5 / 32
第5話 森に沈む夜、失われた名と生きる決意
しおりを挟む
第5話 森に沈む夜、失われた名と生きる決意
森の中は、想像以上に深かった。
踏みしめるたびに湿った土が音を立て、絡みつく蔦や低木が、進む者を拒むかのように行く手を塞ぐ。陽はすでに傾き、木々の隙間から差し込む光も、刻一刻と弱まっていった。
(……思ったより、厳しいわね)
エレナは足を止め、肩で息をしながら周囲を見回した。
王都育ちの自分が、こんな場所を一人で歩く日が来るとは、数日前まで想像もしなかった。
けれど、立ち止まるわけにはいかない。
ここで野宿するには、準備が足りなさすぎる。
――せめて、雨風をしのげる場所を。
癒しの魔法で体力を底上げしながら、慎重に歩みを進める。
やがて、苔むした岩陰に、小さな洞のような空間を見つけた。
「……ここなら」
鞄を下ろし、周囲に魔物の気配がないことを確認する。
簡易的ではあるが、身を寄せるには十分だ。
エレナは腰を下ろし、深く息を吐いた。
静寂が、耳鳴りのように広がる。
――本当に、独りになった。
その事実が、ようやく実感として胸に落ちてくる。
王太子の婚約者でもない。
公爵家の令嬢でもない。
今の自分は、ただの「エレナ」だ。
名前以外、何も持たない存在。
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
けれど、不思議と涙は出なかった。
(泣いても……何も戻らない)
その代わり、静かな怒りと、決意が湧き上がる。
エレナは鞄から薬草の手帳を取り出し、火起こしの準備を始めた。
火打石を打ち、乾いた葉に火花を散らす。
ぱち、という小さな音と共に、炎が生まれる。
その揺らめきを見つめながら、エレナは無意識のうちに、自分の内側へと意識を向けていた。
癒しの魔力。
いつもと変わらず、温かく、穏やかに流れている。
そして――その奥。
(……やっぱり、いる)
冷たく、静かで、しかし確かな存在感。
抑え込もうとしても、否応なく感じ取ってしまう力。
――呪い。
それは、誰かに教わったものではない。
知識として学んだこともない。
だが、感覚だけは、はっきりと理解していた。
(……もし、あの人たちが、さらに私を害そうとしたら)
思考が、自然とそこへ向かう。
以前なら、決して考えなかった方向だ。
エレナは小さく首を振った。
「……今は、生きることが先ね」
復讐は、まだ先でいい。
まずは、生き延びなければならない。
火にかけた簡易鍋で、乾燥肉と薬草を煮る。
質素な食事。それでも、温かさが身体に染み渡る。
食事を終えた頃には、森はすっかり夜の顔になっていた。
遠くで獣の鳴き声が響き、枝が揺れる音がする。
エレナは洞の奥へ身を寄せ、外套を羽織った。
(……怖くない、と言えば嘘になる)
だが、それ以上に強い感情がある。
(ここで終わるわけには、いかない)
王都で、踏みにじられた尊厳。
奪われた立場。
切り捨てられた存在。
それらすべてを、ただ受け入れて消えるつもりはない。
エレナは目を閉じ、静かに魔力を巡らせた。
癒しの力で身体を守り、呪いの気配を抑え込みながら、均衡を探る。
二つの力は、反発しながらも、確かに共存していた。
(……使いこなせれば)
それは、希望なのか、危険なのか。
まだ分からない。
だが、可能性だけは、確かにあった。
そのとき――。
がさり、と、洞の外で音がした。
エレナは瞬時に身を強張らせ、火を手で覆う。
魔物か、それとも……。
息を潜め、耳を澄ます。
再び、足音。
人のものだ。
(……誰?)
この森に、人がいるとは聞いていない。
胸の奥の呪いの力が、わずかにざわめく。
同時に、癒しの魔力が警告する。
――危険かもしれない。
エレナは立ち上がり、洞の奥で身構えた。
追放された令嬢の、最初の夜。
それは、孤独と決意だけで終わらない。
この出会いが、彼女の運命を大きく動かすことになるなど――
まだ、この時のエレナは知る由もなかった。
森の中は、想像以上に深かった。
踏みしめるたびに湿った土が音を立て、絡みつく蔦や低木が、進む者を拒むかのように行く手を塞ぐ。陽はすでに傾き、木々の隙間から差し込む光も、刻一刻と弱まっていった。
(……思ったより、厳しいわね)
エレナは足を止め、肩で息をしながら周囲を見回した。
王都育ちの自分が、こんな場所を一人で歩く日が来るとは、数日前まで想像もしなかった。
けれど、立ち止まるわけにはいかない。
ここで野宿するには、準備が足りなさすぎる。
――せめて、雨風をしのげる場所を。
癒しの魔法で体力を底上げしながら、慎重に歩みを進める。
やがて、苔むした岩陰に、小さな洞のような空間を見つけた。
「……ここなら」
鞄を下ろし、周囲に魔物の気配がないことを確認する。
簡易的ではあるが、身を寄せるには十分だ。
エレナは腰を下ろし、深く息を吐いた。
静寂が、耳鳴りのように広がる。
――本当に、独りになった。
その事実が、ようやく実感として胸に落ちてくる。
王太子の婚約者でもない。
公爵家の令嬢でもない。
今の自分は、ただの「エレナ」だ。
名前以外、何も持たない存在。
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
けれど、不思議と涙は出なかった。
(泣いても……何も戻らない)
その代わり、静かな怒りと、決意が湧き上がる。
エレナは鞄から薬草の手帳を取り出し、火起こしの準備を始めた。
火打石を打ち、乾いた葉に火花を散らす。
ぱち、という小さな音と共に、炎が生まれる。
その揺らめきを見つめながら、エレナは無意識のうちに、自分の内側へと意識を向けていた。
癒しの魔力。
いつもと変わらず、温かく、穏やかに流れている。
そして――その奥。
(……やっぱり、いる)
冷たく、静かで、しかし確かな存在感。
抑え込もうとしても、否応なく感じ取ってしまう力。
――呪い。
それは、誰かに教わったものではない。
知識として学んだこともない。
だが、感覚だけは、はっきりと理解していた。
(……もし、あの人たちが、さらに私を害そうとしたら)
思考が、自然とそこへ向かう。
以前なら、決して考えなかった方向だ。
エレナは小さく首を振った。
「……今は、生きることが先ね」
復讐は、まだ先でいい。
まずは、生き延びなければならない。
火にかけた簡易鍋で、乾燥肉と薬草を煮る。
質素な食事。それでも、温かさが身体に染み渡る。
食事を終えた頃には、森はすっかり夜の顔になっていた。
遠くで獣の鳴き声が響き、枝が揺れる音がする。
エレナは洞の奥へ身を寄せ、外套を羽織った。
(……怖くない、と言えば嘘になる)
だが、それ以上に強い感情がある。
(ここで終わるわけには、いかない)
王都で、踏みにじられた尊厳。
奪われた立場。
切り捨てられた存在。
それらすべてを、ただ受け入れて消えるつもりはない。
エレナは目を閉じ、静かに魔力を巡らせた。
癒しの力で身体を守り、呪いの気配を抑え込みながら、均衡を探る。
二つの力は、反発しながらも、確かに共存していた。
(……使いこなせれば)
それは、希望なのか、危険なのか。
まだ分からない。
だが、可能性だけは、確かにあった。
そのとき――。
がさり、と、洞の外で音がした。
エレナは瞬時に身を強張らせ、火を手で覆う。
魔物か、それとも……。
息を潜め、耳を澄ます。
再び、足音。
人のものだ。
(……誰?)
この森に、人がいるとは聞いていない。
胸の奥の呪いの力が、わずかにざわめく。
同時に、癒しの魔力が警告する。
――危険かもしれない。
エレナは立ち上がり、洞の奥で身構えた。
追放された令嬢の、最初の夜。
それは、孤独と決意だけで終わらない。
この出会いが、彼女の運命を大きく動かすことになるなど――
まだ、この時のエレナは知る由もなかった。
0
あなたにおすすめの小説
婚約破棄を「奪った側」から見たならば ~王子、あなたの代わりはいくらでもいます~
フーラー
恋愛
王子が「真実の愛」を見つけて婚約破棄をする物語を「奪ったヒロイン側」の視点で『チート相手に勝利する』恋愛譚。
舞台は中世風ファンタジー。
転生者である貴族の娘『アイ』は、前世から持ち込んだ医療や衛生の知識を活かして、世界一の天才研究家として名を馳せていた。
だが、婚約者の王子ソームはそれを快く思っていなかった。
彼女のその活躍こそ目覚ましかったが、彼が求めていたのは『優秀な妻』ではなく、自分と時間を共有してくれる『対等なパートナー』だったからだ。
だが、それを周りに行っても「彼女の才能に嫉妬している」と嘲笑されることがわかっていたため、口に出せなかった。
一方のアイも、もともと前世では『本当の意味でのコミュ障』だった上に、転生して初めてチヤホヤされる喜びを知った状態では、王子にかまける余裕も、彼の内面に目を向ける意識もなかった。
そんなときに王子は、宮廷道化師のハーツに相談する。
「私にアイ様のような才能はないですが、王子と同じ時間は過ごすことは出来ます」
そういった彼女は、その王子をバカにしながらも、彼と一緒に人生を歩く道を模索する。
それによって、王子の心は揺れ動いていくことになる。
小説家になろう・カクヨムでも掲載されています!
※本作を執筆するにあたりAIを補助的に利用しています
【完結】伯爵令嬢の25通の手紙 ~この手紙たちが、わたしを支えてくれますように~
朝日みらい
恋愛
煌びやかな晩餐会。クラリッサは上品に振る舞おうと努めるが、周囲の貴族は彼女の地味な外見を笑う。
婚約者ルネがワインを掲げて笑う。「俺は華のある令嬢が好きなんだ。すまないが、君では退屈だ。」
静寂と嘲笑の中、クラリッサは微笑みを崩さずに頭を下げる。
夜、涙をこらえて母宛てに手紙を書く。
「恥をかいたけれど、泣かないことを誇りに思いたいです。」
彼女の最初の手紙が、物語の始まりになるように――。
お前との婚約は、ここで破棄する!
ねむたん
恋愛
「公爵令嬢レティシア・フォン・エーデルシュタイン! お前との婚約は、ここで破棄する!」
華やかな舞踏会の中心で、第三王子アレクシス・ローゼンベルクがそう高らかに宣言した。
一瞬の静寂の後、会場がどよめく。
私は心の中でため息をついた。
【完結】「めでたし めでたし」から始まる物語
つくも茄子
恋愛
身分違の恋に落ちた王子様は「真実の愛」を貫き幸せになりました。
物語では「幸せになりました」と終わりましたが、現実はそうはいかないもの。果たして王子様と本当に幸せだったのでしょうか?
王子様には婚約者の公爵令嬢がいました。彼女は本当に王子様の恋を応援したのでしょうか?
これは、めでたしめでたしのその後のお話です。
番外編がスタートしました。
意外な人物が出てきます!
婚約者を奪った妹と縁を切ったので、家から離れ“辺境領”を継ぎました。 すると勇者一行までついてきたので、領地が最強になったようです
藤原遊
ファンタジー
婚約発表の場で、妹に婚約者を奪われた。
家族にも教会にも見放され、聖女である私・エリシアは “不要” と切り捨てられる。
その“褒賞”として押しつけられたのは――
魔物と瘴気に覆われた、滅びかけの辺境領だった。
けれど私は、絶望しなかった。
むしろ、生まれて初めて「自由」になれたのだ。
そして、予想外の出来事が起きる。
――かつて共に魔王を倒した“勇者一行”が、次々と押しかけてきた。
「君をひとりで行かせるわけがない」
そう言って微笑む勇者レオン。
村を守るため剣を抜く騎士。
魔導具を抱えて駆けつける天才魔法使い。
物陰から見守る斥候は、相変わらず不器用で優しい。
彼らと力を合わせ、私は土地を浄化し、村を癒し、辺境の地に息を吹き返す。
気づけば、魔物巣窟は制圧され、泉は澄み渡り、鉱山もダンジョンも豊かに開き――
いつの間にか領地は、“どの国よりも最強の地”になっていた。
もう、誰にも振り回されない。
ここが私の新しい居場所。
そして、隣には――かつての仲間たちがいる。
捨てられた聖女が、仲間と共に辺境を立て直す。
これは、そんな私の第二の人生の物語。
《完結》金貨5000枚で売られた王太子妃
ぜらちん黒糖
恋愛
「愛している。必ず迎えに行くから待っていてくれ」
甘い言葉を信じて、隣国へ「人質」となった王太子妃イザベラ。
旅立ちの前の晩、二人は愛し合い、イザベラのお腹には新しい命が宿った。すぐに夫に知らせた イザベラだったが、夫から届いた返信は、信じられない内容だった。
「それは本当に私の子供なのか?」
婚約破棄をされるのですね? でしたらその代償を払っていただきます
柚木ゆず
恋愛
「フルール・レファネッサル! この時を以てお前との婚約を破棄する!!」
私フルールの婚約者であるラトーレルア侯爵令息クリストフ様は、私の罪を捏造して婚約破棄を宣言されました。
クリストフ様。貴方様は気付いていないと思いますが、そちらは契約違反となります。ですのでこれから、その代償を払っていただきますね。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる