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エピローグ:窓を開けて、息を吸う
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エピローグ:窓を開けて、息を吸う
板橋のアパートに引っ越してから、一ヶ月が経った。
朝、六時のアラームで目が覚める。以前は昼過ぎまでカーテンを閉め切り、母がドアを叩く音で渋々起きていた和夫にとって、この「自分自身の時間」で起きる習慣は、小さな、けれど確固たる勝利の証だった。
和夫は、台所の小さなコンロで湯を沸かす。
生活保護費の中から、思い切って買った八百円のステンレスケトル。シュンシュンと音を立てる蒸気は、実家の古い台所の油臭い匂いとは違い、どこか凛としていて、清潔だ。
「……よし」
和夫は、机の上に一冊のノートを広げた。
それは、あのケースワーカーから手渡された家計簿だ。
【二月二十八日:スーパーにて、納豆 88円、もやし 30円、鶏むね肉 258円】
たった数百円の出費。けれど、その一行一行が、和夫という人間がこの世界に立って、栄養を取り、生命を維持しているという「生存の記録」だった。
ふと、和夫は手を止めて窓の外を見た。
そこには、四十九年間見守ってきた母の庭にあるような、美しい梅の花はない。見えるのは、隣のビルの室外機と、電線に止まって羽を休めるカラスだけだ。
けれど、和夫は今、猛烈に「自由」だった。
母・キヨからは、一度だけ手紙が届いた。
『あんたのいない部屋は寒くて、電球が切れかかっています。早く戻ってきなさい。でないと、お母さんは本当に死んでしまいます』
かつての和夫なら、その手紙を読んでパニックになり、荷物をまとめて実家へ走っただろう。だが、今の彼は、その手紙をそっと引き出しの奥にしまった。
冷酷になったのではない。
「僕が戻ることは、母さんにとっても、母さんの人生を止めてしまうことになる」
そう、静かに理解できるようになったのだ。
和夫は、カップに注いだ安物のインスタントコーヒーを手に、窓際に立った。
今日は、週に一度の清掃ボランティアの日だ。
知らない誰かが捨てたゴミを拾い、知らない誰かが歩く道を綺麗にする。
たったそれだけのことが、和夫に「自分も誰かの役に立てるかもしれない」という、震えるような喜びを与えていた。
月額十四万七千七百九十円。
その数字の内訳を、和夫はもう暗記している。
一円の重みを知ることは、自分の命の重みを知ることだった。
年金だけでは足りず、社会に支えられて生きている。その事実を恥じるのではなく、「だからこそ、この命を大切に使おう」と、彼は前を向けるようになった。
「……さて、行こうか」
和夫は、玄関の鏡で自分の顔を見た。
ひげは綺麗に剃られ、頬には少しだけ赤みが差している。五十歳の誕生日に自分で買った、あの真っ新な靴を履く。
ドアを開けると、冷たい、けれど春の気配を孕んだ風が、和夫の肺いっぱいに流れ込んできた。
実家の「子供部屋」という名の亡命先は、もうどこにもない。
ここにあるのは、四畳半の城と、無限に続く、板橋の灰色のアスファルトだ。
和夫は一歩、強く地面を踏みしめた。
空っぽだった通帳には、今、新しい人生の歩みが、一円単位で刻まれ始めている。
(完)
板橋のアパートに引っ越してから、一ヶ月が経った。
朝、六時のアラームで目が覚める。以前は昼過ぎまでカーテンを閉め切り、母がドアを叩く音で渋々起きていた和夫にとって、この「自分自身の時間」で起きる習慣は、小さな、けれど確固たる勝利の証だった。
和夫は、台所の小さなコンロで湯を沸かす。
生活保護費の中から、思い切って買った八百円のステンレスケトル。シュンシュンと音を立てる蒸気は、実家の古い台所の油臭い匂いとは違い、どこか凛としていて、清潔だ。
「……よし」
和夫は、机の上に一冊のノートを広げた。
それは、あのケースワーカーから手渡された家計簿だ。
【二月二十八日:スーパーにて、納豆 88円、もやし 30円、鶏むね肉 258円】
たった数百円の出費。けれど、その一行一行が、和夫という人間がこの世界に立って、栄養を取り、生命を維持しているという「生存の記録」だった。
ふと、和夫は手を止めて窓の外を見た。
そこには、四十九年間見守ってきた母の庭にあるような、美しい梅の花はない。見えるのは、隣のビルの室外機と、電線に止まって羽を休めるカラスだけだ。
けれど、和夫は今、猛烈に「自由」だった。
母・キヨからは、一度だけ手紙が届いた。
『あんたのいない部屋は寒くて、電球が切れかかっています。早く戻ってきなさい。でないと、お母さんは本当に死んでしまいます』
かつての和夫なら、その手紙を読んでパニックになり、荷物をまとめて実家へ走っただろう。だが、今の彼は、その手紙をそっと引き出しの奥にしまった。
冷酷になったのではない。
「僕が戻ることは、母さんにとっても、母さんの人生を止めてしまうことになる」
そう、静かに理解できるようになったのだ。
和夫は、カップに注いだ安物のインスタントコーヒーを手に、窓際に立った。
今日は、週に一度の清掃ボランティアの日だ。
知らない誰かが捨てたゴミを拾い、知らない誰かが歩く道を綺麗にする。
たったそれだけのことが、和夫に「自分も誰かの役に立てるかもしれない」という、震えるような喜びを与えていた。
月額十四万七千七百九十円。
その数字の内訳を、和夫はもう暗記している。
一円の重みを知ることは、自分の命の重みを知ることだった。
年金だけでは足りず、社会に支えられて生きている。その事実を恥じるのではなく、「だからこそ、この命を大切に使おう」と、彼は前を向けるようになった。
「……さて、行こうか」
和夫は、玄関の鏡で自分の顔を見た。
ひげは綺麗に剃られ、頬には少しだけ赤みが差している。五十歳の誕生日に自分で買った、あの真っ新な靴を履く。
ドアを開けると、冷たい、けれど春の気配を孕んだ風が、和夫の肺いっぱいに流れ込んできた。
実家の「子供部屋」という名の亡命先は、もうどこにもない。
ここにあるのは、四畳半の城と、無限に続く、板橋の灰色のアスファルトだ。
和夫は一歩、強く地面を踏みしめた。
空っぽだった通帳には、今、新しい人生の歩みが、一円単位で刻まれ始めている。
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