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第4話 失われた歯車
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第4話 失われた歯車
王宮の執務室には、いつになく重たい沈黙が漂っていた。
長机を囲む重臣たちは、互いに視線を交わしながらも、誰一人として口を開こうとしない。
机の上には、いくつもの書類が積まれている――財務報告、外交文書、法令草案。
そのすべてに共通しているのは。
(……どれも、判断が必要な案件ばかりだ)
財務卿は喉を鳴らし、恐る恐る正面を見た。
そこに座っているのは、王太子エドガルド・ヴァルシュタイン。
だが、彼は書類に目を通すでもなく、腕を組んだまま不機嫌そうに椅子にもたれていた。
「……で? 結論は?」
短く、苛立ちを含んだ声。
重臣たちは、一瞬言葉を失った。
――結論を出すのが、あなたの役目では?
誰もがそう思ったが、口に出す者はいない。
「殿下……こちらは、来月の交易税率の調整についてでして……」 「従来の案では、近隣諸国との摩擦が――」
「面倒だな」
エドガルドは、即座に言い切った。
「前と同じでいいだろう。どうせ、細かい数字の違いなど誰も気にしない」
空気が、ぴしりと凍る。
財務卿は、思わず声を落とした。
「……殿下。前回の案は、ディアナ様が細部まで調整なさって……」
その名が出た瞬間。
「――その名前を出すな」
エドガルドの声が、低く鋭く響いた。
「彼女は、もう関係ない」
重臣たちは、内心で顔を見合わせる。
(……関係ない?) (いや、関係“ありすぎた”のでは……)
だが、誰も逆らえない。
「では……外交文書の修正点については……?」
「それも後だ。今日はこれで終わりにする」
「ですが殿下、期限が――」
「俺がそう言っている」
エドガルドは立ち上がり、椅子を乱暴に押し退けた。
会議は、わずか三十分で打ち切られた。
本来なら、最低でも半日はかかる内容だったにもかかわらず。
重臣たちは、呆然としたまま執務室を後にする。
「……これで、大丈夫なのでしょうか」 「今までは……」 「今までは、ディアナ様が……」
誰かが、その続きを言いかけて、慌てて口を閉じた。
その頃。
王太子の私室では、エドガルドが苛立ちを露わにしていた。
「……なぜだ」
机に広げられた書類を睨みつけながら、吐き捨てる。
「なぜ、こんなに分かりにくい……」
文字は、以前と何一つ変わっていない。
数字も、構成も、同じはずだ。
それなのに。
(……読めない)
理解できないのだ。
以前は、書類に目を通せば自然と“結論”が見えた。
判断に迷うことなど、ほとんどなかった。
――いや。
(違う……)
ふと、胸の奥に小さな疑念が浮かぶ。
(あれは……本当に、俺の判断だったのか?)
エドガルドは、無意識に机の引き出しを開けた。
そこに残っていたのは、かつてディアナがまとめた補足資料。
整然と整理された、要点だけを抜き出した紙。
「……」
それを手に取った瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。
(……いや。考えるな)
彼は資料を引き出しに戻し、乱暴に閉める。
「俺は、正しい選択をした」
自分に言い聞かせるように呟く。
「可愛げのない女より、フィオナのような素直な女性の方が――」
そのとき、控えめなノックが響いた。
「殿下……」
入ってきたのは、フィオナだった。
「どうした?」
「その……お疲れではありませんか?」
彼女は不安そうに微笑み、机の上の書類に目をやる。
「難しそうですね……」
「……ああ」
エドガルドは曖昧に応じた。
フィオナは、そっと近づく。
「私、何かお役に立てることは……」
その言葉に、エドガルドは一瞬だけ期待した。
だが――。
「……いえ。やはり、私には……」
フィオナは視線を落とし、首を振った。
「字も、専門用語も、よく分からなくて……」
沈黙。
エドガルドは、何も言えなかった。
責めることはできない。
彼女は平民で、こうした教育を受けてこなかったのだから。
――だが。
(……なら、なぜ)
胸の奥で、言葉にならない苛立ちが膨らむ。
フィオナは、彼を支える存在ではなかった。
ただ、“癒し”であるだけ。
それが、今になってはっきりと浮き彫りになっていく。
一方その頃。
侯爵家の自室で、ディアナは穏やかな時間を過ごしていた。
窓辺で紅茶を口にしながら、静かに本を読む。
――そこへ、一通の手紙が届く。
差出人は、王宮に勤める旧知の官僚。
短い文面だった。
『すでに、混乱が始まっています』
ディアナは、そっと目を伏せた。
(……ええ。そうでしょうね)
驚きはない。
王宮という機構は、巨大な歯車の集合体だ。
一つが欠ければ、必ず軋みが生じる。
そして――。
(私は、もう歯車ではありません)
ディアナは、手紙を丁寧に畳んだ。
誰かのために回ることを、やめただけ。
それだけで、世界はこんなにも歪み始める。
それが、彼女の“力”だった。
だが――。
(まだですわ)
本当の崩れは、これから。
失われた歯車の重みを、
王太子エドガルドが理解するのは――
もう少し先の話だった。
王宮の執務室には、いつになく重たい沈黙が漂っていた。
長机を囲む重臣たちは、互いに視線を交わしながらも、誰一人として口を開こうとしない。
机の上には、いくつもの書類が積まれている――財務報告、外交文書、法令草案。
そのすべてに共通しているのは。
(……どれも、判断が必要な案件ばかりだ)
財務卿は喉を鳴らし、恐る恐る正面を見た。
そこに座っているのは、王太子エドガルド・ヴァルシュタイン。
だが、彼は書類に目を通すでもなく、腕を組んだまま不機嫌そうに椅子にもたれていた。
「……で? 結論は?」
短く、苛立ちを含んだ声。
重臣たちは、一瞬言葉を失った。
――結論を出すのが、あなたの役目では?
誰もがそう思ったが、口に出す者はいない。
「殿下……こちらは、来月の交易税率の調整についてでして……」 「従来の案では、近隣諸国との摩擦が――」
「面倒だな」
エドガルドは、即座に言い切った。
「前と同じでいいだろう。どうせ、細かい数字の違いなど誰も気にしない」
空気が、ぴしりと凍る。
財務卿は、思わず声を落とした。
「……殿下。前回の案は、ディアナ様が細部まで調整なさって……」
その名が出た瞬間。
「――その名前を出すな」
エドガルドの声が、低く鋭く響いた。
「彼女は、もう関係ない」
重臣たちは、内心で顔を見合わせる。
(……関係ない?) (いや、関係“ありすぎた”のでは……)
だが、誰も逆らえない。
「では……外交文書の修正点については……?」
「それも後だ。今日はこれで終わりにする」
「ですが殿下、期限が――」
「俺がそう言っている」
エドガルドは立ち上がり、椅子を乱暴に押し退けた。
会議は、わずか三十分で打ち切られた。
本来なら、最低でも半日はかかる内容だったにもかかわらず。
重臣たちは、呆然としたまま執務室を後にする。
「……これで、大丈夫なのでしょうか」 「今までは……」 「今までは、ディアナ様が……」
誰かが、その続きを言いかけて、慌てて口を閉じた。
その頃。
王太子の私室では、エドガルドが苛立ちを露わにしていた。
「……なぜだ」
机に広げられた書類を睨みつけながら、吐き捨てる。
「なぜ、こんなに分かりにくい……」
文字は、以前と何一つ変わっていない。
数字も、構成も、同じはずだ。
それなのに。
(……読めない)
理解できないのだ。
以前は、書類に目を通せば自然と“結論”が見えた。
判断に迷うことなど、ほとんどなかった。
――いや。
(違う……)
ふと、胸の奥に小さな疑念が浮かぶ。
(あれは……本当に、俺の判断だったのか?)
エドガルドは、無意識に机の引き出しを開けた。
そこに残っていたのは、かつてディアナがまとめた補足資料。
整然と整理された、要点だけを抜き出した紙。
「……」
それを手に取った瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。
(……いや。考えるな)
彼は資料を引き出しに戻し、乱暴に閉める。
「俺は、正しい選択をした」
自分に言い聞かせるように呟く。
「可愛げのない女より、フィオナのような素直な女性の方が――」
そのとき、控えめなノックが響いた。
「殿下……」
入ってきたのは、フィオナだった。
「どうした?」
「その……お疲れではありませんか?」
彼女は不安そうに微笑み、机の上の書類に目をやる。
「難しそうですね……」
「……ああ」
エドガルドは曖昧に応じた。
フィオナは、そっと近づく。
「私、何かお役に立てることは……」
その言葉に、エドガルドは一瞬だけ期待した。
だが――。
「……いえ。やはり、私には……」
フィオナは視線を落とし、首を振った。
「字も、専門用語も、よく分からなくて……」
沈黙。
エドガルドは、何も言えなかった。
責めることはできない。
彼女は平民で、こうした教育を受けてこなかったのだから。
――だが。
(……なら、なぜ)
胸の奥で、言葉にならない苛立ちが膨らむ。
フィオナは、彼を支える存在ではなかった。
ただ、“癒し”であるだけ。
それが、今になってはっきりと浮き彫りになっていく。
一方その頃。
侯爵家の自室で、ディアナは穏やかな時間を過ごしていた。
窓辺で紅茶を口にしながら、静かに本を読む。
――そこへ、一通の手紙が届く。
差出人は、王宮に勤める旧知の官僚。
短い文面だった。
『すでに、混乱が始まっています』
ディアナは、そっと目を伏せた。
(……ええ。そうでしょうね)
驚きはない。
王宮という機構は、巨大な歯車の集合体だ。
一つが欠ければ、必ず軋みが生じる。
そして――。
(私は、もう歯車ではありません)
ディアナは、手紙を丁寧に畳んだ。
誰かのために回ることを、やめただけ。
それだけで、世界はこんなにも歪み始める。
それが、彼女の“力”だった。
だが――。
(まだですわ)
本当の崩れは、これから。
失われた歯車の重みを、
王太子エドガルドが理解するのは――
もう少し先の話だった。
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