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第2章
第15話:選ばなかった未来の向こう側
しおりを挟む夜の帳が降りるのは、いつも思っているより早い。窓辺に立つと、王都の灯りが一斉に浮かび上がり、昼の輪郭を柔らかく溶かしていく。遠くの鐘が、低く一度鳴った。
アッシュは、卓の上に広げた地図を畳み、椅子の背に掛けた外套を取った。任務は一区切りついた。だが、胸の奥には、まだ解けきらない結び目が残っている。
カイルは、窓際で腕を組み、外を見ていた。焔は灯っていない。だが、気配は静かで、澄んでいる。
「……少し、歩きませんか」
言い出したのは、アッシュだった。
理由を説明する必要はないと、どこかで分かっていた。
「いい」
短い返事。迷いはなかった。
夜風は、冷たすぎず、温すぎない。石畳を踏む音が、二人分、規則正しく重なる。人通りの少ない道を選び、川沿いへ向かった。
水面に映る灯りが、揺れている。手すりにもたれ、しばらく黙って眺めた。
沈黙は、重くない。だが、言葉を選ぶ時間は必要だった。
「……もしも、の話をしてもいいですか」
アッシュは、視線を水面に落としたまま言った。
「構わない」
彼の声は、落ち着いている。
「三年前、俺が去らなかったら」
言葉にした瞬間、胸が小さく痛んだ。
「あなたは、王子のままだったでしょう。……俺は、騎士団に残っていた」
剣を振るう日々。命令に従い、背中を守り、夜明けを迎える。そこに、確かな安定はあったはずだ。
「王宮の中で、焔は祝福として灯り続けていた。人前で触れることはなく、名も呼べず……それでも、役割としては、正しかった」
正しい、という言葉が、舌に重く残る。
カイルは、すぐには答えなかった。水面を見つめ、風の音を聞いている。
「……そうだろうな」
やがて、静かに言った。
「私は、王子としての教育を受け、王位継承の準備を進めていたはずだ」
淡々とした口調。感傷はない。
「君は、優秀な騎士として評価され、昇進もしていただろう。……だが」
言葉が、少しだけ途切れる。
「息は、浅かったと思う」
アッシュは、顔を上げた。
「私もだ」
彼は、こちらを見ないまま続ける。
「役割は果たせる。期待にも応えられる。だが、選んでいる感覚はなかった」
その言葉は、アッシュの胸の奥に、まっすぐ届いた。
選んでいない人生。流れに乗り、正しさに身を委ねる日々。
「……俺は」
声が、少し掠れた。
「あなたの隣にいる資格がない、と信じていました。だから、去ることが、正しいと」
三年前の夜。自分の言葉で、自分を縛った。
「だが、それは……あなたから、選ぶ権利を奪うことでもあった」
言い終えてから、ようやく自覚する。これは、謝罪ではない。整理だ。
カイルが、こちらを向いた。
「私は、奪われたとは思っていない」
きっぱりとした否定。
「君が去ったことで、私は選び直した。……時間はかかったが」
風が、二人の間を抜ける。
「王子を辞めた未来は、楽ではない。政治の影は残るし、失ったものも多い」
それでも、と彼は続ける。
「今の私は、選んでいる」
その一言が、何よりの答えだった。
アッシュは、手すりに触れ、冷たい金属の感触を確かめる。
「……俺もです」
短く、だが確かな言葉。
「冒険者として生きること。無属性を使うこと。……あなたの隣に立つこと」
どれも、簡単ではない。代償もある。だが、逃げていない。
カイルは、わずかに笑った。
「では、選ばなかった未来は」
「……置いていきます」
水面に映る灯りが、風で崩れ、また形を作る。
「否定はしない。ただ、戻らない」
そう言うと、胸の奥が、静かになった。
カイルは、焔を灯した。小さく、穏やかな火。夜に溶け、目立たない。
アッシュは、焔を見つめた。
象徴だった火は、生活の温度になった。派手ではない。だが、消えない。
アッシュは、焔を包むように、カイルの手に自分の手を重ねた。
熱が、直接肌に伝わってくる。
「……もし、また選択を迫られたら」
問いは、未来に向いている。
カイルは、焔を保ったまま、重ねられたアッシュの手を強く握り返して答えた。
「同じだ。君と話し、決める」
即答だった。
胸の奥で、無属性が静かに脈打つ。焔の安定が、確かに作用している。
繋いだ手のひらの汗さえも、今は愛おしい生身の実感だった。
夜風が、少し冷たくなった。
「戻りましょう」
アッシュが言うと、彼は頷いた。
帰り道、二人の影が、街灯の下で重なる。完全には一つにならない。だが、離れもしない。
選ばなかった未来は、背後に残る。だが、それを見送る視線は、もう迷っていない。
今を選ぶ。
明日も、選ぶ。
隣を歩く肩の温もりと、繋いだ手の重み。
その積み重ねが、道になる。
拠点の灯りが見えたとき、アッシュの胸の結び目は、いつの間にか解けていた。
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