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第6話 突然の縁談
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第6話 突然の縁談
その知らせは、あまりにも唐突だった。
午後の静かな時間。
ディアナ・フォン・ヴァイスリーベは自室の書斎で帳簿を確認していた。王宮の仕事から解放された今、こうした作業は純粋に“自分のため”のものだ。
侯爵家の収支、領地の管理、使用人たちの配置。
婚約者としてではなく、一人の貴族として向き合う時間は、不思議なほど心を落ち着かせた。
そこへ、執事がいつになく緊張した面持ちで現れた。
「お嬢様……失礼いたします」
「どうしましたの?」
ディアナが顔を上げると、執事は一歩前に出て、深く頭を下げた。
「縁談の正式な申し入れが届いております」
ディアナは、ペンを置いた。
(……来ましたわね)
心のどこかで予感していた。
王宮の評価が変わり、社交界がざわめき始めた以上、何も起きないはずがない。
「どちらの家からですの?」
「――シュヴァルツハルト公爵家でございます」
その名を聞いた瞬間、室内の空気がわずかに張りつめた。
シュヴァルツハルト公爵家。
王国有数の大貴族であり、軍事・外交の両面で絶大な影響力を持つ家門。
そして――。
「……クロヴィス・フォン・シュヴァルツハルト」
ディアナは、無意識にその名を口にしていた。
「はい。現当主、クロヴィス公爵ご本人より」
執事はそう言って、一通の封書を差し出す。
漆黒の封蝋。
過剰な装飾はなく、簡潔で無駄のない意匠。
(噂通りですわね)
クロヴィス・フォン・シュヴァルツハルト。
冷徹、公平、私情を挟まない。
そう評される一方で、「人の心がない」とまで言われる男。
ディアナは、封を切る前に一度だけ目を閉じた。
(さて……どんな条件なのでしょう)
ゆっくりと、手紙を開く。
そこに記されていた文面は、驚くほど簡潔だった。
『ディアナ・フォン・ヴァイスリーベ侯爵令嬢殿
貴殿との婚姻を望む
条件は以下の通り
一、愛情を求めない
二、互いの領分に干渉しない
三、婚姻は政治的なものとする
以上
承諾されるなら、直接会って詳細を詰めたい
クロヴィス・フォン・シュヴァルツハルト』
ディアナは、しばし無言で文面を見つめていた。
そして――。
「……ふふ」
思わず、小さな笑みがこぼれる。
「お嬢様?」
執事が驚いたように声を上げる。
「いえ……あまりにも、率直で」
ディアナは、静かに手紙を机に置いた。
条件は、明確。
感情の入り込む余地はない。
(白い結婚、ということですわね)
そして、その提案に――。
(ここまで、心が躍るとは思いませんでした)
自分でも意外だった。
婚約破棄の直後であるにもかかわらず、不安はない。
むしろ、胸の奥に広がるのは安堵だった。
――愛情を求めない。
――干渉しない。
それは、今のディアナにとって、これ以上ない理想条件だ。
だが、同時に冷静な声が頭をもたげる。
(なぜ、私なのか)
公爵家ほどの家柄なら、他に選択肢はいくらでもあるはずだ。
傷物と囁かれる可能性すらある、自分を選ぶ理由。
「……執事」
「はい」
「この縁談について、王宮の反応は?」
執事は、一瞬だけ言葉を選んだ。
「……正直に申し上げますと、かなり動揺しているようです」
「でしょうね」
ディアナは、ため息にも似た息を吐いた。
王太子エドガルドが手放した令嬢を、
最有力貴族が迎え入れる。
それが意味するところは、大きい。
(王宮は、私を“失った”のではなく、“奪われた”と感じるでしょう)
だが、それはもう、自分の知ったことではない。
ディアナは、手紙を丁寧に折り畳んだ。
「返事は……?」
執事が、慎重に尋ねる。
ディアナは、迷いなく答えた。
「前向きに、お会いすると伝えてください」
その言葉に、執事は目を見開いた。
「よろしいのですか? 公爵は……かなり、冷徹な方だと……」
「ええ。存じています」
ディアナは、静かに微笑む。
「だからこそ、ですわ」
感情に振り回されず、
期待を押し付けられず、
役割だけを果たす関係。
(少なくとも、“可愛げがない”などと言われることはなさそうです)
それだけで、十分だった。
窓の外では、風が木々を揺らしている。
ディアナは、その音を聞きながら思った。
(……これで、私は完全に“別の道”へ進む)
王太子の婚約者としてではなく。
王宮の裏方としてでもなく。
一人の貴族として、自分の人生を選ぶ。
冷徹公爵との縁談は、
果たして“安定”か、それとも“転機”か。
その答えは、まだ分からない。
だが一つだけ、確かなことがある。
――この申し入れは、
過去に戻らないための、決定的な一歩だということだ。
ディアナは、ゆっくりと立ち上がった。
運命は、再び動き出していた。
その知らせは、あまりにも唐突だった。
午後の静かな時間。
ディアナ・フォン・ヴァイスリーベは自室の書斎で帳簿を確認していた。王宮の仕事から解放された今、こうした作業は純粋に“自分のため”のものだ。
侯爵家の収支、領地の管理、使用人たちの配置。
婚約者としてではなく、一人の貴族として向き合う時間は、不思議なほど心を落ち着かせた。
そこへ、執事がいつになく緊張した面持ちで現れた。
「お嬢様……失礼いたします」
「どうしましたの?」
ディアナが顔を上げると、執事は一歩前に出て、深く頭を下げた。
「縁談の正式な申し入れが届いております」
ディアナは、ペンを置いた。
(……来ましたわね)
心のどこかで予感していた。
王宮の評価が変わり、社交界がざわめき始めた以上、何も起きないはずがない。
「どちらの家からですの?」
「――シュヴァルツハルト公爵家でございます」
その名を聞いた瞬間、室内の空気がわずかに張りつめた。
シュヴァルツハルト公爵家。
王国有数の大貴族であり、軍事・外交の両面で絶大な影響力を持つ家門。
そして――。
「……クロヴィス・フォン・シュヴァルツハルト」
ディアナは、無意識にその名を口にしていた。
「はい。現当主、クロヴィス公爵ご本人より」
執事はそう言って、一通の封書を差し出す。
漆黒の封蝋。
過剰な装飾はなく、簡潔で無駄のない意匠。
(噂通りですわね)
クロヴィス・フォン・シュヴァルツハルト。
冷徹、公平、私情を挟まない。
そう評される一方で、「人の心がない」とまで言われる男。
ディアナは、封を切る前に一度だけ目を閉じた。
(さて……どんな条件なのでしょう)
ゆっくりと、手紙を開く。
そこに記されていた文面は、驚くほど簡潔だった。
『ディアナ・フォン・ヴァイスリーベ侯爵令嬢殿
貴殿との婚姻を望む
条件は以下の通り
一、愛情を求めない
二、互いの領分に干渉しない
三、婚姻は政治的なものとする
以上
承諾されるなら、直接会って詳細を詰めたい
クロヴィス・フォン・シュヴァルツハルト』
ディアナは、しばし無言で文面を見つめていた。
そして――。
「……ふふ」
思わず、小さな笑みがこぼれる。
「お嬢様?」
執事が驚いたように声を上げる。
「いえ……あまりにも、率直で」
ディアナは、静かに手紙を机に置いた。
条件は、明確。
感情の入り込む余地はない。
(白い結婚、ということですわね)
そして、その提案に――。
(ここまで、心が躍るとは思いませんでした)
自分でも意外だった。
婚約破棄の直後であるにもかかわらず、不安はない。
むしろ、胸の奥に広がるのは安堵だった。
――愛情を求めない。
――干渉しない。
それは、今のディアナにとって、これ以上ない理想条件だ。
だが、同時に冷静な声が頭をもたげる。
(なぜ、私なのか)
公爵家ほどの家柄なら、他に選択肢はいくらでもあるはずだ。
傷物と囁かれる可能性すらある、自分を選ぶ理由。
「……執事」
「はい」
「この縁談について、王宮の反応は?」
執事は、一瞬だけ言葉を選んだ。
「……正直に申し上げますと、かなり動揺しているようです」
「でしょうね」
ディアナは、ため息にも似た息を吐いた。
王太子エドガルドが手放した令嬢を、
最有力貴族が迎え入れる。
それが意味するところは、大きい。
(王宮は、私を“失った”のではなく、“奪われた”と感じるでしょう)
だが、それはもう、自分の知ったことではない。
ディアナは、手紙を丁寧に折り畳んだ。
「返事は……?」
執事が、慎重に尋ねる。
ディアナは、迷いなく答えた。
「前向きに、お会いすると伝えてください」
その言葉に、執事は目を見開いた。
「よろしいのですか? 公爵は……かなり、冷徹な方だと……」
「ええ。存じています」
ディアナは、静かに微笑む。
「だからこそ、ですわ」
感情に振り回されず、
期待を押し付けられず、
役割だけを果たす関係。
(少なくとも、“可愛げがない”などと言われることはなさそうです)
それだけで、十分だった。
窓の外では、風が木々を揺らしている。
ディアナは、その音を聞きながら思った。
(……これで、私は完全に“別の道”へ進む)
王太子の婚約者としてではなく。
王宮の裏方としてでもなく。
一人の貴族として、自分の人生を選ぶ。
冷徹公爵との縁談は、
果たして“安定”か、それとも“転機”か。
その答えは、まだ分からない。
だが一つだけ、確かなことがある。
――この申し入れは、
過去に戻らないための、決定的な一歩だということだ。
ディアナは、ゆっくりと立ち上がった。
運命は、再び動き出していた。
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