婚約破棄された公爵令嬢と、処方箋を無視する天才薬師 ――正しい医療は、二人で始めます

ふわふわ

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第31話 局長の天秤

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第31話 局長の天秤

 その日、国営薬局の空気は重かった。

 患者の数は減っていない。
 だが、列の進みは遅く、窓口では説明の声が増えている。

「……違法じゃないんですよね?」
「あとで問題になったりしませんか?」

 同じ質問を、何度も、何度も。

 事務官たちは疲弊し、薬師たちも口数が少なくなっていた。
 そして――局長は、執務室で一人、机に向かっていた。

 目の前にあるのは、医会からの正式な照会文。
 “事情確認”。
 だが、その行間にあるのは、はっきりしている。

 ――切れ。
 ――あの薬師を。

「……馬鹿馬鹿しい」

 思わず、独り言が漏れた。

 ギ・メイの調剤に違法性はない。
 処方箋に基づき、薬師の裁量で配合を調整しているだけだ。

 それは、制度上も許されている。

 問題は――制度のほうだった。

 万能薬を前提にした運用。
 情報のない処方箋。
 効率を理由に、現場の判断を削ぎ落としてきた長年の慣習。

 そして今、
 その歪みが、結果を出した一人の薬師に押し付けられようとしている。

 局長は、書類を閉じ、椅子にもたれた。

「……私は、管理者だ」

 個人を守る義務はない。
 組織を守るのが仕事だ。

 もし、ここでギ・メイを切れば――
 医会の圧力は弱まり、薬局は守られる。

 職員たちも、安堵するだろう。

 だが。

「……それで、現場は守れるのか」

 問いが、胸に突き刺さる。

 ギ・メイが来てから、患者の再来院は減った。
 回復までの期間も短縮された。
 数字は、嘘をつかない。

 それを、噂と政治で切り捨てる?

 昼過ぎ、局長は調剤室を訪れた。

 ギ・メイは、いつもと変わらず作業をしていた。
 淡々と、正確に。

「……少し、時間をいいか」

「はい」

 二人は、奥の小さな応接室に入る。

 局長は、率直に切り出した。

「医会からの照会が来た」
「承知しています」

「……噂も、広がっている」

「はい」

 短い返事。
 言い訳も、自己弁護もない。

「怖くはないのか?」

 ふと、そんな問いが口をついた。

 ギ・メイは、少し考え――答えた。

「怖くないと言えば、嘘になります」

 だが、その声は揺れていなかった。

「それでも、私のやっていることが間違っているとは思えません」

 局長は、視線を落とす。

「組織は、君一人のために存在しているわけじゃない」

「分かっています」

「最悪の場合――」

「その時は、従います」

 即答だった。

「私は、規則を破るつもりはありません。
 ただ、与えられた枠の中で、最善を尽くしているだけです」

 局長は、目を閉じた。

 ――この薬師は、分かっている。
 自分が“切られる側”だということを。

 それでも、現場を優先している。

 夕方、局長は決断した。

 医会への回答文。
 そこには、こう記した。

「当薬局において、違法行為は確認されていない。
 調剤はすべて処方箋に基づいて行われている」

 さらに、一文を付け加える。

「問題があるとすれば、処方箋の情報量不足と、現行制度の運用である」

 強気だった。
 だが、退路も用意した。

 同時に、王宮宛ての報告書を作成する。

 ――新医療機関の実績。
 ――患者回復率の変化。
 ――薬局との連携データ。

「……賭けだな」

 誰にともなく呟く。

 組織を守るか。
 現場を守るか。

 局長は、天秤の片側を――静かに、だが確かに――傾けた。

 その夜、ギ・メイは一人、調剤室に残っていた。

 いつも通りの作業。
 いつも通りの手順。

 だが、彼女は知っている。

 嵐は、まだ終わっていない。

 ――次は、もっと露骨に来る。

 それでも。

 瓶に封をしながら、彼女は小さく息を吐いた。

「……大丈夫」

 それは、自分に言い聞かせるような声だった。

 制度と現場の間で、
 薬局は、いま最も危うい場所に立っていた。
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