『49歳の亡命 〜子供部屋からの脱出〜』

かおるこ

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『数字の亡命』

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二月の凍てつく空が、板橋区の古いアパートの窓ガラスを震わせていた。

和夫は、入居したばかりの四畳半の部屋で、区役所のケースワーカーから手渡された一枚の「保護決定通知書」を食い入るように見つめていた。
そこには、四十九年間、実家の「子供部屋」という名の不透明な繭の中で、彼が一度も見ることがなかった現実の数字が、無機質に並んでいた。

「合計……十四万、七千、七百九十円……」

和夫の声が、まだ家具の少ないガランとした部屋に反響した。
その数字の重みに、和夫は眩暈を感じた。実家で障害年金だけを頼りにしていた頃、彼は「自分は月数万円で生きている」と思い込んでいた。母が「やりくりが大変だ」と溢すたびに、自分の年金の八万円ほどがあれば、十分お釣りが出るはずだとさえ考えていたのだ。

「佐藤さん、驚かれましたか?」
隣でパイプ椅子に腰掛けているケースワーカーの、若いが落ち着いた声がした。

「……驚きました。生活って、こんなに……こんなにかかるものなんですか」

和夫の手が、通知書を持つ端から震え出す。
「家賃補助が、五万三千七百円。生活費が、合わせて七万四千円……。それに、障害者加算が、一万七千八百七十円。……これ、全部合わせたら、僕の年金なんて、半分くらいにしかならない」

和夫の脳裏に、実家のキッチンの光景が浮かんだ。
母が作っていた、具沢山の味噌汁。冬になれば当たり前のように点いていたファンヒーターの温風。夜、当たり前のように灯っていた電球の光。
それらすべてに、この「十四万七千円」の一部が、血を流すように費やされていたのだ。

「お母様は、ずっと仰っていましたよね。『あんた一人の年金じゃ、外では生きていけない』って」
ケースワーカーが、静かに、しかし事実を突きつけるように言った。
「あれは、支配するための嘘でもありましたが、同時に……この社会の厳しい『現実』でもあったんです。障害年金だけでは、今の日本では、一人で屋根の下に住み、三食を食べて健康を維持することは、物理的に不可能な計算なんです」

和夫は、冷たい床に視線を落とした。
足の裏から伝わる、アパートの安いクッションフロアの感触。
実家の分厚い畳とは違う、その頼りない薄さが、今の自分の立場を象徴しているようだった。

「……僕、ずっと、母さんに搾取されてるって思ってました。確かに、兄貴に金を流したり、通販に使ったりしてたのは許せない。でも……」
和夫は、胸の奥からせり上がってくる、苦い後悔を飲み込んだ。
「僕が、この部屋で電気をつけて、水を飲んで、こうして座っているだけで、国からこれだけの助けが必要だなんて。……僕は、生きてるだけで、こんなにお金がかかる『お荷物』だったのか」

「それは違いますよ、和夫さん」
ケースワーカーが、身を乗り出した。
「『お荷物』じゃない。これは、あなたが人間らしく生きるための『権利』なんです。今まで、お母様がその権利を独占して、あなたに『現実』を教えずに囲い込んでいた。だから今、あなたは初めて、自分の命の値段を直視しているだけです。悲観することはありません」

和夫は、窓の外を眺めた。
板橋の、密集した住宅街。あちこちの家から、夕食の準備を始める匂いが漂ってくる。
かつては「呪いの匂い」だと思っていた煮物の香りが、今は「維持するために莫大なエネルギーと金が必要な、奇跡のような日常の匂い」に感じられた。

(生活って、戦いなんだ……)

和夫は、通知書の「住宅扶助 53,700円」という項目を指でなぞった。
実家にいた頃は、雨風を凌ぐ屋根があることを「当然」だと思っていた。
けれど、その屋根を維持するためだけに、自分の年金の半分以上が消えていく。残りの数万円で、米を買い、服を買い、たまには今日のような寒い日に、百円のコーヒーを飲む。

「……十四万。これを受け取って、僕は、これからどうすればいいんでしょうか。お母さんがいないと、何を買えばいいのか、何を節約すればいいのかも……」

「一つずつ覚えましょう」
ケースワーカーは、一冊の薄いノートを差し出した。
「家計簿です。まずは、今日買ったもののレシートを貼ることから。和夫さん、あなたは四十九年間、お母様に『消費者』としての権利を奪われてきた。今日から、この十四万七千円をどう使うか、あなたが決めるんです。それは、重い責任ですが……同時に、本当の『自由』ですよ」

ケースワーカーが帰った後、和夫は一人、部屋に残された。
暗くなり始めた部屋で、照明のスイッチを入れる。
パチッ。
一瞬で部屋が明るくなる。
この一瞬の光にも、生活保護費の「生活扶助」の一部が使われている。
和夫は、その光の温かさが、これまでとは全く違って感じられた。

「……高いな。生きるって」

和夫は、コンビニで買ってきた一番安い食パンの袋を開けた。
カサカサという乾いた音。
パンの香ばしい、けれど少し人工的な匂い。
ジャムもバターもない。けれど、これを自分の手で選び、この数字の中から捻出したお金で買ったのだと思うと、喉を通るパンの塊が、石のように重く、そして誇らしく感じられた。

もし、実家を出て、あのまま一人で放り出されていたら。
もし、この生活保護という「補填」がなかったら。
自分は今頃、この寒空の下で、十四万七千円の現実を知る前に、凍えて死んでいたかもしれない。

「お母さん……。あんたが言ってたこと、半分は本当だったよ」
和夫は、真っ暗な窓ガラスに映る、自分の痩せた顔に語りかけた。
「一人じゃ、生きていけない。でも、あんたと一緒じゃ、僕は僕になれなかった」

和夫は、机の上に広げた通知書を、丁寧に折り畳んだ。
十四万七千七百九十円。
それは、社会が自分を「見捨てない」と約束してくれた、契約書の重みだ。
年金だけでは足りない。助けがないと立てない。
その弱さを認めることが、これほどまでに勇気のいることだとは知らなかった。

和夫は、ノートを開き、今日買った食パンの値段、百八円を、震える字で書き込んだ。
「……百八円。残りは……」

引き算をする指先。
五感のすべてが、今、この狭いアパートの空間の中で、鋭敏に研ぎ澄まされていく。
母の家の「優しい監禁」から逃れ、板橋の「厳しい現実」に亡命した男。
和夫は、自分の命の維持費を噛みしめるように、静かに、二枚目のパンを口に運んだ。

「生活って……こんなにかかるのか。……でも、悪くないな」

冷たい風が、窓の隙間から入り込み、和夫の頬を撫でた。
それは、彼が生まれて初めて知る、自分の人生を運営していくための、厳しくも清々しい、責任の重みだった。

第10話・別景:数字の亡命。
和夫は、十四万七千円という名の「希望」を握りしめ、板橋の夜に、深く、深く、自分の足跡を刻み始めた。

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