4 / 32
第4話 静かな旅立ち、切り離された世界
しおりを挟む
第4話 静かな旅立ち、切り離された世界
出立の朝は、驚くほど静かだった。
公爵家の屋敷に差し込む朝日が、磨かれた廊下を淡く照らしている。だが、その光はどこか冷たく、温もりを感じさせなかった。
エレナは簡素な旅装に身を包み、用意された鞄を足元に置いて立っていた。中身は最低限――着替え数着、薬草の手帳、古い日記帳。それだけだ。
かつて王太子妃として用意されていた宝石も、絹のドレスも、すべて必要ないと判断された。
「馬車の準備は整っております」
執事が事務的に告げる。
その声に、かつての労わりはなかった。
「……ありがとうございます」
礼を言うと、執事は一瞬だけ視線を泳がせ、すぐに背を向けた。
まるで、これ以上関わること自体が許されないかのように。
広間には、父も母もいない。
見送りは、ない。
――当然、か。
胸の奥で何かが疼くが、エレナは顔に出さない。
泣くには、もう遅すぎた。
屋敷の門をくぐると、一台の馬車が待っていた。
装飾のない、実用一点張りのもの。王都から辺境へ向かうための、ただの移動手段。
御者が黙って扉を開ける。
「……参ります」
エレナはそう告げ、自ら馬車に乗り込んだ。
扉が閉まり、ほどなくして馬車は走り出す。
車輪の音が規則正しく響き、王都の街並みが後方へと流れていく。
華やかな塔、賑やかな通り、懐かしい風景。
その一つ一つが、もう戻れない場所だと告げているようだった。
――私は、この国から追い出された。
事実を噛みしめるほどに、胸の奥がひりつく。
だが同時に、不思議なほど心は静かだった。
馬車の中で、エレナは小さな水筒を取り出し、喉を潤す。
その瞬間、舌にわずかな違和感が走った。
「……?」
ほんの一瞬。
だが、身体の奥が冷えるような感覚が広がる。
(まさか……)
癒しの魔法使いとして培った勘が、警鐘を鳴らす。
水筒に仕込まれた、微量の毒。致死性はないが、体力を奪い、衰弱させる類のものだ。
――アリア。
名を口にせずとも、誰の仕業かは分かる。
最後の一押し。辺境へ向かう途中で倒れれば、事故死として処理されるだろう。
エレナは目を閉じ、深く息を吸った。
(……舐めないで)
胸の奥に、あの冷たい力が応じる。
癒しの魔力を巡らせ、同時に、微細な異物を弾き出すよう意識する。
しばらくして、身体の違和感は消えた。
代わりに、胸の内に残ったのは、静かな怒りだった。
――やはり、私は消される存在なのだ。
だが、不思議と恐怖はなかった。
むしろ、覚悟が固まっていく。
馬車は王都を抜け、やがて人家の少ない道へと入る。
舗装は荒れ、揺れが激しくなる。
「この先で降りていただきます」
御者が振り返り、淡々と言った。
「ここから先は、馬車では入れませんので」
指定された場所は、森の入口だった。
道と呼ぶには心許ない、獣道のような小径が奥へと続いている。
「……ここで?」
「命令です」
それ以上の説明はない。
エレナは馬車を降り、足元の土を踏みしめた。
湿った森の匂い。風に揺れる葉の音。王都とは別世界だ。
馬車はすぐに引き返していく。
振り返ることもなく。
一人、取り残された。
エレナは鞄を持ち直し、森を見つめた。
怖くないわけではない。だが、後悔もなかった。
「……さようなら、王都」
小さく呟き、彼女は歩き出す。
一歩、また一歩。
舗装された道から離れ、貴族としての身分からも離れ、ただの一人の人間として。
背後で、何かが確かに切れた気がした。
それは、過去の自分と世界を繋いでいた糸。
――ここからは、自分で進む。
森の奥へと足を踏み入れた瞬間、胸の奥の二つの力が、静かに共鳴した。
癒しと、呪い。
相反するはずのそれらが、今は確かにエレナの中で共に息づいている。
この旅路が、再生への道なのか、それとも復讐への道なのか。
まだ分からない。
だが一つだけ、確かなことがあった。
彼女はもう、誰かに選ばれるだけの存在ではない。
自ら選び、掴み取るために――静かな旅は、始まったばかりだった。
出立の朝は、驚くほど静かだった。
公爵家の屋敷に差し込む朝日が、磨かれた廊下を淡く照らしている。だが、その光はどこか冷たく、温もりを感じさせなかった。
エレナは簡素な旅装に身を包み、用意された鞄を足元に置いて立っていた。中身は最低限――着替え数着、薬草の手帳、古い日記帳。それだけだ。
かつて王太子妃として用意されていた宝石も、絹のドレスも、すべて必要ないと判断された。
「馬車の準備は整っております」
執事が事務的に告げる。
その声に、かつての労わりはなかった。
「……ありがとうございます」
礼を言うと、執事は一瞬だけ視線を泳がせ、すぐに背を向けた。
まるで、これ以上関わること自体が許されないかのように。
広間には、父も母もいない。
見送りは、ない。
――当然、か。
胸の奥で何かが疼くが、エレナは顔に出さない。
泣くには、もう遅すぎた。
屋敷の門をくぐると、一台の馬車が待っていた。
装飾のない、実用一点張りのもの。王都から辺境へ向かうための、ただの移動手段。
御者が黙って扉を開ける。
「……参ります」
エレナはそう告げ、自ら馬車に乗り込んだ。
扉が閉まり、ほどなくして馬車は走り出す。
車輪の音が規則正しく響き、王都の街並みが後方へと流れていく。
華やかな塔、賑やかな通り、懐かしい風景。
その一つ一つが、もう戻れない場所だと告げているようだった。
――私は、この国から追い出された。
事実を噛みしめるほどに、胸の奥がひりつく。
だが同時に、不思議なほど心は静かだった。
馬車の中で、エレナは小さな水筒を取り出し、喉を潤す。
その瞬間、舌にわずかな違和感が走った。
「……?」
ほんの一瞬。
だが、身体の奥が冷えるような感覚が広がる。
(まさか……)
癒しの魔法使いとして培った勘が、警鐘を鳴らす。
水筒に仕込まれた、微量の毒。致死性はないが、体力を奪い、衰弱させる類のものだ。
――アリア。
名を口にせずとも、誰の仕業かは分かる。
最後の一押し。辺境へ向かう途中で倒れれば、事故死として処理されるだろう。
エレナは目を閉じ、深く息を吸った。
(……舐めないで)
胸の奥に、あの冷たい力が応じる。
癒しの魔力を巡らせ、同時に、微細な異物を弾き出すよう意識する。
しばらくして、身体の違和感は消えた。
代わりに、胸の内に残ったのは、静かな怒りだった。
――やはり、私は消される存在なのだ。
だが、不思議と恐怖はなかった。
むしろ、覚悟が固まっていく。
馬車は王都を抜け、やがて人家の少ない道へと入る。
舗装は荒れ、揺れが激しくなる。
「この先で降りていただきます」
御者が振り返り、淡々と言った。
「ここから先は、馬車では入れませんので」
指定された場所は、森の入口だった。
道と呼ぶには心許ない、獣道のような小径が奥へと続いている。
「……ここで?」
「命令です」
それ以上の説明はない。
エレナは馬車を降り、足元の土を踏みしめた。
湿った森の匂い。風に揺れる葉の音。王都とは別世界だ。
馬車はすぐに引き返していく。
振り返ることもなく。
一人、取り残された。
エレナは鞄を持ち直し、森を見つめた。
怖くないわけではない。だが、後悔もなかった。
「……さようなら、王都」
小さく呟き、彼女は歩き出す。
一歩、また一歩。
舗装された道から離れ、貴族としての身分からも離れ、ただの一人の人間として。
背後で、何かが確かに切れた気がした。
それは、過去の自分と世界を繋いでいた糸。
――ここからは、自分で進む。
森の奥へと足を踏み入れた瞬間、胸の奥の二つの力が、静かに共鳴した。
癒しと、呪い。
相反するはずのそれらが、今は確かにエレナの中で共に息づいている。
この旅路が、再生への道なのか、それとも復讐への道なのか。
まだ分からない。
だが一つだけ、確かなことがあった。
彼女はもう、誰かに選ばれるだけの存在ではない。
自ら選び、掴み取るために――静かな旅は、始まったばかりだった。
2
あなたにおすすめの小説
白い結婚のはずでしたが、冷血辺境伯の溺愛は想定外です
鍛高譚
恋愛
――私の結婚は、愛も干渉もない『白い結婚』のはずでした。
侯爵令嬢クレスタは王太子アレクシオンから一方的に婚約破棄を告げられ、冷徹と名高い辺境伯ジークフリートと政略結婚をすることに。 しかしその結婚には、『互いに干渉しない』『身体の関係を持たない』という特別な契約があった。
形だけの夫婦を続けながらも、ジークフリートの優しさや温もりに触れるうち、クレスタの傷ついた心は少しずつ癒されていく。 一方で、クレスタを捨てた王太子と平民の少女ミーナは『真実の愛』を声高に叫ぶが、次第にその実態が暴かれ、彼らの運命は思わぬ方向へと転落していく。
やがて訪れるざまぁな展開の先にあるのは、真実の愛によって結ばれる二人の未来――。
婚約破棄された公爵令嬢ですが、戻らなかっただけです
鷹 綾
恋愛
王太子カイル殿下から、社交界の場で婚約破棄を言い渡された公爵令嬢リュシエンヌ。
理由は――
「王太子妃には華が必要だから」。
新たに選ばれたのは、愛らしく無邪気な義妹セシリア。
誰もが思った。
傷ついた令嬢は泣き、縋り、やがて戻るのだと。
けれどリュシエンヌは、ただ一言だけ告げる。
「戻りません」
彼女は怒らない。
争わない。
復讐もしない。
ただ――王家を支えるのをやめただけ。
流通は滞り、商会は様子を見始め、焦った王太子は失点を重ねる。
さらに義妹の軽率な一言が決定打となり、王太子妃候補の座は静かに消えた。
強いざまあとは、叫ぶことではない。
自らの選択で、自らの立場を削らせること。
そして彼女は最後まで戻らない。
支えない。
奪わない。
――選ばれなかったのではない。
彼女が、選ばなかったのだ。
これは、沈黙で勝つ公爵令嬢の物語。
婚約破棄された令嬢は、幸せになると決めました~追放先で出会った冷徹公爵が、なぜか溺愛してくる件~
sika
恋愛
名家の令嬢・アイリスは、婚約者の王太子から「平凡すぎる」と婚約破棄を突きつけられる。全てを奪われ、家からも冷たく追放された彼女がたどり着いたのは、戦場帰りの冷徹公爵・レオンの領地だった。誰にも期待しないようにしていたアイリスだったが、無愛想な彼の優しさに少しずつ心を開いていく。
やがて、笑顔を取り戻した彼女の前に、あの王太子が後悔と共に現れて——。
「すまない、戻ってきてくれ」
「もう、あなたの令嬢ではありません」
ざまぁと溺愛が交錯する、幸福への再生ストーリー。
捨てられた公爵令嬢は氷の宰相に愛されすぎて困っています 〜婚約破棄の果てに見つけた真実の愛〜
nacat
恋愛
婚約者の王太子に「平民上がりの令嬢が」と断罪された公爵令嬢・リリアーナ。
居並ぶ貴族の前で婚約破棄を告げられ、家を追放された彼女の前に現れたのは、氷の宰相と恐れられる冷徹な美貌の青年、アラン・グレイス。
無表情で冷たいと噂された彼が見せたのは、誰も知らないほど深い優しさと狂おしいほどの独占欲だった。
最果ての領地で始まる、ざまぁと溺愛の逆転劇。
そして、王国を揺るがす陰謀の真実が明らかになるとき、二人の愛はすべてを変える――。
転生令嬢は捨てられた元婚約者に微笑む~悪役にされたけど、今さら愛されてももう遅い~
exdonuts
恋愛
前世で酷く裏切られ、婚約破棄された伯爵令嬢リリアーナ。涙の最期を迎えたはずが、気づけば婚約破棄より三年前の自分に転生していた。
今度こそもう誰にも傷つけられない——そう誓ったリリアーナは、静かに運命を書き換えていく。かつて彼女を見下し利用した人々が、ひとり、またひとりと破滅していく中……。
「リリアーナ、君だけを愛している」
元婚約者が涙ながらに悔やんでも、彼女の心はもう戻らない。
傷ついた令嬢が笑顔で世界を制す、ざまぁ&溺愛の王道転生ロマンス!
追放されましたが、辺境で土壌改革をしたら領民からの感謝が止まりません。~今更戻ってきてと言われても、王都の地盤はもうボロボロですよ?~
水上
恋愛
【全11話完結】
「君は泥臭くて可愛くない」と婚約破棄されたセレナ。
そんな王太子に見切りをつけ、彼女は辺境へ。
そこで待っていたのは、強面だけど実は過保護な辺境伯だった。
セレナは持ち前の知識と技術で不毛の大地を大改革。
荒野は豊作、領民は大歓喜。
一方、彼女を追放した王都は、特産品のワインが作れなくなったり、土壌が腐って悪臭を放ったり、他国との同盟に亀裂が入り始めたりと大惨事に。
戻ってきてと縋られても、もう手遅れですよ?
【完結】冷遇され続けた私、悪魔公爵と結婚して社交界の花形になりました~妹と継母の陰謀は全てお見通しです~
深山きらら
恋愛
名門貴族フォンティーヌ家の長女エリアナは、継母と美しい義妹リリアーナに虐げられ、自分の価値を見失っていた。ある日、「悪魔公爵」と恐れられるアレクシス・ヴァルモントとの縁談が持ち込まれる。厄介者を押し付けたい家族の思惑により、エリアナは北の城へ嫁ぐことに。
灰色だった薔薇が、愛によって真紅に咲く物語。
処刑台の皇妃、回帰して復讐を誓う ~冷酷公爵と偽りの婚約者~ おまえたちは許さない!
秦江湖
ファンタジー
皇妃エリアーナは、夫である皇帝アランと、たった一人の親友イザベラの策略により、無実の罪で処刑される。
民衆に罵られ、アランの冷酷な目とイザベラの嘲笑を「始まりの景色」として目に焼き付けながら絶命した彼女は、しかし、処刑の記憶を持ったまま三年前の過去に回帰する。
「おまえたちは許さない」
二度目の人生。
エリアーナの目的はただ一つ、自分を陥れた二人への完璧な復讐。
彼女はまず、アラン(皇太子)からの婚約内示を拒絶。そして、アラン最大の政敵である「北の冷血公爵」ルシアン・ヴァレリウスに接触する。
1周目で得た「未来の知識」を対価に、エリアーナはルシアンに持ちかける。
「貴方様には帝国の覇権を。わたくしには復讐の舞台を。そのための『契約婚約』を――」
憎悪を糧に生きる皇妃と、氷の瞳を持つ公爵。
二人の偽りの婚約の行く末は……
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる