38 / 41
第37話 夫婦として呼ばれる瞬間
しおりを挟むそれは、特別な式典でも、華やかな舞踏会でもなかった。
だがディアナ・フォン・ヴァイスリーベにとっては、
これまでのどの場よりも、心に残る出来事だった。
***
初夏を迎えたある日。
シュヴァルツハルト公爵領の中心都市で、
新たな事業の発足式が行われることになった。
ディアナが主導した、
移行支援制度の試験運用開始。
孤児院出身者や、事情を抱えた若者を、
商会や工房と結びつける仕組みだ。
規模はまだ小さい。
だが、領内外からの関心は高かった。
式典会場となった広場には、
商人、職人、領民、そして貴族たちが集まっている。
ディアナは、舞台裏で静かに深呼吸をしていた。
(……大丈夫)
(これは、私が選んだ道)
だが、緊張がないわけではない。
公の場で、
自分の名前と考えが並べて語られる。
それは、王太子の婚約者だった頃とも、
公爵夫人として控えていた頃とも、違う。
「……準備は、いいか」
クロヴィスの声。
振り返ると、
いつもと変わらない落ち着いた表情で立っている。
「はい」
ディアナは、正直に答えた。
「少し、緊張していますけれど」
「それでいい」
クロヴィスは、短く言う。
「緊張しない仕事は」 「本気で向き合っていない証拠だ」
ディアナは、思わず笑った。
「……そうですね」
***
式典が始まる。
司会者の声が、広場に響く。
「本日はお集まりいただき、ありがとうございます」 「これより、移行支援制度発足にあたり」 「ご挨拶を申し上げます」
まず紹介されたのは、
シュヴァルツハルト公爵――クロヴィス。
拍手が起こる。
彼は短く、簡潔に話した。
「本制度は」 「我が領にとって、新たな試みだ」
「だが」 「挑戦なくして、未来はない」
視線が、自然と次に向かう。
「この制度を発案し」 「中心となって準備を進めたのは――」
一瞬の間。
「我が妻、ディアナ・フォン・ヴァイスリーベだ」
その言葉が、
はっきりと、広場に響いた。
――我が妻。
公爵夫人、ではない。
協力者、でもない。
妻。
ざわり、と空気が揺れた。
だがそれは、否定のざわめきではない。
驚きと、納得が混じった音だった。
ディアナは、舞台に上がる。
一歩一歩、足を運ぶ。
以前なら、
視線に押し潰されそうになっていたかもしれない。
だが今は――
背中が、温かい。
クロヴィスが、そこに立っている。
***
ディアナは、前を向いた。
「本日は」 「お集まりいただき、ありがとうございます」
声は、震えなかった。
「私は、これまで」 「いくつもの立場で、生きてきました」
王太子の婚約者。
調整役。
公爵夫人。
「ですが」 「この制度を立ち上げるにあたり」 「初めて、自分自身の言葉で」 「皆様の前に立っています」
広場は、静まり返っている。
「この仕組みは」 「誰かを特別扱いするためのものではありません」
「失敗した人間を」 「切り捨てないための仕組みです」
その言葉に、
前列に立つ若者たちの表情が揺れる。
「支える側も」 「支えられる側も」 「対等でありたい」
「それが」 「私が、この制度に込めた願いです」
一拍置いて。
「そして――」
ディアナは、少しだけ視線を横に向ける。
クロヴィスが、そこにいる。
「この場に立てているのは」 「一人ではなかったからです」
それ以上は、言わなかった。
だが、十分だった。
拍手が、起こる。
最初は、控えめに。
だが次第に、大きくなる。
それは、
評価の拍手だった。
***
式典後。
控室へ戻る途中、
ディアナは何人もの人に声をかけられた。
「素晴らしいお話でした」 「ぜひ、協力させてください」
その中に、
かつて彼女を“飾り”として扱っていた貴族の姿もある。
「……公爵夫人」
そう呼びかけてきた相手が、
言い直す。
「いえ」 「ディアナ様」
ほんの小さな違い。
だが、意味は大きい。
ディアナは、微笑んで応じた。
「ありがとうございます」
***
夕暮れ。
二人は、少し離れた丘に立っていた。
式典の余韻が、まだ街に残っている。
「……呼ばれたな」
クロヴィスが言う。
「はい」
ディアナは、頷く。
「“公爵夫人”ではなく」 「“妻”として」
クロヴィスは、少し考えてから言った。
「嫌だったか」
「いいえ」
即答だった。
「……嬉しかったです」
少しだけ、照れながら。
「ようやく」 「同じ場所に立てた気がしました」
クロヴィスは、何も言わず、
彼女の隣に立つ。
肩が、触れる。
近すぎず、遠すぎず。
それが、今の距離だった。
「周囲は」 「もう、迷わないだろう」
「ええ」
ディアナは、空を見上げる。
「私たちを」 「“夫婦”として、見るでしょう」
それは、縛りではない。
選び合った結果としての関係。
ディアナは、静かに思う。
(……私は)
(やっと、ここまで来た)
選ばれるだけの存在から。
契約の中の存在から。
共に立つ存在へ。
風が、丘を吹き抜ける。
それはもう、
不安を運ぶ風ではなかった。
背中を押す風だった。
---
0
あなたにおすすめの小説
悪役令嬢、休職致します
碧井 汐桜香
ファンタジー
そのキツい目つきと高飛車な言動から悪役令嬢として中傷されるサーシャ・ツンドール公爵令嬢。王太子殿下の婚約者候補として、他の婚約者候補の妨害をするように父に言われて、実行しているのも一因だろう。
しかし、ある日突然身体が動かなくなり、母のいる領地で療養することに。
作中、主人公が精神を病む描写があります。ご注意ください。
作品内に登場する医療行為や病気、治療などは創作です。作者は医療従事者ではありません。実際の症状や治療に関する判断は、必ず医師など専門家にご相談ください。
あっ、追放されちゃった…。
satomi
恋愛
ガイダール侯爵家の長女であるパールは精霊の話を聞くことができる。がそのことは誰にも話してはいない。亡き母との約束。
母が亡くなって喪も明けないうちに義母を父は連れてきた。義妹付きで。義妹はパールのものをなんでも欲しがった。事前に精霊の話を聞いていたパールは対処なりをできていたけれど、これは…。
ついにウラルはパールの婚約者である王太子を横取りした。
そのことについては王太子は特に魅力のある人ではないし、なんにも感じなかったのですが、王宮内でも噂になり、家の恥だと、家まで追い出されてしまったのです。
精霊さんのアドバイスによりブルハング帝国へと行ったパールですが…。
ちゃんと忠告をしましたよ?
柚木ゆず
ファンタジー
ある日の、放課後のことでした。王立リザエンドワール学院に籍を置く私フィーナは、生徒会長を務められているジュリアルス侯爵令嬢アゼット様に呼び出されました。
「生徒会の仲間である貴方様に、婚約祝いをお渡したくてこうしておりますの」
アゼット様はそのように仰られていますが、そちらは嘘ですよね? 私は最愛の方に護っていただいているので、貴方様に悪意があると気付けるのですよ。
アゼット様。まだ間に合います。
今なら、引き返せますよ?
※現在体調の影響により、感想欄を一時的に閉じさせていただいております。
【完結】あなたに知られたくなかった
ここ
ファンタジー
セレナの幸せな生活はあっという間に消え去った。新しい継母と異母妹によって。
5歳まで令嬢として生きてきたセレナは6歳の今は、小さな手足で必死に下女見習いをしている。もう自分が令嬢だということは忘れていた。
そんなセレナに起きた奇跡とは?
婚約者を奪った妹と縁を切ったので、家から離れ“辺境領”を継ぎました。 すると勇者一行までついてきたので、領地が最強になったようです
藤原遊
ファンタジー
婚約発表の場で、妹に婚約者を奪われた。
家族にも教会にも見放され、聖女である私・エリシアは “不要” と切り捨てられる。
その“褒賞”として押しつけられたのは――
魔物と瘴気に覆われた、滅びかけの辺境領だった。
けれど私は、絶望しなかった。
むしろ、生まれて初めて「自由」になれたのだ。
そして、予想外の出来事が起きる。
――かつて共に魔王を倒した“勇者一行”が、次々と押しかけてきた。
「君をひとりで行かせるわけがない」
そう言って微笑む勇者レオン。
村を守るため剣を抜く騎士。
魔導具を抱えて駆けつける天才魔法使い。
物陰から見守る斥候は、相変わらず不器用で優しい。
彼らと力を合わせ、私は土地を浄化し、村を癒し、辺境の地に息を吹き返す。
気づけば、魔物巣窟は制圧され、泉は澄み渡り、鉱山もダンジョンも豊かに開き――
いつの間にか領地は、“どの国よりも最強の地”になっていた。
もう、誰にも振り回されない。
ここが私の新しい居場所。
そして、隣には――かつての仲間たちがいる。
捨てられた聖女が、仲間と共に辺境を立て直す。
これは、そんな私の第二の人生の物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる