白い結婚のはずでしたが、選ぶ人生を取り戻しました

ふわふわ

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第37話 夫婦として呼ばれる瞬間

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 それは、特別な式典でも、華やかな舞踏会でもなかった。

 だがディアナ・フォン・ヴァイスリーベにとっては、
 これまでのどの場よりも、心に残る出来事だった。

 ***

 初夏を迎えたある日。

 シュヴァルツハルト公爵領の中心都市で、
 新たな事業の発足式が行われることになった。

 ディアナが主導した、
 移行支援制度の試験運用開始。

 孤児院出身者や、事情を抱えた若者を、
 商会や工房と結びつける仕組みだ。

 規模はまだ小さい。
 だが、領内外からの関心は高かった。

 式典会場となった広場には、
 商人、職人、領民、そして貴族たちが集まっている。

 ディアナは、舞台裏で静かに深呼吸をしていた。

(……大丈夫)

(これは、私が選んだ道)

 だが、緊張がないわけではない。

 公の場で、
 自分の名前と考えが並べて語られる。

 それは、王太子の婚約者だった頃とも、
 公爵夫人として控えていた頃とも、違う。

「……準備は、いいか」

 クロヴィスの声。

 振り返ると、
 いつもと変わらない落ち着いた表情で立っている。

「はい」

 ディアナは、正直に答えた。

「少し、緊張していますけれど」

「それでいい」

 クロヴィスは、短く言う。

「緊張しない仕事は」 「本気で向き合っていない証拠だ」

 ディアナは、思わず笑った。

「……そうですね」

 ***

 式典が始まる。

 司会者の声が、広場に響く。

「本日はお集まりいただき、ありがとうございます」 「これより、移行支援制度発足にあたり」 「ご挨拶を申し上げます」

 まず紹介されたのは、
 シュヴァルツハルト公爵――クロヴィス。

 拍手が起こる。

 彼は短く、簡潔に話した。

「本制度は」 「我が領にとって、新たな試みだ」

「だが」 「挑戦なくして、未来はない」

 視線が、自然と次に向かう。

「この制度を発案し」 「中心となって準備を進めたのは――」

 一瞬の間。

「我が妻、ディアナ・フォン・ヴァイスリーベだ」

 その言葉が、
 はっきりと、広場に響いた。

 ――我が妻。

 公爵夫人、ではない。
 協力者、でもない。

 妻。

 ざわり、と空気が揺れた。

 だがそれは、否定のざわめきではない。

 驚きと、納得が混じった音だった。

 ディアナは、舞台に上がる。

 一歩一歩、足を運ぶ。

 以前なら、
 視線に押し潰されそうになっていたかもしれない。

 だが今は――
 背中が、温かい。

 クロヴィスが、そこに立っている。

 ***

 ディアナは、前を向いた。

「本日は」 「お集まりいただき、ありがとうございます」

 声は、震えなかった。

「私は、これまで」 「いくつもの立場で、生きてきました」

 王太子の婚約者。
 調整役。
 公爵夫人。

「ですが」 「この制度を立ち上げるにあたり」 「初めて、自分自身の言葉で」 「皆様の前に立っています」

 広場は、静まり返っている。

「この仕組みは」 「誰かを特別扱いするためのものではありません」

「失敗した人間を」 「切り捨てないための仕組みです」

 その言葉に、
 前列に立つ若者たちの表情が揺れる。

「支える側も」 「支えられる側も」 「対等でありたい」

「それが」 「私が、この制度に込めた願いです」

 一拍置いて。

「そして――」

 ディアナは、少しだけ視線を横に向ける。

 クロヴィスが、そこにいる。

「この場に立てているのは」 「一人ではなかったからです」

 それ以上は、言わなかった。

 だが、十分だった。

 拍手が、起こる。

 最初は、控えめに。
 だが次第に、大きくなる。

 それは、
 評価の拍手だった。

 ***

 式典後。

 控室へ戻る途中、
 ディアナは何人もの人に声をかけられた。

「素晴らしいお話でした」 「ぜひ、協力させてください」

 その中に、
 かつて彼女を“飾り”として扱っていた貴族の姿もある。

「……公爵夫人」

 そう呼びかけてきた相手が、
 言い直す。

「いえ」 「ディアナ様」

 ほんの小さな違い。

 だが、意味は大きい。

 ディアナは、微笑んで応じた。

「ありがとうございます」

 ***

 夕暮れ。

 二人は、少し離れた丘に立っていた。

 式典の余韻が、まだ街に残っている。

「……呼ばれたな」

 クロヴィスが言う。

「はい」

 ディアナは、頷く。

「“公爵夫人”ではなく」 「“妻”として」

 クロヴィスは、少し考えてから言った。

「嫌だったか」

「いいえ」

 即答だった。

「……嬉しかったです」

 少しだけ、照れながら。

「ようやく」 「同じ場所に立てた気がしました」

 クロヴィスは、何も言わず、
 彼女の隣に立つ。

 肩が、触れる。

 近すぎず、遠すぎず。

 それが、今の距離だった。

「周囲は」 「もう、迷わないだろう」

「ええ」

 ディアナは、空を見上げる。

「私たちを」 「“夫婦”として、見るでしょう」

 それは、縛りではない。

 選び合った結果としての関係。

 ディアナは、静かに思う。

(……私は)

(やっと、ここまで来た)

 選ばれるだけの存在から。
 契約の中の存在から。

 共に立つ存在へ。

 風が、丘を吹き抜ける。

 それはもう、
 不安を運ぶ風ではなかった。

 背中を押す風だった。


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