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第2章
第14話:噂と視線の中で
しおりを挟む昼前のギルドは、いつもより騒がしかった。依頼掲示板の前に人が集まり、紙を剥がす音と、興味本位の声が重なる。酒場区画からは、まだ早い時間だというのに、笑い声が漏れてきていた。
扉をくぐった瞬間、空気がわずかに変わるのをアッシュは感じた。視線の流れが、遅れてこちらへ寄ってくる。直接ではない。気づいて、逸らされる類のものだ。
アッシュは、無意識に背筋を伸ばした。剣の重みを確かめ、歩調を保つ。隣を歩くカイルは、外套の前を留めたまま、淡々と受付へ向かっている。
受付の女性が、書類を受け取りながら、ちらりとこちらを見た。
「……本日の調査、無事終了ですね」
形式通りの言葉。だが、視線は短く、測るようだった。
「問題ない」
カイルの答えは簡潔だった。
書類を返却され、手続きが終わる。その間、背後で小さなざわめきが起きては、すぐに収まる。名前は出ない。だが、噂の輪郭は、確かにある。
アッシュは、壁際に移動し、掲示板を眺めるふりをした。紙切れの内容は頭に入らない。意識の端で、断片的な言葉が拾われる。
「……元王子、だろ」
「……一緒にいるって……」
「護衛? それとも……」
途中で、声は落とされる。聞かれたくない、という配慮よりも、確信のなさが理由だと分かる。
アッシュは、深く息を吸った。
否定しに行く気はない。説明する義務もない。だが、沈黙が、いつも最善だとも限らない。
カイルが、受付を離れ、こちらへ戻ってきた。
「少し、寄り道をする」
短い言葉。
「……構いません」
ギルドの奥、酒場区画へ向かう。昼間は依頼の打ち合わせに使われることが多く、席はまばらだった。空いた卓に腰を下ろす。
給仕が水を置き、何も言わずに離れる。その態度が、逆にありがたい。
しばらく、沈黙が続いた。
カイルは、卓上の木目を見つめている。焔は灯っていないが、気配は安定している。
「……気にするな、と言えば嘘になるな」
彼が、先に口を開いた。
アッシュは、頷いた。
「ええ。ですが、予想していた範囲です」
それも、嘘ではない。
「彼らは、理解しようとしているわけではない。ただ、位置を測っている」
カイルの言葉は、どこか冷静だった。
「危険か、無害か。触れていいか、距離を置くべきか」
アッシュは、水を一口飲んだ。
「……昔、騎士団にいた頃も、似たような視線はありました」
優秀かどうか。従順かどうか。王子の側に置いて安全かどうか。
「慣れている、というわけではありませんが」
言葉を濁すと、カイルは小さく息を吐いた。
「私が前に出るべきか」
それは、選択の提示だった。
アッシュは、首を振った。
「いいえ。前に出るほどの話でもありません」
少し考えて、続ける。
「隠すつもりも、ありませんが」
カイルが、こちらを見る。
「……同意だ」
短い答え。だが、重みがある。
酒場を出ると、さっきよりも視線が減っていた。噂は、形を変えて流れる。強く否定すれば、燃え上がる。無視すれば、薄まる。
ギルドを後にし、街路へ出る。昼の光が、石畳を白く照らしている。
通りを歩いていると、若い冒険者が、こちらに気づいて立ち止まった。躊躇いが、その動作に滲んでいる。
「あの……」
一語だけで、言葉が詰まる。
アッシュは、足を止めた。逃げない。追い詰めない。
「何でしょう」
若者は、視線を彷徨わせてから、意を決したように言った。
「……一緒に、仕事をされているんですか」
質問は、曖昧だった。だが、核心を突いている。
アッシュは、一拍置いた。
無意識に、左手の薬指を親指でなぞる。手袋の下にある、硬質な輪の感触。
それだけで、迷いは消えた。
「ええ」
それだけで、十分だった。
若者は、少しだけ安堵したように息を吐き、頭を下げた。
「……失礼しました」
それ以上、何も聞かれなかった。
歩き出してから、カイルが低く言う。
「簡潔だな」
「余計な説明は、誤解を生みます」
そう答えながら、胸の内で、別の理由も認めていた。
言い切れる関係になった、という自覚。
拠点へ戻ると、午後の静けさが迎えた。窓から入る風が、室内の空気を入れ替える。
装備を外し、椅子に腰を下ろす。張り詰めていたものが、ゆっくりと緩む。
「……疲れました」
ぽつりと零すと、カイルが、わずかに笑った。
「慣れない種類の任務だったな」
「ええ。魔物より、厄介です」
冗談めかした言葉に、彼は否定しなかった。
カイルが近づいてきて、アッシュの前に跪いた。
驚く間もなく、アッシュの左手を取り、手袋をゆっくりと外される。
露わになった銀の指輪に、カイルが恭しく唇を寄せた。
焔が、小さく灯る。意図的ではない。だが、必要な分だけ。
指先から伝わる熱と口づけの感触に、胸の奥が、落ち着く。
「公にどう見られるか」
カイルが顔を上げ、指輪を愛おしげに撫でながら言う。
「それは、今後も続く。完全に消えることはない」
「……分かっています」
だからこそ、選ぶ。
「説明しない、という選択を」
カイルは、頷いた。
「君と、同じだ」
窓の外で、鐘が鳴る。時刻を告げる、穏やかな音。
噂は、風のようなものだ。掴めば逃げ、放っておけば、形を変える。
アッシュは、繋がれた手の温もりを感じながら、思う。
誰にどう見られるかより、
誰と、どう立つか。
その証は、確かにここにある。
それが揺らがない限り、視線は、やがて通り過ぎていく。
夕方の光が、床に長い影を落とす。二つの影は、並んだまま、静かに伸びていた。
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