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第2章
第13話:焔は消えず、燃えすぎもする
しおりを挟む朝の空気は、前夜の出来事を知らない顔で澄んでいた。窓を開けると、王都の屋根越しに淡い光が差し込み、埃の粒がゆっくりと浮かび上がる。アッシュの胸の奥に残る焔の余熱は、眠りの間に薄れはしたが、完全には消えていなかった。
目を閉じ、呼吸を整える。無属性の感覚を呼び起こすと、昨日よりも輪郭が曖昧だ。制御はできる。だが、深く潜れば、また引き戻される。昨夜の約束が、言葉ではなく、重さとして身体に残っていた。
階下から物音がする。食器の触れ合う音、湯が沸く気配。カイルは、すでに起きているらしい。最近は、どちらが先に起きるか分からない。決まりごとがないことが、かえって心を落ち着かせる。
階段を下りると、彼は簡素な卓の前に立っていた。焔は灯していない。だが、気配の奥に、いつでも呼び出せる静かな集中がある。
「おはよう」
一文だけの挨拶が、妙に新鮮だった。
「……おはようございます」
返す声は、少し低い。眠りが浅かったせいかもしれない。
朝食は、昨夜の残りと、焼いたパン。湯気が立つだけで、部屋が生き返る。向かい合って座ると、視線がぶつかりそうで、自然と皿に目を落とした。
「今日は、南門外の調査だ」
カイルが、仕事の話を切り出す。
「魔力反応が、断続的に出ている。規模は小さいが、発生間隔が不自然だ」
頷きながら、頭の中で地図を描く。人の往来が多い場所だ。無闇な魔法使用は避けたい。
「無属性は、必要最低限にします」
言い切ると、彼は一瞬だけこちらを見た。
「判断は任せる。だが、兆しがあれば、すぐ合図を」
「……分かりました」
約束は、言葉にした方がいい。昨夜、そう学んだ。
南門外は、朝市の準備で賑わっていた。荷車が行き交い、呼び声が重なる。魔力の揺らぎは、人の熱に紛れて掴みにくい。だが、違和感は確かにあった。
歩きながら、無属性を浅く走らせる。地表の空気、石の間、布の擦れ。触れすぎない。掬い取るだけだ。
その瞬間、胸の奥が、きゅっと縮んだ。
理由は分からない。ただ、感情が動いた。子どもが転び、泣き声が上がる。母親が駆け寄る。そのありふれた光景に、なぜかアッシュの胸が疼いた。
無属性が、反応する。
視界の端で、空気が歪んだ。ほんの一拍。だが、確かに。
「……合図」
言葉を絞り出すと、カイルが即座に焔を灯した。小さく、柔らかな火。人目を引かないよう、掌の内に収める。
焔の気配が、背骨に沿って降りてくる。揺れが、鎮まる。
「大丈夫だ。続けられるか」
「……はい。今なら」
二人は、自然と位置を入れ替えた。アッシュが半歩前。彼が半歩後ろ。背中越しに、焔の安定が伝わる。
原因は、露店の一角に置かれた古い護符だった。摩耗し、回路が破断している。人の感情に反応し、断続的に魔力を漏らしていたらしい。
アッシュは、無属性で周囲を隔離する。深く潜らない。線を引くように。
その刹那、胸が熱くなった。
不安ではない。恐怖でもない。名付けるなら、焦りに近い。失いたくない、という感情が、先に立つ。
無属性が、跳ねた。
「アッシュ」
一語。名を呼ぶだけで、焔が強まる。
触れられたわけではない。だが、声が、錨のように働いた。魔力の流れが、元の軌道に戻る。
隔離は成功し、護符は無力化された。人の流れは、何事もなかったかのように戻る。
息を整えながら、アッシュは小さく笑った。
「……呼び方、反則です」
「効果的だろう」
短い返答に、わずかな冗談が混じる。
路地を抜け、人気のない場所に移る。陽は高くなり、石壁が温もりを帯びていた。
「感情と、魔力が連動している」
アッシュは、観測結果を口にする。
「高ぶりが、引き金になる。……喜びも、恐れも」
カイルは、腕を組み、少し考えた。
「制御ではなく、同調だな。押さえつけると、反発する」
「……だから、焔が効く」
頷くと、彼は否定しなかった。
「私の焔は、熱だ。上下させるのではなく、一定に保つ」
理屈は分かる。だが、実践は簡単ではない。
「……触れてもいいですか」
言葉にする前、心臓が一度、強く打った。
カイルは、躊躇なく掌を差し出した。焔は、まだ灯っていない。
アッシュは、そっとその手に触れようとした。
だが、指先が触れた瞬間、カイルが強くアッシュの手を握り返した。
指と指を深く絡める、密着した繋ぎ方。
温度は、思ったより低い。だが、芯がある。
焔が、静かに生まれた。
視界が、柔らかくなる。無属性の輪郭が、ほどけるように整う。制御ではない。受け入れだ。
掌から伝わる熱が、直接心臓に流れ込んでくるようだった。
「……安定します」
「なら、良い」
簡潔な答え。その裏に、揺るぎがない。
触れたまま、数呼吸。
離れがたかったが、人目を気にして、手を解いた。だが、残る感覚は、確かだった。
拠点へ戻る道すがら、アッシュは気づく。
守られているのではない。支え合っているのだ、と。
夜、灯りを落とす前、胸の奥で無属性が静かに脈打つ。焔の余韻が、安定を保っている。
象徴だった焔は、今や機能になった。だが、それでも――いや、だからこそ。
名前を呼ばれるたび、胸が熱くなる理由は、まだ言葉にできない。
いや、本当はわかっている。
失うのが怖いのは、それだけ今が幸せだからだ。
分かっているのは一つだけだ。
この連動は、危うい。だが、同時に、確かな救いでもある。
焔は消えず、燃えすぎもする。
だから、二人で灯す。必要な分だけ、確かな距離で。
そう決めて、アッシュは目を閉じた。
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