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35話 本物として迎える小さな試練
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35話 本物として迎える小さな試練
それは、事件と呼ぶほどのものではなかった。
王都を揺るがす陰謀でも、
誰かの失脚に繋がる話でもない。
けれど――
ディアナにとっては、確かに節目となる出来事だった。
***
その朝、公爵邸に一通の連絡が入った。
「領内の南部村にて」 「作物の横流しが発覚しました」
報告に立つのは、執事長。
「量は少量ですが」 「関与した者の中に、孤児院出身の青年が一名おります」
ディアナの手が、わずかに止まった。
「……孤児院出身、ですか」
「はい」 「現在は、村の倉庫管理を任されていたようで」
沈黙。
これは、判断を誤れば簡単に炎上する案件だ。
不正行為は不正行為。
だが、孤児院支援を主導しているのは――
ディアナ本人。
彼女の名が、必ず絡めて語られる。
「……どうなさいますか」
執事長の声は、慎重だった。
ディアナは、すぐに答えなかった。
頭では、理解している。
厳罰にすれば、
“身内にも容赦しない公爵夫人”として評価される。
だが、胸の奥が静かに訴えていた。
(……それで、本当にいいの?)
そこへ、クロヴィスが入ってくる。
「報告は、聞いた」
執事長は一礼し、
必要な資料を置いて下がった。
二人きりになる。
「……難しい案件ですわね」
「そうだな」
クロヴィスは、椅子に腰を下ろす。
「だが」 「逃げるわけにはいかない」
ディアナは、資料に目を落とす。
青年の名前。
年齢。
孤児院を出た年。
「……私が支援を始めた孤児院です」
「ああ」
「もし」 「私情で庇ったと受け取られれば」
「信頼が、崩れる」
クロヴィスは、淡々と補足する。
「だが」 「機械的に切り捨てれば」 「あなたが大切にしてきたものも、失う」
ディアナは、ゆっくりと息を吐いた。
「……では、どうすれば」
問いかけ。
かつての彼女なら、
答えを“与えられる側”だった。
だが、今は違う。
クロヴィスは、即答しなかった。
少し考えてから、言う。
「一緒に、見に行こう」
ディアナは、顔を上げる。
「……現地へ?」
「ああ」
「書類の上で裁くより」 「直接、話を聞いた方がいい」
ディアナは、驚きつつも――
その提案に、心が定まるのを感じた。
「……はい」
迷いは、なかった。
***
南部の村。
小さな倉庫の前で、
青年は俯いて立っていた。
「……すみません」
声は震えている。
言い訳は、なかった。
「横流しをしたのは、事実です」
ディアナは、彼の前に立つ。
「理由を、聞かせてください」
青年は、一瞬ためらい、
それから言った。
「……弟が、病気で」 「薬代が、どうしても」
それは、ありふれた理由だ。
だからこそ、
簡単には切り捨てられない。
クロヴィスは、黙って聞いている。
ディアナは、静かに問う。
「不正だと、分かっていましたね」
「……はい」
「それでも、やった」
「……はい」
沈黙。
逃げ場は、ない。
ディアナは、はっきりと言った。
「では」 「責任は、取っていただきます」
青年の肩が、びくりと揺れる。
「ですが」
続ける。
「あなたを、追い出すことはしません」
青年が、顔を上げた。
「え……?」
「不正分は、労働で返済してもらいます」 「倉庫管理からは外しますが」 「再教育の場を、用意します」
周囲が、ざわつく。
「……いいのですか」
青年の声が、震える。
ディアナは、真っ直ぐに答えた。
「いいえ」
一拍。
「簡単ではありません」
彼女は、言葉を選ばなかった。
「あなたが犯したことは、消えません」 「でも」
視線を合わせる。
「やり直す機会を、奪う理由もありません」
青年の目から、涙が溢れた。
「……ありがとうございます」
その姿を見て、
ディアナは胸の奥が少しだけ痛んだ。
だが――
後悔はない。
***
帰りの馬車。
二人は、向かい合って座っていた。
「……批判は、出るでしょうね」
ディアナが言う。
「ああ」
「それでも」 「私は、この判断を後悔しません」
クロヴィスは、静かに微笑んだ。
「それが」 「“公爵夫人として”ではなく」 「あなた自身としての判断なら」
一瞬、間を置いて。
「俺は、支持する」
ディアナの胸が、温かくなる。
白い結婚だった頃。
こんな言葉は、なかった。
守る者と、守られる者。
だが今は。
「……ありがとうございます」
「礼はいらない」
クロヴィスは、少し照れたように視線を逸らす。
「一緒に決めた」
その一言が、
ディアナの心に深く染みた。
***
夜。
公爵邸の灯りが、静かに揺れる。
ディアナは、自室で窓を開け、夜風に当たっていた。
(……本当の夫婦、か)
今日の出来事は、
小さな試練だった。
だが、確かに。
二人で乗り越えた最初の出来事だった。
そこへ、ノック。
「……入っても?」
「はい」
クロヴィスが、入ってくる。
「……今日は」
少し迷いながら。
「よくやった」
ディアナは、驚いたように目を瞬かせ、
それから、微笑んだ。
「一人では、できませんでした」
「そうだな」
一歩、距離が近づく。
だが、急がない。
「これからも」 「こういうことは、増える」
「ええ」
「そのたびに」 「一緒に、考えたい」
ディアナは、静かに頷いた。
「はい」
白い結婚は、もうない。
契約でもない。
それでも、
日常は続く。
悩みも、判断も、責任も。
だが――
隣に立つ人がいる。
それだけで、
どんな小さな試練も、
乗り越えられる気がした。
---
それは、事件と呼ぶほどのものではなかった。
王都を揺るがす陰謀でも、
誰かの失脚に繋がる話でもない。
けれど――
ディアナにとっては、確かに節目となる出来事だった。
***
その朝、公爵邸に一通の連絡が入った。
「領内の南部村にて」 「作物の横流しが発覚しました」
報告に立つのは、執事長。
「量は少量ですが」 「関与した者の中に、孤児院出身の青年が一名おります」
ディアナの手が、わずかに止まった。
「……孤児院出身、ですか」
「はい」 「現在は、村の倉庫管理を任されていたようで」
沈黙。
これは、判断を誤れば簡単に炎上する案件だ。
不正行為は不正行為。
だが、孤児院支援を主導しているのは――
ディアナ本人。
彼女の名が、必ず絡めて語られる。
「……どうなさいますか」
執事長の声は、慎重だった。
ディアナは、すぐに答えなかった。
頭では、理解している。
厳罰にすれば、
“身内にも容赦しない公爵夫人”として評価される。
だが、胸の奥が静かに訴えていた。
(……それで、本当にいいの?)
そこへ、クロヴィスが入ってくる。
「報告は、聞いた」
執事長は一礼し、
必要な資料を置いて下がった。
二人きりになる。
「……難しい案件ですわね」
「そうだな」
クロヴィスは、椅子に腰を下ろす。
「だが」 「逃げるわけにはいかない」
ディアナは、資料に目を落とす。
青年の名前。
年齢。
孤児院を出た年。
「……私が支援を始めた孤児院です」
「ああ」
「もし」 「私情で庇ったと受け取られれば」
「信頼が、崩れる」
クロヴィスは、淡々と補足する。
「だが」 「機械的に切り捨てれば」 「あなたが大切にしてきたものも、失う」
ディアナは、ゆっくりと息を吐いた。
「……では、どうすれば」
問いかけ。
かつての彼女なら、
答えを“与えられる側”だった。
だが、今は違う。
クロヴィスは、即答しなかった。
少し考えてから、言う。
「一緒に、見に行こう」
ディアナは、顔を上げる。
「……現地へ?」
「ああ」
「書類の上で裁くより」 「直接、話を聞いた方がいい」
ディアナは、驚きつつも――
その提案に、心が定まるのを感じた。
「……はい」
迷いは、なかった。
***
南部の村。
小さな倉庫の前で、
青年は俯いて立っていた。
「……すみません」
声は震えている。
言い訳は、なかった。
「横流しをしたのは、事実です」
ディアナは、彼の前に立つ。
「理由を、聞かせてください」
青年は、一瞬ためらい、
それから言った。
「……弟が、病気で」 「薬代が、どうしても」
それは、ありふれた理由だ。
だからこそ、
簡単には切り捨てられない。
クロヴィスは、黙って聞いている。
ディアナは、静かに問う。
「不正だと、分かっていましたね」
「……はい」
「それでも、やった」
「……はい」
沈黙。
逃げ場は、ない。
ディアナは、はっきりと言った。
「では」 「責任は、取っていただきます」
青年の肩が、びくりと揺れる。
「ですが」
続ける。
「あなたを、追い出すことはしません」
青年が、顔を上げた。
「え……?」
「不正分は、労働で返済してもらいます」 「倉庫管理からは外しますが」 「再教育の場を、用意します」
周囲が、ざわつく。
「……いいのですか」
青年の声が、震える。
ディアナは、真っ直ぐに答えた。
「いいえ」
一拍。
「簡単ではありません」
彼女は、言葉を選ばなかった。
「あなたが犯したことは、消えません」 「でも」
視線を合わせる。
「やり直す機会を、奪う理由もありません」
青年の目から、涙が溢れた。
「……ありがとうございます」
その姿を見て、
ディアナは胸の奥が少しだけ痛んだ。
だが――
後悔はない。
***
帰りの馬車。
二人は、向かい合って座っていた。
「……批判は、出るでしょうね」
ディアナが言う。
「ああ」
「それでも」 「私は、この判断を後悔しません」
クロヴィスは、静かに微笑んだ。
「それが」 「“公爵夫人として”ではなく」 「あなた自身としての判断なら」
一瞬、間を置いて。
「俺は、支持する」
ディアナの胸が、温かくなる。
白い結婚だった頃。
こんな言葉は、なかった。
守る者と、守られる者。
だが今は。
「……ありがとうございます」
「礼はいらない」
クロヴィスは、少し照れたように視線を逸らす。
「一緒に決めた」
その一言が、
ディアナの心に深く染みた。
***
夜。
公爵邸の灯りが、静かに揺れる。
ディアナは、自室で窓を開け、夜風に当たっていた。
(……本当の夫婦、か)
今日の出来事は、
小さな試練だった。
だが、確かに。
二人で乗り越えた最初の出来事だった。
そこへ、ノック。
「……入っても?」
「はい」
クロヴィスが、入ってくる。
「……今日は」
少し迷いながら。
「よくやった」
ディアナは、驚いたように目を瞬かせ、
それから、微笑んだ。
「一人では、できませんでした」
「そうだな」
一歩、距離が近づく。
だが、急がない。
「これからも」 「こういうことは、増える」
「ええ」
「そのたびに」 「一緒に、考えたい」
ディアナは、静かに頷いた。
「はい」
白い結婚は、もうない。
契約でもない。
それでも、
日常は続く。
悩みも、判断も、責任も。
だが――
隣に立つ人がいる。
それだけで、
どんな小さな試練も、
乗り越えられる気がした。
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