あの一千万円は、自分が「自分を諦めていた時間」の代償だったのだ。
和夫は、リュックの中から一通の手紙を取り出した。
昨日、家を出る直前に机に残してきた、母への最後の手紙。
『お母さん。僕はもう、お母さんの人形には戻りません。でも、お母さんも、僕の母親という役割から降りて、自分のために生きてください。さようなら。』
それは、決別であると同時に、二人を縛り続けた呪いからの「解放」でもあった。
再び窓の外に目を向ける。
太陽が昇り、街が黄金色に輝き始めていた。
風はまだ冷たい。外の世界は、母が言った通り、きっと残酷で、理不尽で、パニックになることもあるだろう。
でも、ここには、一緒に呼吸をしてくれる仲間がいる。助けを呼べば、手を貸してくれる人がいる。
和夫は、自分の手のひらをじっと見つめた。
五十歳。
世間から見れば、人生の折り返しを過ぎ、再起不能だと思われる年齢かもしれない。
けれど、和夫にとっては、今日が「一歳」の誕生日だ。
「……さて」
和夫は、立ち上がった。
「さて、何をしようか」
その言葉は、誰に強制されるでもなく、誰の顔色を窺うでもなく、自分の腹の底から湧き上がってきた、純粋な好奇心だった。
和夫は、新しい靴の紐をしっかりと結んだ。
一歩。
部屋の敷居を跨ぎ、廊下へ踏み出す。
その足取りは、四十九年間で最も軽く、そして力強かった。
二〇二六年、二月十七日。
佐藤和夫、五十歳。
彼の本当の人生が、今、冬の光の中で、静かに、鮮やかに始まった。
第10話:新しい朝。
亡命者は、ついに自分の大地に根を下ろし、新しい風を吸い込んだ。
(完)
和夫は、見慣れない天井を見つめていた。
昨夜入居したばかりのグループホーム『ひだまりの家』の個室。古い畳の匂いではなく、真新しいシーツの糊の香りと、ほんのりと残る洗剤の匂いが、鼻腔をくすぐる。
スマートフォンの画面が、静かに光った。
【二月十七日 午前〇時〇分】
「……五十だ」
独り言が、六畳の空間に柔らかく響いた。
四十九年前の今日、この世に生を受けた。けれど、本当の意味で「自分」として目覚めたのは、今日なのかもしれない。
和夫はゆっくりと身を起こし、枕元に置いてあった小さな紙袋を引き寄せた。
中には、昨日の夕方、初めて一人でコンビニへ行って買った、百十円のホットコーヒーが入っている。
すでに冷めてしまった紙コップの蓋を開けると、微かに苦い香りが立ち上った。
一口、含んでみる。
母が淹れる、砂糖たっぷりの甘いカフェオレとは違う。喉の奥に引っかかるような、剥き出しの苦味。
「……にが」
和夫は、小さく笑った。この苦味こそが、自分の年金で、自分の意志で、自分のために選んだ「自由の味」だった。
朝、六時。
階下から、朝食を準備する食器の音が聞こえてきた。
カチャカチャという乾いた音は、母の家の刺すような緊張感を含んだ音とは違い、どこか心地よいリズムを刻んでいる。
和夫は、昨日まで着ていた防虫剤の匂いのする服ではなく、佐藤と一緒に選んだ、安物だが清潔な紺色のパーカーに袖を通した。
和夫は、窓の鍵に手をかけた。
指先に伝わるアルミサッシの冷たさ。
これまで四十九年間、和夫が見つめてきたのは、母が丹精込めて手入れし、彼を閉じ込めてきた「あの庭」だけだった。
深呼吸を一つして、窓を力いっぱい引く。
「……あ」
入ってきたのは、鋭く冷たい、けれど驚くほど透明な冬の風だった。
窓の外には、庭はない。
すぐ下を走る道路。向かいのマンションのベランダに干された洗濯物。遠くの駅へと急ぐ、知らない誰かの自転車のベル。
どこにでもある、名もなき街の、ありふれた朝の景色。
けれど、そこには「自由」が溢れていた。
排気ガスの匂い、誰かの朝ごはんの焼魚の匂い。それらすべてが、和夫の頬を叩き、「お前もこの世界の一員だ」と告げているようだった。
「和夫さん、おはようございます。起きてますか?」
ドアを叩く音。昨日のスタッフの声だ。
「はい、起きてます。今、行きます」
和夫の声は、もう掠れていなかった。
リビングへ降りると、昨日の山下さんが、トーストを口に運んでいた。
「あ……お、おはよう。佐藤さん」
「おはよう、山下さん」
名字が同じ「佐藤」である相談員の佐藤が、今日は非番のはずなのに、顔を出してくれていた。
「和夫さん、誕生日おめでとうございます」
「……ありがとうございます」
和夫は照れくさそうに頭を下げた。
「どうですか、初めての朝は」
「コーヒーが、苦かったです。冷めてたからかもしれないけど」
和夫の言葉に、リビングに小さな笑い声が起きた。
「それでいいんですよ。苦いのも、寒いのも、全部あなたが自分で選んだ結果ですから」
佐藤はそう言って、和夫の前に一枚のチラシを置いた。
『地域清掃ボランティア募集』『軽作業・内職パートナー募集』
「さて、五十歳の初仕事。何か興味があるものはありますか?」
和夫は、チラシに目を落とした。
文字が躍っている。かつては自分を追い詰めるだけの「社会」という記号が、今は自分を招き入れる「招待状」に見えた。
「……あの、掃除から始めてみたいです。外の空気を吸いながら、体を動かしたい」
「いいですね。まずは一時間から始めましょう」
朝食を終えた和夫は、再び自分の部屋に戻った。
机の上には、あの『夜間飛行』の文庫本と、新しい通帳が並んでいる。
通帳の中身は、まだ数百円の残高しかない。母が使い込んだ一千万円は、もう戻ってこないかもしれない。
けれど、和夫は不思議と惜しいとは思わなかった。
あの一千万円は、自分が「自分を諦めていた時間」の代償だったのだ。
和夫は、リュックの中から一通の手紙を取り出した。
昨日、家を出る直前に机に残してきた、母への最後の手紙。
『お母さん。僕はもう、お母さんの人形には戻りません。でも、お母さんも、僕の母親という役割から降りて、自分のために生きてください。さようなら。』
それは、決別であると同時に、二人を縛り続けた呪いからの「解放」でもあった。
再び窓の外に目を向ける。
太陽が昇り、街が黄金色に輝き始めていた。
風はまだ冷たい。外の世界は、母が言った通り、きっと残酷で、理不尽で、パニックになることもあるだろう。
でも、ここには、一緒に呼吸をしてくれる仲間がいる。助けを呼べば、手を貸してくれる人がいる。
和夫は、自分の手のひらをじっと見つめた。
五十歳。
世間から見れば、人生の折り返しを過ぎ、再起不能だと思われる年齢かもしれない。
けれど、和夫にとっては、今日が「一歳」の誕生日だ。
「……さて」
和夫は、立ち上がった。
「さて、何をしようか」
その言葉は、誰に強制されるでもなく、誰の顔色を窺うでもなく、自分の腹の底から湧き上がってきた、純粋な好奇心だった。
和夫は、新しい靴の紐をしっかりと結んだ。
一歩。
部屋の敷居を跨ぎ、廊下へ踏み出す。
その足取りは、四十九年間で最も軽く、そして力強かった。
二〇二六年、二月十七日。
佐藤和夫、五十歳。
彼の本当の人生が、今、冬の光の中で、静かに、鮮やかに始まった。
第10話:新しい朝。
亡命者は、ついに自分の大地に根を下ろし、新しい風を吸い込んだ。
(完)
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