「自由に生きていい」と言われたので冒険者になりましたが、なぜか旦那様が激怒して連れ戻しに来ました。

キノア9g

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第7章 俺たちは『呪われた生贄』じゃなくて、『里帰り』がしたい

第53話 地獄(天国)の晩餐会と、猛獣使いの証明

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 嵐は去った。
 だが、ヴァーデル子爵家の屋敷には、嵐の最中よりも重く、冷たい沈黙が立ち込めていた。

 場所は屋敷の応接間。
 ひび割れた壁や色あせた絨毯が目立つこの部屋で、父と兄、そして母が、一箇所を凝視して石のように固まっている。
 彼らの視線の先にいるのは、上座のソファに優雅に腰掛けた「氷の伯爵」オルドリンと、その隣に(物理的に密着して)座らされている俺、ルシアンだ。

「……えーと。父さん、母さん。改めて、その、久しぶり」

 俺が気まずさに耐えかねて口を開くと、対面に座る父がビクリと肩を震わせた。
 無理もない。
 父たちの目には、俺が「魔王の人質」として捕らえられているように映っているのだろう。実際、オルドリンの腕は俺の腰に回されたままだし、その指先は俺の服の裾を弄り続けている。

「ル、ルシアン……」

 母さんが、今にも泣き出しそうな声で俺を呼んだ。

「本当になんともないのね? 痛いところはない? あの……皮を剥がされたというのは……」
「ないよ。全部誤解だってば。ほら、見ての通り肌もツヤツヤだろ?」

 俺は袖をまくって腕を見せた。
 冒険者時代の日焼けもすっかり抜け、王都での美容(オルドリンによる強制スキンケア)のおかげで、以前よりも白く健康的になっている。

「確かに……以前より血色が良い……」
「やつれているどころか、少しふっくらしたか……?」

 父と兄が顔を見合わせる。
 そこにあるのは「安堵」よりも「困惑」だ。
 監禁され、虐げられているはずの息子が、なぜか実家にいた頃よりも健康的で、あまつさえ高級な服を着て潤っている。その事実が、彼らの脳内にある「悲劇のシナリオ」と合致せず、エラーを起こしているのだ。

 その時。
 それまで彫像のように美しく黙りこくっていたオルドリンが、スッと目を細めた。

「……義父上」

 絶対零度の声が響く。
 室温が三度は下がった気がした。父の顔から血の気が引く。

「は、はい……クライス伯爵……」
「貴方は仰いましたね。『ルシアンを返せ』と」

 オルドリンの声には、怒声のような荒々しさはない。
 だが、それが逆に恐ろしかった。まるで路傍の石に話しかけるような、徹底した無関心と冷徹さがそこにあった。

「はっきり申し上げておきます。それは不可能です」
「……っ!」
「ルシアンは私の心臓です。貴方は私に、自ら心臓を抉り出し、ここで死ねと仰るのですか?」

 淡々とした口調で、とんでもなく重いことを言った。
 比喩ではない。彼の目は本気だ。

「それに、彼もまた、私の腕の中以外では安眠できない体に作り変えられています。……だろう、ルシアン?」

 オルドリンが、不意に俺の方を向き、とろけるような甘い声を出した。
 さっきまでの氷点下の声色とのギャップで、俺の三半規管がおかしくなりそうだ。

「語弊がある言い方すんな! 枕が変わると寝つきが悪いだけだ!」
「同じことだ。君の枕は私の腕であり、君の布団は私の愛だ」
「意味わかんねーよ!」

 俺がツッコミを入れると、オルドリンは嬉しそうに喉を鳴らして笑い、俺の髪に口付けた。
 その一連の動作――家族を威圧した直後に、俺にだけ甘く接するその姿を見て、兄貴が「ひぃっ」と小さく悲鳴を上げた。
 彼らの誤解は解けつつある。
 だが、「虐待されている」という誤解が消えた代わりに、「とんでもなくヤバい奴に執着されている」という、より深刻な真実に気づいてしまったようだった。


 ◇◇◇

 やがて、夕食の時間になった。
 母さんが腕を振るってくれた料理が、年季の入ったテーブルに並ぶ。
 川魚のムニエル、庭で採れた野菜のスープ、そして硬く焼かれた黒パン。
 貴族の食卓としては質素極まりないが、俺にとっては懐かしい「お袋の味」だ。

「……粗末なもので申し訳ありません、伯爵様」

 母さんが恐縮しながら皿を置く。
 オルドリンは無表情のまま、目の前の料理を一瞥した。

「構いません。ルシアンを育てた食事として、日記にも記録させていただきます」
「日記……?」 

 気になることは言っていたが、旦那様なりに気を使っている……のか?
 俺たちは席についた。
 当然のように、オルドリンの椅子だけ俺の真横にぴったりとくっつけられている。

「いただきます」

 俺がナイフとフォークを手に取った、その時だった。

「待て」

 オルドリンの手が、俺の手首を掴んで止めた。

「え、なに?」
「その魚、小骨が多い。君が喉を傷つける可能性がある」

 オルドリンは真剣な顔で言うと、俺の皿を自分の方へ引き寄せた。
 そして、自らのナイフとフォークを構える。

「私が処理する。君は口を開けて待機していろ」
「はぁ? 自分でできるって! 子供じゃないんだから!」
「ダメだ。万が一、君の美しい喉が骨で傷ついたら、私はこの川の魚を絶滅させなければならなくなる。生態系保護のためにも、私に任せろ」

 言うが早いか、オルドリンの手が動いた。

 カチャカチャカチャ……ッ!

 目にも止まらぬ高速ナイフ捌き。外科手術のような精密さで、ムニエルから微細な小骨だけが次々と摘出されていく。
 魔法を使っているのか、それとも純粋な技術なのか。瞬く間に魚は「骨なしの切り身」へと解体された。

「……よし、完了だ。さあ、ルシアン」

 オルドリンは切り身をフォークに刺し、フーフーと息を吹きかけてから、俺の口元へ差し出した。

「あーん」

 凍りつく食卓。
 父のワイングラスを持つ手が止まり、兄貴のパンが手から滑り落ちた。
 厳格な父の目の前で。
 久しぶりに再会した家族の前で。
 大の男が、男に「あーん」を強要されている。

「……っ! ふざけんな! 親父たちが見てるだろ!」

 俺は顔を真っ赤にして拒否した。
 だが、オルドリンは微動だにしない。その瞳は「なぜ食べない?」という純粋な疑問で満たされている。

「彼らの視線など関係ない。重要なのは、君が適切な温度で、適切な食事をとることだけだ。さあ、口を開けて」
「自分で食うって言ってんだろ!」
「君の手を煩わせる必要はない。君はただ、咀嚼することだけに全力を注げ」
「過保護とかいうレベルじゃねーよ!」

 俺たちの攻防を、家族は戦慄の表情で見守っていた。
 彼らの目には、これが「仲睦まじい夫婦」には映っていないだろう。
 意思疎通の通じない怪物(伯爵)が、人間(ルシアン)を「愛玩動物」として管理・飼育している現場に見えているはずだ。

「……おいしい!」

 その重苦しい空気を破ったのは、能天気な声だった。
 いつの間にか食卓につき、俺の向かいに座っていた末弟のジュリアンだ。
 応接間では姿を見せなかったと思ったら、ちゃっかり食事時だけ現れたらしい。
 彼は空気など一切読まず、ムシャムシャと魚を頬張っている。

「ねえ、銀色のお兄ちゃん! 僕の骨も取って!」
「こらジュリアン! 失礼だぞ!」

 兄貴が慌てて止めようとしたが、オルドリンはチラリとジュリアンを見た。

「……いいだろう。ルシアンの幼少期を見せてもらった礼だ」

 オルドリンは指を弾いた。
 一瞬でジュリアンの皿の上の魚が解体され、骨だけが綺麗に弾き出される。

「すっげー! 魔法だ!」
「これで安全だろう。……さあルシアン、弟君も食べている。君も食べるんだ」

 結局、俺は根負けした。
 ここで拒否し続ければ、オルドリンは永遠にフォークを下げないだろう。
 俺は諦めて口を開き、差し出された魚をパクついた。

「……ん」
「どうだ?」
「……うまい。ほっとする味だ」
「そうか。君が美味いなら、それが世界で一番価値のある物質だ」

 オルドリンは満足げに微笑むと、俺の口元についたソースを親指で拭い、それを自分の口へと運んだ。

 ペロリ。

 その動作が、あまりにも自然で、そして背徳的だった。
 母さんが「あらまぁ……」と顔を赤らめて目を逸らす。

 ……地獄だ。
 針の筵(むしろ)だ。
 誤解は解けたかもしれないが、俺の社会的な尊厳が死んでいく。

 そんな俺の心中など知らず、オルドリンは「良き夫」としての務め(と本人が信じ込んでいる奇行)を続けた。
 俺のグラスが空けば水を注ぎ、俺がパンくずをこぼせば魔法で消滅させ、俺が何度か座り直していると自分の太ももを叩いて「ここへ座れ」と無言で要求する。

 父と兄は、もはや食事の味など感じていないようだった。
 彼らの顔には「諦め」の色が浮かんでいた。
 ルシアンは幸せなのかもしれないが、この愛の重さは我々には背負いきれない――。
 雄弁に物語る彼らの表情から、そんな心の声が聞こえてくるようだった。

 そして、事件は起きた。
 スープの時間だ。

 運ばれてきたのは、この領地の湿地帯の特産「沼香草(ぬまこうそう)」をたっぷりと散らしたスープだった。
 独特のえぐみと強い香りがあるが、たくさん採れるため、貧しい我が家では貴重な栄養源として毎日のように食卓に並んでいた代物だ。

 オルドリンはスプーンを手に取ると、ふと動きを止め、鼻をひくつかせた。

「……これは」

 部屋の空気が張り詰める。
 オルドリンが、まるで汚物を見るような冷ややかな視線をスープ皿へと向けた。

「沼香草が入っていますね」
「え……? あ、はい。久しぶりの里帰りですし、故郷の味をと……」

 母さんが不思議そうに答える。
 次の瞬間、ガチャンッ! と音を立ててオルドリンがスプーンを置いた。
 室温が一気に氷点下まで下がる。

「ルシアンを苦しめるおつもりですか? 彼はこの草の香りが大の苦手だ」
「は……?」

 その場にいた全員が凍りついた。
 誰より驚いたのは、俺だ。

「なっ、んで……!?」

 俺は思わず椅子をガタつかせて立ち上がりかけた。

 嫌いなのは事実だ。
 だが、俺はそれを口にしたことは一度もない。
 貧乏な家で「これが嫌い」なんて贅沢は言えなかったし、母さんが苦労して採ってきてくれるものを拒否するわけにはいかなかったからだ。

 当然、オルドリンに話したことはない。王都の屋敷ではあまり見ない下草だからだ。

「旦那様、どうしてそれを……俺、一回も言ったことないのに!」

 俺が顔を真っ赤にして叫ぶと、オルドリンは心外だと言わんばかりに眉を寄せた。

「言わなくともわかる。君はこの草の匂いを嗅ぐと、無意識に呼吸が浅くなり、瞳孔が僅かに収縮する。そして食べる際、舌に触れないよう喉の奥へ流し込んでいるだろう? 私が君の不快サインを見逃すとでも思ったか?」
「ひぃっ……!」

 兄貴が短い悲鳴を上げた。
 俺も背筋がゾッとした。
 観察眼が鋭いとかいうレベルではない。愛が重い。重すぎて怖い。

「気づいていなかったのは君の家族だけのようだ。……愛する息子が、気を遣って無理をして食べていたことにも気づかず、あまつさえ歓迎の料理として出すなど」

 オルドリンの怒りの矛先が、両親へ向く。
 彼の背後から、どす黒い冷気が立ち上り、スープの表面がピキピキと凍り始めた。

「ルシアンに我慢を強いる食材は、私がこの世から根絶すると誓っているのです。この沼地を焼き払い、二度とこの草が生えないように焦土に変えて――」

 ゴスッ!!!

 鈍い音が、食堂に響き渡った。
 父も、兄も、母も、何が起きたのか理解できずに目を剥いた。
 時間が止まったような静寂の中。
 オルドリンの頭が、カクンと下に傾いていた。
 俺が、チョップをかましたのだ。
 オルドリンの後頭部に、一発。

「……ル、シアン……?」

 オルドリンが呆然と俺を見た。
 俺は立ち上がり、仁王立ちで彼を見下ろした。

「いい加減にしろ! 俺の秘密を勝手にバラすな!」

 俺の声は震えていた。怒りと、そして何より恥ずかしさで。
 必死に隠していた「親への気遣い」を、こんな形で暴露されるなんて。

「し、しかし、君が不快な思いを……」
「俺が好きで食べてたんだよ! 母さんが一生懸命採ってきてくれたご飯だぞ。文句なんか言えるか! 俺の思い出まで否定すんな!」
「……っ!」
「母さんの料理にケチつけるなら、もう二度とアンタとは飯食わない。王都に帰っても別居だ」

 別居。
 その単語が出た瞬間、オルドリンの顔色が絶望的なまでに青ざめた。

「べ、別居……!? それだけは……! 私が悪かった! 全てにおいて私が浅はかだった!」
「……それで?」
「食べる! 感謝して食べる! この草こそ世界最高の香りだ!」

 オルドリンは慌ててスプーンを掴むと、猛烈な勢いでスープを口に運び始めた。
 さっきまでの傲慢な魔王の態度はどこへやら。
 そこには、飼い主に叱られて必死にご機嫌を取ろうとする、ただの大型犬(駄犬)がいた。

「……おいしいです、お義母様! 素晴らしい風味だ! おかわりを所望します!」
「え、ええ……はい……」

 母さんが戸惑いながらお玉を持ってくる。
 その光景を、父はずっと見ていた。
 ぽかんと開けていた口を閉じ、父はふぅ、と深く息を吐いた。

「……なるほどな」

 父がポツリと漏らした。
 その声には、憑き物が落ちたような響きがあった。

「父さん?」
「いや……心配は杞憂だった、と言ったところか」

 父は苦笑いしながら、ワインを一気に飲み干した。

「お前は猛獣使いだったわけだな」

 その言葉に、兄貴もハッとしたように俺を見た。
 世界を凍らせる魔王を、チョップ一発で黙らせ、従わせる弟。
 どちらが「強者」で、どちらが「支配者」なのか。
 その力関係が、誰の目にも明らかになった瞬間だった。

「……ははっ。なんだ、そうか。そうだったのか」

 兄貴が脱力したように笑い出した。

「てっきり、ルシアンが泣いて震えていると思っていたのに……。震えているのは伯爵の方じゃないか」
「うっさい兄貴! 俺だって苦労してんだよ!」
「ああ、わかるよ。あの重さを御するのは、お前にしか無理だろうな……」

 それは、心からの本音だったろう。
 ヴァーデル家の食卓に、ようやく本当の意味での「和解」の空気が満ちた。
 恐怖と緊張が解け、呆れと笑い、そして温かい同情が場を包み込む。

 ただ一人、オルドリンだけが、必死な形相でスープを飲み干しながら、俺の機嫌をチラチラと窺っていた。

「ルシアン、完食したぞ。撤回してくれるか?」
「はいはい、別居なんかしないから」
「よかった……では褒美を。膝枕を要求する」
「俺の家族を大切にしてくれるなら、検討する」
「わかった」

 父が、安堵のあまり少し涙ぐみながら、二杯目のワインを母さんに注がせていた。
 こうして、俺の決死の里帰りは、騒がしい「日常」として幕を開けたのだった。
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