離れて後悔するのは、あなたの方

翠月るるな

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 弁護士事務所から帰る道中で、凛子は今までの生活を思い返していた。あまりに愚かな日々を。

 始めの頃は本当に省吾を大切にしていた。結婚前は公私ともに、結婚後は決して迷惑にならないように、と育児も家事も必死でおこなっていた。

 亮が夜泣きを繰り返していた時期は、睡眠も食事も上手くとれず、体調不良が続いてしまう時もあった。省吾は夜泣きで眠れないと外に出ていたが、それも仕方ないことと納得していた凛子。まさかそれも秋名の家に入り浸っていたなど予想できただろうか。

 仕事が落ち着いたタイミングには、家族旅行も提案した。しかし、戻ってくる言葉は決まって『そんな暇はない』だ。自分が休めば会社が回らない、と口癖のように言っていた。

 そんなことが続いて、いつしか凛子も言わなくなる。最近になって省吾の不貞の証拠を入手し、気になって独自に彼の休みを調べたことがあった。有休を取得した日は全て、凛子に出張だと言っていた。

 どれもこれも秋名と不倫旅行に使用していたらしい。今となっては証拠の一つにしかならない。

「……」

 知らずに凛子は早足になる。周囲は気づけば商店街の景色になっていた。行き交う人々は賑やかに談笑している。通りがかる店先の店員は客へ声をかけていた。そんな日常を夕陽の茜色が照らしていく。

 ふと、凛子が花屋の前で足を止めた。

 花束をもらったのはプロポーズの時の一度だけだった。けれど、先程の事務所で並べられていた写真には花束をもらって喜ぶ秋名の姿が、何枚もあった。花の種類が違う以上、場面が違うと理解してしまう。そんなことで、省吾が花を贈るのが好きなのだと知った。

 凛子はフっと視線を逸らす。再び帰路に戻る中、空は徐々に闇色へと近づいていった。


*   *   *


 夜、省吾は家に帰るなり凛子に言い放つ。

「今夜は会社に泊まる。準備は出来てるか? プレゼン資料も渡してくれ」

 リビングに入るなり、息吐く間もない指示に凛子は溜め息を吐く。椅子から立ち上がり、言われた通り、テーブルに置いておいた書類の入った封筒を手に取りながら呟いた。

「今夜も、でしょ」
「なんだ不満か」
「いいえ。着替えはそっちのカバン、他の資料はメールで送っておいたわ」

 凛子はもともと部下だったために、家庭に入ってもよく仕事を手伝っていた。子どもが生まれてからは減ったものの、それでも半年もしないうちにまた指示を出し始める。凛子も不貞を知らない間は、それが普通だと考えていた。

 会社員時代と違うのは、資料作成に加えて、省吾が出張などになればその荷物も用意すること。周囲は良くやっていると口々に言っていた。にもかかわらず、省吾だけが凛子の行動に感謝すらせず、それどころか「可愛げがないな」と言う。

「秋名を見習え。アイツはいつもニコニコして周りの人間から好かれているじゃないか。後継の話がなきゃ、アイツと結婚してもよかったんだ」
「……」

 結婚してから、何度も繰り返し比較されてきたこと。始めの頃は凛子も省吾に好かれようと秋名のように笑顔を見せ、甲斐甲斐しく世話もしたが返される言葉はいつも同じ「秋名の方が出来ている」だった。

 ことあるごとに、秋名の方が、と言われ続け、もう心が反応すらしない。色のない瞳で、そばの棚の上に飾ってある集合写真を見る。

 去年撮られた記念写真。そこには、まだ会社員だった凛子と省吾、そして省吾の肩に手をまわす東郷広司がいた。

 秋名は彼の妹だった。省吾の友人として長く付き合いのあった東郷広司の妹。幼いときからさほど変わらない栗色のボブを揺らして、どんな人にもにこやかに接し、成人しても兄の広司が自慢するほど出来た女性だという。

 だが凛子は知っていた。それが表の顔だということを。

 実際、結婚式のときは酷かったのだから。

 突然の訪問者が現れたのは、披露宴の途中でお色直しがちょうど終わった頃だった。控え室の扉がノックもなしにいきなり開かれ、複数人の女性が入ってくる。その中心にいた秋名が言った。

『ねえ、省吾さんと結婚出来たからって調子に乗らないでね?』

 通常であれば、部外者など容易に入れるわけがない。だがお色直しが終わり、担当者が不在にしていたタイミングで、しかも女性ならと見逃されたのだろう。

 むしろ名乗っていたならば余計に、岡本家と近かった東郷家の人間が挨拶に来たとでも言えば、快く通してしまうのかもしれない。

 驚いて言葉を失う凛子に、彼女らは口々に騒ぎ立てた。

『そうよ。本当はこの秋名さんが結婚する予定だったんだから』
『ほんとほんと、たまたま相性が良かったから選ばれたなんて信じられないわ』
『この結婚はあくまで仕事、忘れないでよ! 省吾さんは必ず私のところに来るんだからね』

 最後に秋名が捨て台詞を吐いて、さっさと出ていく。

 残された凛子は呆然としつつ、けれど徐々に悔しさを滲ませるかのように拳を握った。

「『そんなことわかってる……』」

 あの時、呟いた言葉と同じ言葉を、今度は省吾の前で吐き出す。彼は、一瞬驚いた顔をしたもののすぐに、フンッと鼻を鳴らした。

「わかってるならいい。自分の立場をよくよく理解しておけ」

 そう言い残して、省吾は部屋を出ていった。
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