2 / 41
第2話 悲劇の令嬢(中身は歓喜)
しおりを挟む
第2話 悲劇の令嬢(中身は歓喜)
王宮を後にしたディアナ・フォン・ヴァイスリーベは、馬車に揺られながら、静かに目を閉じていた。
分厚い扉が閉まり、外界の喧騒が遠ざかる。
その瞬間、彼女の胸に張りつめていたものが、ふっと緩んだ。
(……終わりましたわね)
誰にも聞かれない心の声が、驚くほど軽やかに響く。
王太子エドガルドとの婚約。
それは世間から見れば、栄誉であり、約束された未来だったのだろう。
だが、ディアナにとっては違った。
――王太子の隣で微笑み、
――失策を裏で修正し、
――責任を取らずに済むよう立ち回る。
そのすべてが、「婚約者」という立場の名のもとに押し付けられた重荷だった。
(よくもまあ、あれだけ堂々と“可愛げがない”などと言えたものですわ)
思い出すだけで、苦笑がこぼれそうになる。
だが同時に、彼女は理解していた。
エドガルドは、本気でそう思っていたのだ。
自分が努力していると。
自分が評価されるのは当然だと。
その裏で誰が何をしていたのかなど、考えたこともなかったのだろう。
馬車が屋敷に到着する。
ディアナが降り立つと、使用人たちが一斉に駆け寄ってきた。
「お嬢様……!」 「王宮での件は……!」
彼らの表情には、不安と憤り、そして主を案じる色が入り混じっている。
ディアナは、わずかに俯いた。
「……ご心配をおかけしました」
声を震わせ、瞳に涙を溜める。
完璧な“悲劇の令嬢”だった。
「婚約は……破棄となりました」
「そ、そんな……!」 「侯爵家に、あまりにも無礼では……!」
憤る使用人たちに、ディアナは小さく首を振る。
「どうか……騒ぎ立てないでください。殿下のお気持ちも……わかりますから」
そう口にした瞬間。
(わかるわけ、ありませんけれど)
内心で冷静に突っ込む。
だが、この場では“理解ある令嬢”を演じるのが最適解だった。
ディアナは自室へと案内され、重厚な扉が閉められる。
誰もいなくなった室内。
次の瞬間――。
「……はぁ」
長い、長い溜息がこぼれ落ちた。
それは、悲嘆のそれではない。
解放の吐息だった。
「……やっと、終わった……」
誰に聞かせるでもなく、呟く。
ディアナは椅子に腰を下ろし、背もたれに身を預けた。
頭の中で、これまでの出来事が走馬灯のように巡る。
外交会議での矛盾した発言。
財政報告の致命的な計算ミス。
貴族間の調整不足による火種。
それらを一つずつ拾い上げ、修正し、時に自分の名を伏せたまま処理してきた日々。
(……本当に、よくやりましたわ、私)
胸の奥から、静かな達成感が湧き上がる。
もちろん、これから先も順風満帆とは限らないだろう。
婚約破棄された令嬢という立場は、世間から好奇の目で見られる。
だが――。
(少なくとも、“誰かの尻拭い”をする人生ではなくなった)
それだけで、十分すぎるほどだ。
そのとき、控えめなノック音が響いた。
「……お嬢様」
侍女の声。
「よろしいわ」
入室した侍女は、どこか遠慮がちに口を開く。
「すでに、王宮での出来事が噂になっております……」 「“完璧すぎる令嬢が捨てられた”と……」
ディアナは、わずかに眉を下げた。
「……そう」
悲しげに微笑む。
だが内心では、冷静に分析していた。
(同情は集まる。悪評は、ほとんど立たない)
エドガルドが理由を自ら口にしたのは、皮肉にもディアナにとって追い風だった。
――完璧すぎる。
――可愛げがない。
それは、能力を否定する言葉ではない。
むしろ、能力を認めた上での拒絶だ。
(随分と、優しいざまぁの種を蒔いてくださいましたわね)
ディアナは、内心で静かに笑う。
「しばらくは、静かに過ごしたいと思います」 「表向きは……心を痛めている、ということで」
「……承知いたしました」
侍女が下がり、再び一人になる。
ディアナは窓辺に立ち、外を眺めた。
春の陽光が、庭を照らしている。
(自由ですわ)
誰にも命じられず、
誰の期待にも縛られず、
誰かの無能を覆い隠すこともない。
――そして。
(きっと、向こうはすぐに気づく)
自分がいなくなった“後”の現実に。
王宮が、
エドガルドが、
どれほど自分に依存していたのかを。
ディアナは、静かに目を閉じた。
もう、戻るつもりはない。
婚約破棄は悲劇ではない。
これは――祝福すべき転機なのだから。
そのことを、彼女だけが知っていた。
王宮を後にしたディアナ・フォン・ヴァイスリーベは、馬車に揺られながら、静かに目を閉じていた。
分厚い扉が閉まり、外界の喧騒が遠ざかる。
その瞬間、彼女の胸に張りつめていたものが、ふっと緩んだ。
(……終わりましたわね)
誰にも聞かれない心の声が、驚くほど軽やかに響く。
王太子エドガルドとの婚約。
それは世間から見れば、栄誉であり、約束された未来だったのだろう。
だが、ディアナにとっては違った。
――王太子の隣で微笑み、
――失策を裏で修正し、
――責任を取らずに済むよう立ち回る。
そのすべてが、「婚約者」という立場の名のもとに押し付けられた重荷だった。
(よくもまあ、あれだけ堂々と“可愛げがない”などと言えたものですわ)
思い出すだけで、苦笑がこぼれそうになる。
だが同時に、彼女は理解していた。
エドガルドは、本気でそう思っていたのだ。
自分が努力していると。
自分が評価されるのは当然だと。
その裏で誰が何をしていたのかなど、考えたこともなかったのだろう。
馬車が屋敷に到着する。
ディアナが降り立つと、使用人たちが一斉に駆け寄ってきた。
「お嬢様……!」 「王宮での件は……!」
彼らの表情には、不安と憤り、そして主を案じる色が入り混じっている。
ディアナは、わずかに俯いた。
「……ご心配をおかけしました」
声を震わせ、瞳に涙を溜める。
完璧な“悲劇の令嬢”だった。
「婚約は……破棄となりました」
「そ、そんな……!」 「侯爵家に、あまりにも無礼では……!」
憤る使用人たちに、ディアナは小さく首を振る。
「どうか……騒ぎ立てないでください。殿下のお気持ちも……わかりますから」
そう口にした瞬間。
(わかるわけ、ありませんけれど)
内心で冷静に突っ込む。
だが、この場では“理解ある令嬢”を演じるのが最適解だった。
ディアナは自室へと案内され、重厚な扉が閉められる。
誰もいなくなった室内。
次の瞬間――。
「……はぁ」
長い、長い溜息がこぼれ落ちた。
それは、悲嘆のそれではない。
解放の吐息だった。
「……やっと、終わった……」
誰に聞かせるでもなく、呟く。
ディアナは椅子に腰を下ろし、背もたれに身を預けた。
頭の中で、これまでの出来事が走馬灯のように巡る。
外交会議での矛盾した発言。
財政報告の致命的な計算ミス。
貴族間の調整不足による火種。
それらを一つずつ拾い上げ、修正し、時に自分の名を伏せたまま処理してきた日々。
(……本当に、よくやりましたわ、私)
胸の奥から、静かな達成感が湧き上がる。
もちろん、これから先も順風満帆とは限らないだろう。
婚約破棄された令嬢という立場は、世間から好奇の目で見られる。
だが――。
(少なくとも、“誰かの尻拭い”をする人生ではなくなった)
それだけで、十分すぎるほどだ。
そのとき、控えめなノック音が響いた。
「……お嬢様」
侍女の声。
「よろしいわ」
入室した侍女は、どこか遠慮がちに口を開く。
「すでに、王宮での出来事が噂になっております……」 「“完璧すぎる令嬢が捨てられた”と……」
ディアナは、わずかに眉を下げた。
「……そう」
悲しげに微笑む。
だが内心では、冷静に分析していた。
(同情は集まる。悪評は、ほとんど立たない)
エドガルドが理由を自ら口にしたのは、皮肉にもディアナにとって追い風だった。
――完璧すぎる。
――可愛げがない。
それは、能力を否定する言葉ではない。
むしろ、能力を認めた上での拒絶だ。
(随分と、優しいざまぁの種を蒔いてくださいましたわね)
ディアナは、内心で静かに笑う。
「しばらくは、静かに過ごしたいと思います」 「表向きは……心を痛めている、ということで」
「……承知いたしました」
侍女が下がり、再び一人になる。
ディアナは窓辺に立ち、外を眺めた。
春の陽光が、庭を照らしている。
(自由ですわ)
誰にも命じられず、
誰の期待にも縛られず、
誰かの無能を覆い隠すこともない。
――そして。
(きっと、向こうはすぐに気づく)
自分がいなくなった“後”の現実に。
王宮が、
エドガルドが、
どれほど自分に依存していたのかを。
ディアナは、静かに目を閉じた。
もう、戻るつもりはない。
婚約破棄は悲劇ではない。
これは――祝福すべき転機なのだから。
そのことを、彼女だけが知っていた。
0
あなたにおすすめの小説
悪役令嬢、休職致します
碧井 汐桜香
ファンタジー
そのキツい目つきと高飛車な言動から悪役令嬢として中傷されるサーシャ・ツンドール公爵令嬢。王太子殿下の婚約者候補として、他の婚約者候補の妨害をするように父に言われて、実行しているのも一因だろう。
しかし、ある日突然身体が動かなくなり、母のいる領地で療養することに。
作中、主人公が精神を病む描写があります。ご注意ください。
作品内に登場する医療行為や病気、治療などは創作です。作者は医療従事者ではありません。実際の症状や治療に関する判断は、必ず医師など専門家にご相談ください。
あっ、追放されちゃった…。
satomi
恋愛
ガイダール侯爵家の長女であるパールは精霊の話を聞くことができる。がそのことは誰にも話してはいない。亡き母との約束。
母が亡くなって喪も明けないうちに義母を父は連れてきた。義妹付きで。義妹はパールのものをなんでも欲しがった。事前に精霊の話を聞いていたパールは対処なりをできていたけれど、これは…。
ついにウラルはパールの婚約者である王太子を横取りした。
そのことについては王太子は特に魅力のある人ではないし、なんにも感じなかったのですが、王宮内でも噂になり、家の恥だと、家まで追い出されてしまったのです。
精霊さんのアドバイスによりブルハング帝国へと行ったパールですが…。
ちゃんと忠告をしましたよ?
柚木ゆず
ファンタジー
ある日の、放課後のことでした。王立リザエンドワール学院に籍を置く私フィーナは、生徒会長を務められているジュリアルス侯爵令嬢アゼット様に呼び出されました。
「生徒会の仲間である貴方様に、婚約祝いをお渡したくてこうしておりますの」
アゼット様はそのように仰られていますが、そちらは嘘ですよね? 私は最愛の方に護っていただいているので、貴方様に悪意があると気付けるのですよ。
アゼット様。まだ間に合います。
今なら、引き返せますよ?
※現在体調の影響により、感想欄を一時的に閉じさせていただいております。
【完結】あなたに知られたくなかった
ここ
ファンタジー
セレナの幸せな生活はあっという間に消え去った。新しい継母と異母妹によって。
5歳まで令嬢として生きてきたセレナは6歳の今は、小さな手足で必死に下女見習いをしている。もう自分が令嬢だということは忘れていた。
そんなセレナに起きた奇跡とは?
婚約者を奪った妹と縁を切ったので、家から離れ“辺境領”を継ぎました。 すると勇者一行までついてきたので、領地が最強になったようです
藤原遊
ファンタジー
婚約発表の場で、妹に婚約者を奪われた。
家族にも教会にも見放され、聖女である私・エリシアは “不要” と切り捨てられる。
その“褒賞”として押しつけられたのは――
魔物と瘴気に覆われた、滅びかけの辺境領だった。
けれど私は、絶望しなかった。
むしろ、生まれて初めて「自由」になれたのだ。
そして、予想外の出来事が起きる。
――かつて共に魔王を倒した“勇者一行”が、次々と押しかけてきた。
「君をひとりで行かせるわけがない」
そう言って微笑む勇者レオン。
村を守るため剣を抜く騎士。
魔導具を抱えて駆けつける天才魔法使い。
物陰から見守る斥候は、相変わらず不器用で優しい。
彼らと力を合わせ、私は土地を浄化し、村を癒し、辺境の地に息を吹き返す。
気づけば、魔物巣窟は制圧され、泉は澄み渡り、鉱山もダンジョンも豊かに開き――
いつの間にか領地は、“どの国よりも最強の地”になっていた。
もう、誰にも振り回されない。
ここが私の新しい居場所。
そして、隣には――かつての仲間たちがいる。
捨てられた聖女が、仲間と共に辺境を立て直す。
これは、そんな私の第二の人生の物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる