12 / 14
『数字の亡命』
しおりを挟む
二月の凍てつく空が、板橋区の古いアパートの窓ガラスを震わせていた。
和夫は、入居したばかりの四畳半の部屋で、区役所のケースワーカーから手渡された一枚の「保護決定通知書」を食い入るように見つめていた。
そこには、四十九年間、実家の「子供部屋」という名の不透明な繭の中で、彼が一度も見ることがなかった現実の数字が、無機質に並んでいた。
「合計……十四万、七千、七百九十円……」
和夫の声が、まだ家具の少ないガランとした部屋に反響した。
その数字の重みに、和夫は眩暈を感じた。実家で障害年金だけを頼りにしていた頃、彼は「自分は月数万円で生きている」と思い込んでいた。母が「やりくりが大変だ」と溢すたびに、自分の年金の八万円ほどがあれば、十分お釣りが出るはずだとさえ考えていたのだ。
「佐藤さん、驚かれましたか?」
隣でパイプ椅子に腰掛けているケースワーカーの、若いが落ち着いた声がした。
「……驚きました。生活って、こんなに……こんなにかかるものなんですか」
和夫の手が、通知書を持つ端から震え出す。
「家賃補助が、五万三千七百円。生活費が、合わせて七万四千円……。それに、障害者加算が、一万七千八百七十円。……これ、全部合わせたら、僕の年金なんて、半分くらいにしかならない」
和夫の脳裏に、実家のキッチンの光景が浮かんだ。
母が作っていた、具沢山の味噌汁。冬になれば当たり前のように点いていたファンヒーターの温風。夜、当たり前のように灯っていた電球の光。
それらすべてに、この「十四万七千円」の一部が、血を流すように費やされていたのだ。
「お母様は、ずっと仰っていましたよね。『あんた一人の年金じゃ、外では生きていけない』って」
ケースワーカーが、静かに、しかし事実を突きつけるように言った。
「あれは、支配するための嘘でもありましたが、同時に……この社会の厳しい『現実』でもあったんです。障害年金だけでは、今の日本では、一人で屋根の下に住み、三食を食べて健康を維持することは、物理的に不可能な計算なんです」
和夫は、冷たい床に視線を落とした。
足の裏から伝わる、アパートの安いクッションフロアの感触。
実家の分厚い畳とは違う、その頼りない薄さが、今の自分の立場を象徴しているようだった。
「……僕、ずっと、母さんに搾取されてるって思ってました。確かに、兄貴に金を流したり、通販に使ったりしてたのは許せない。でも……」
和夫は、胸の奥からせり上がってくる、苦い後悔を飲み込んだ。
「僕が、この部屋で電気をつけて、水を飲んで、こうして座っているだけで、国からこれだけの助けが必要だなんて。……僕は、生きてるだけで、こんなにお金がかかる『お荷物』だったのか」
「それは違いますよ、和夫さん」
ケースワーカーが、身を乗り出した。
「『お荷物』じゃない。これは、あなたが人間らしく生きるための『権利』なんです。今まで、お母様がその権利を独占して、あなたに『現実』を教えずに囲い込んでいた。だから今、あなたは初めて、自分の命の値段を直視しているだけです。悲観することはありません」
和夫は、窓の外を眺めた。
板橋の、密集した住宅街。あちこちの家から、夕食の準備を始める匂いが漂ってくる。
かつては「呪いの匂い」だと思っていた煮物の香りが、今は「維持するために莫大なエネルギーと金が必要な、奇跡のような日常の匂い」に感じられた。
(生活って、戦いなんだ……)
和夫は、通知書の「住宅扶助 53,700円」という項目を指でなぞった。
実家にいた頃は、雨風を凌ぐ屋根があることを「当然」だと思っていた。
けれど、その屋根を維持するためだけに、自分の年金の半分以上が消えていく。残りの数万円で、米を買い、服を買い、たまには今日のような寒い日に、百円のコーヒーを飲む。
「……十四万。これを受け取って、僕は、これからどうすればいいんでしょうか。お母さんがいないと、何を買えばいいのか、何を節約すればいいのかも……」
「一つずつ覚えましょう」
ケースワーカーは、一冊の薄いノートを差し出した。
「家計簿です。まずは、今日買ったもののレシートを貼ることから。和夫さん、あなたは四十九年間、お母様に『消費者』としての権利を奪われてきた。今日から、この十四万七千円をどう使うか、あなたが決めるんです。それは、重い責任ですが……同時に、本当の『自由』ですよ」
ケースワーカーが帰った後、和夫は一人、部屋に残された。
暗くなり始めた部屋で、照明のスイッチを入れる。
パチッ。
一瞬で部屋が明るくなる。
この一瞬の光にも、生活保護費の「生活扶助」の一部が使われている。
和夫は、その光の温かさが、これまでとは全く違って感じられた。
「……高いな。生きるって」
和夫は、コンビニで買ってきた一番安い食パンの袋を開けた。
カサカサという乾いた音。
パンの香ばしい、けれど少し人工的な匂い。
ジャムもバターもない。けれど、これを自分の手で選び、この数字の中から捻出したお金で買ったのだと思うと、喉を通るパンの塊が、石のように重く、そして誇らしく感じられた。
もし、実家を出て、あのまま一人で放り出されていたら。
もし、この生活保護という「補填」がなかったら。
自分は今頃、この寒空の下で、十四万七千円の現実を知る前に、凍えて死んでいたかもしれない。
「お母さん……。あんたが言ってたこと、半分は本当だったよ」
和夫は、真っ暗な窓ガラスに映る、自分の痩せた顔に語りかけた。
「一人じゃ、生きていけない。でも、あんたと一緒じゃ、僕は僕になれなかった」
和夫は、机の上に広げた通知書を、丁寧に折り畳んだ。
十四万七千七百九十円。
それは、社会が自分を「見捨てない」と約束してくれた、契約書の重みだ。
年金だけでは足りない。助けがないと立てない。
その弱さを認めることが、これほどまでに勇気のいることだとは知らなかった。
和夫は、ノートを開き、今日買った食パンの値段、百八円を、震える字で書き込んだ。
「……百八円。残りは……」
引き算をする指先。
五感のすべてが、今、この狭いアパートの空間の中で、鋭敏に研ぎ澄まされていく。
母の家の「優しい監禁」から逃れ、板橋の「厳しい現実」に亡命した男。
和夫は、自分の命の維持費を噛みしめるように、静かに、二枚目のパンを口に運んだ。
「生活って……こんなにかかるのか。……でも、悪くないな」
冷たい風が、窓の隙間から入り込み、和夫の頬を撫でた。
それは、彼が生まれて初めて知る、自分の人生を運営していくための、厳しくも清々しい、責任の重みだった。
第10話・別景:数字の亡命。
和夫は、十四万七千円という名の「希望」を握りしめ、板橋の夜に、深く、深く、自分の足跡を刻み始めた。
和夫は、入居したばかりの四畳半の部屋で、区役所のケースワーカーから手渡された一枚の「保護決定通知書」を食い入るように見つめていた。
そこには、四十九年間、実家の「子供部屋」という名の不透明な繭の中で、彼が一度も見ることがなかった現実の数字が、無機質に並んでいた。
「合計……十四万、七千、七百九十円……」
和夫の声が、まだ家具の少ないガランとした部屋に反響した。
その数字の重みに、和夫は眩暈を感じた。実家で障害年金だけを頼りにしていた頃、彼は「自分は月数万円で生きている」と思い込んでいた。母が「やりくりが大変だ」と溢すたびに、自分の年金の八万円ほどがあれば、十分お釣りが出るはずだとさえ考えていたのだ。
「佐藤さん、驚かれましたか?」
隣でパイプ椅子に腰掛けているケースワーカーの、若いが落ち着いた声がした。
「……驚きました。生活って、こんなに……こんなにかかるものなんですか」
和夫の手が、通知書を持つ端から震え出す。
「家賃補助が、五万三千七百円。生活費が、合わせて七万四千円……。それに、障害者加算が、一万七千八百七十円。……これ、全部合わせたら、僕の年金なんて、半分くらいにしかならない」
和夫の脳裏に、実家のキッチンの光景が浮かんだ。
母が作っていた、具沢山の味噌汁。冬になれば当たり前のように点いていたファンヒーターの温風。夜、当たり前のように灯っていた電球の光。
それらすべてに、この「十四万七千円」の一部が、血を流すように費やされていたのだ。
「お母様は、ずっと仰っていましたよね。『あんた一人の年金じゃ、外では生きていけない』って」
ケースワーカーが、静かに、しかし事実を突きつけるように言った。
「あれは、支配するための嘘でもありましたが、同時に……この社会の厳しい『現実』でもあったんです。障害年金だけでは、今の日本では、一人で屋根の下に住み、三食を食べて健康を維持することは、物理的に不可能な計算なんです」
和夫は、冷たい床に視線を落とした。
足の裏から伝わる、アパートの安いクッションフロアの感触。
実家の分厚い畳とは違う、その頼りない薄さが、今の自分の立場を象徴しているようだった。
「……僕、ずっと、母さんに搾取されてるって思ってました。確かに、兄貴に金を流したり、通販に使ったりしてたのは許せない。でも……」
和夫は、胸の奥からせり上がってくる、苦い後悔を飲み込んだ。
「僕が、この部屋で電気をつけて、水を飲んで、こうして座っているだけで、国からこれだけの助けが必要だなんて。……僕は、生きてるだけで、こんなにお金がかかる『お荷物』だったのか」
「それは違いますよ、和夫さん」
ケースワーカーが、身を乗り出した。
「『お荷物』じゃない。これは、あなたが人間らしく生きるための『権利』なんです。今まで、お母様がその権利を独占して、あなたに『現実』を教えずに囲い込んでいた。だから今、あなたは初めて、自分の命の値段を直視しているだけです。悲観することはありません」
和夫は、窓の外を眺めた。
板橋の、密集した住宅街。あちこちの家から、夕食の準備を始める匂いが漂ってくる。
かつては「呪いの匂い」だと思っていた煮物の香りが、今は「維持するために莫大なエネルギーと金が必要な、奇跡のような日常の匂い」に感じられた。
(生活って、戦いなんだ……)
和夫は、通知書の「住宅扶助 53,700円」という項目を指でなぞった。
実家にいた頃は、雨風を凌ぐ屋根があることを「当然」だと思っていた。
けれど、その屋根を維持するためだけに、自分の年金の半分以上が消えていく。残りの数万円で、米を買い、服を買い、たまには今日のような寒い日に、百円のコーヒーを飲む。
「……十四万。これを受け取って、僕は、これからどうすればいいんでしょうか。お母さんがいないと、何を買えばいいのか、何を節約すればいいのかも……」
「一つずつ覚えましょう」
ケースワーカーは、一冊の薄いノートを差し出した。
「家計簿です。まずは、今日買ったもののレシートを貼ることから。和夫さん、あなたは四十九年間、お母様に『消費者』としての権利を奪われてきた。今日から、この十四万七千円をどう使うか、あなたが決めるんです。それは、重い責任ですが……同時に、本当の『自由』ですよ」
ケースワーカーが帰った後、和夫は一人、部屋に残された。
暗くなり始めた部屋で、照明のスイッチを入れる。
パチッ。
一瞬で部屋が明るくなる。
この一瞬の光にも、生活保護費の「生活扶助」の一部が使われている。
和夫は、その光の温かさが、これまでとは全く違って感じられた。
「……高いな。生きるって」
和夫は、コンビニで買ってきた一番安い食パンの袋を開けた。
カサカサという乾いた音。
パンの香ばしい、けれど少し人工的な匂い。
ジャムもバターもない。けれど、これを自分の手で選び、この数字の中から捻出したお金で買ったのだと思うと、喉を通るパンの塊が、石のように重く、そして誇らしく感じられた。
もし、実家を出て、あのまま一人で放り出されていたら。
もし、この生活保護という「補填」がなかったら。
自分は今頃、この寒空の下で、十四万七千円の現実を知る前に、凍えて死んでいたかもしれない。
「お母さん……。あんたが言ってたこと、半分は本当だったよ」
和夫は、真っ暗な窓ガラスに映る、自分の痩せた顔に語りかけた。
「一人じゃ、生きていけない。でも、あんたと一緒じゃ、僕は僕になれなかった」
和夫は、机の上に広げた通知書を、丁寧に折り畳んだ。
十四万七千七百九十円。
それは、社会が自分を「見捨てない」と約束してくれた、契約書の重みだ。
年金だけでは足りない。助けがないと立てない。
その弱さを認めることが、これほどまでに勇気のいることだとは知らなかった。
和夫は、ノートを開き、今日買った食パンの値段、百八円を、震える字で書き込んだ。
「……百八円。残りは……」
引き算をする指先。
五感のすべてが、今、この狭いアパートの空間の中で、鋭敏に研ぎ澄まされていく。
母の家の「優しい監禁」から逃れ、板橋の「厳しい現実」に亡命した男。
和夫は、自分の命の維持費を噛みしめるように、静かに、二枚目のパンを口に運んだ。
「生活って……こんなにかかるのか。……でも、悪くないな」
冷たい風が、窓の隙間から入り込み、和夫の頬を撫でた。
それは、彼が生まれて初めて知る、自分の人生を運営していくための、厳しくも清々しい、責任の重みだった。
第10話・別景:数字の亡命。
和夫は、十四万七千円という名の「希望」を握りしめ、板橋の夜に、深く、深く、自分の足跡を刻み始めた。
0
あなたにおすすめの小説
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
思い出さなければ良かったのに
田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。
大事なことを忘れたまま。
*本編完結済。不定期で番外編を更新中です。
可愛らしい人
はるきりょう
恋愛
「でも、ライアン様には、エレナ様がいらっしゃるのでは?」
「ああ、エレナね。よく勘違いされるんだけど、エレナとは婚約者でも何でもないんだ。ただの幼馴染み」
「それにあいつはひとりで生きていけるから」
女性ながらに剣術を学ぶエレナは可愛げがないという理由で、ほとんど婚約者同然の幼馴染から捨てられる。
けれど、
「エレナ嬢」
「なんでしょうか?」
「今日の夜会のパートナーはお決まりですか?」
その言葉でパートナー同伴の夜会に招待されていたことを思い出した。いつものとおりライアンと一緒に行くと思っていたので参加の返事を出していたのだ。
「……いいえ」
当日の欠席は著しく評価を下げる。今後、家庭教師として仕事をしていきたいと考えるのであれば、父親か兄に頼んででも行った方がいいだろう。
「よければ僕と一緒に行きませんか?」
春に狂(くる)う
転生新語
恋愛
先輩と後輩、というだけの関係。後輩の少女の体を、私はホテルで時間を掛けて味わう。
小説家になろう、カクヨムに投稿しています。
小説家になろう→https://ncode.syosetu.com/n5251id/
カクヨム→https://kakuyomu.jp/works/16817330654752443761
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる