【16話完結】あの日、王子の隣を去った俺は、いまもあなたを想っている

キノア9g

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第2章

第14話:噂と視線の中で

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 昼前のギルドは、いつもより騒がしかった。依頼掲示板の前に人が集まり、紙を剥がす音と、興味本位の声が重なる。酒場区画からは、まだ早い時間だというのに、笑い声が漏れてきていた。

 扉をくぐった瞬間、空気がわずかに変わるのをアッシュは感じた。視線の流れが、遅れてこちらへ寄ってくる。直接ではない。気づいて、逸らされる類のものだ。

 アッシュは、無意識に背筋を伸ばした。剣の重みを確かめ、歩調を保つ。隣を歩くカイルは、外套の前を留めたまま、淡々と受付へ向かっている。

 受付の女性が、書類を受け取りながら、ちらりとこちらを見た。

「……本日の調査、無事終了ですね」

 形式通りの言葉。だが、視線は短く、測るようだった。

「問題ない」

 カイルの答えは簡潔だった。

 書類を返却され、手続きが終わる。その間、背後で小さなざわめきが起きては、すぐに収まる。名前は出ない。だが、噂の輪郭は、確かにある。

 アッシュは、壁際に移動し、掲示板を眺めるふりをした。紙切れの内容は頭に入らない。意識の端で、断片的な言葉が拾われる。

「……元王子、だろ」

「……一緒にいるって……」

「護衛? それとも……」

 途中で、声は落とされる。聞かれたくない、という配慮よりも、確信のなさが理由だと分かる。

 アッシュは、深く息を吸った。

 否定しに行く気はない。説明する義務もない。だが、沈黙が、いつも最善だとも限らない。

 カイルが、受付を離れ、こちらへ戻ってきた。

「少し、寄り道をする」

 短い言葉。

「……構いません」

 ギルドの奥、酒場区画へ向かう。昼間は依頼の打ち合わせに使われることが多く、席はまばらだった。空いた卓に腰を下ろす。

 給仕が水を置き、何も言わずに離れる。その態度が、逆にありがたい。

 しばらく、沈黙が続いた。

 カイルは、卓上の木目を見つめている。焔は灯っていないが、気配は安定している。

「……気にするな、と言えば嘘になるな」

 彼が、先に口を開いた。

 アッシュは、頷いた。

「ええ。ですが、予想していた範囲です」

 それも、嘘ではない。

「彼らは、理解しようとしているわけではない。ただ、位置を測っている」

 カイルの言葉は、どこか冷静だった。

「危険か、無害か。触れていいか、距離を置くべきか」

 アッシュは、水を一口飲んだ。

「……昔、騎士団にいた頃も、似たような視線はありました」

 優秀かどうか。従順かどうか。王子の側に置いて安全かどうか。

「慣れている、というわけではありませんが」

 言葉を濁すと、カイルは小さく息を吐いた。

「私が前に出るべきか」

 それは、選択の提示だった。

 アッシュは、首を振った。

「いいえ。前に出るほどの話でもありません」

 少し考えて、続ける。

「隠すつもりも、ありませんが」

 カイルが、こちらを見る。

「……同意だ」

 短い答え。だが、重みがある。

 酒場を出ると、さっきよりも視線が減っていた。噂は、形を変えて流れる。強く否定すれば、燃え上がる。無視すれば、薄まる。

 ギルドを後にし、街路へ出る。昼の光が、石畳を白く照らしている。

 通りを歩いていると、若い冒険者が、こちらに気づいて立ち止まった。躊躇いが、その動作に滲んでいる。

「あの……」

 一語だけで、言葉が詰まる。

 アッシュは、足を止めた。逃げない。追い詰めない。

「何でしょう」

 若者は、視線を彷徨わせてから、意を決したように言った。

「……一緒に、仕事をされているんですか」

 質問は、曖昧だった。だが、核心を突いている。

 アッシュは、一拍置いた。
 無意識に、左手の薬指を親指でなぞる。手袋の下にある、硬質な輪の感触。
 それだけで、迷いは消えた。

「ええ」

 それだけで、十分だった。

 若者は、少しだけ安堵したように息を吐き、頭を下げた。

「……失礼しました」

 それ以上、何も聞かれなかった。

 歩き出してから、カイルが低く言う。

「簡潔だな」

「余計な説明は、誤解を生みます」

 そう答えながら、胸の内で、別の理由も認めていた。

 言い切れる関係になった、という自覚。

 拠点へ戻ると、午後の静けさが迎えた。窓から入る風が、室内の空気を入れ替える。

 装備を外し、椅子に腰を下ろす。張り詰めていたものが、ゆっくりと緩む。

「……疲れました」

 ぽつりと零すと、カイルが、わずかに笑った。

「慣れない種類の任務だったな」

「ええ。魔物より、厄介です」

 冗談めかした言葉に、彼は否定しなかった。

 カイルが近づいてきて、アッシュの前に跪いた。
 驚く間もなく、アッシュの左手を取り、手袋をゆっくりと外される。
 露わになった銀の指輪に、カイルが恭しく唇を寄せた。

 焔が、小さく灯る。意図的ではない。だが、必要な分だけ。
 指先から伝わる熱と口づけの感触に、胸の奥が、落ち着く。

「公にどう見られるか」

 カイルが顔を上げ、指輪を愛おしげに撫でながら言う。

「それは、今後も続く。完全に消えることはない」

「……分かっています」

 だからこそ、選ぶ。

「説明しない、という選択を」

 カイルは、頷いた。

「君と、同じだ」

 窓の外で、鐘が鳴る。時刻を告げる、穏やかな音。

 噂は、風のようなものだ。掴めば逃げ、放っておけば、形を変える。

 アッシュは、繋がれた手の温もりを感じながら、思う。

 誰にどう見られるかより、
 誰と、どう立つか。
 その証は、確かにここにある。

 それが揺らがない限り、視線は、やがて通り過ぎていく。

 夕方の光が、床に長い影を落とす。二つの影は、並んだまま、静かに伸びていた。
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