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第7章 俺たちは『呪われた生贄』じゃなくて、『里帰り』がしたい
第52話 再会、即、成分補給
しおりを挟む世界が、凍りついていた。
比喩ではない。ヴァーデル子爵領の上空に、物理法則すら無視した巨大な積乱雲が渦を巻いている。
太陽は厚い雲に遮られ、真昼だというのに宵闇のような暗さが辺りを支配していた。
ヴァーデル子爵家の長男、ファビアンは戦慄した。先ほどまで穏やかだった風は、今や肌を切り裂くような冷気を帯びた暴風へと変わり、領民たちが築いたバリケードをガタガタと揺らしている。
「くっ……これほどとは……!」
ファビアンは剣を杖にして強風に耐えていた。
その顔は恐怖で青ざめているが、瞳だけは決死の光を宿している。
父もまた、引退後の体に鞭打ち、震える手で杖を構えて空を睨みつけていた。
「来るぞ……! 『氷の伯爵』だ!」
ファビアンの叫びと共に、雲が裂けた。
そこから現れたのは、一人の男。
重力を無視して空中に佇むその姿は、銀色の髪を嵐にたなびかせ、アイスブルーの瞳で地上を見下ろしていた。
美しい。神々しいほどに整った容姿だ。
だが、その美しさは、見る者に「死」を予感させる冷酷さと表裏一体だった。
オルドリン・クライス。
ルシアンの夫にして、世界最強の氷魔法使い。
「……愚かな」
上空から降ってきた声は、暴風の中でもはっきりと耳に届いた。
低い、絶対零度の声だった。
「私の警告を無視し、あまつさえルシアンを隠したか。……よかろう」
オルドリンがゆっくりと右手を掲げた。
その掌に、太陽を凌駕するほどの膨大な魔力が収束していく。
周囲の空間がピキピキと悲鳴を上げ、空気中の水分が一瞬でダイヤモンドダストへと変わった。
「ヴァーデル家。君たちがルシアンを返さないと言うのなら、この屋敷ごと永遠の氷河に閉ざしてやろう。氷像となれば、君たちの罪も少しは浄化されるかもしれん」
「ふ、ふざけるな悪魔め!!」
ファビアンが吼えた。
「弟は渡さん! お前のような化け物の慰み者にされてたまるか! ルシアンは我々が守る!!」
「……『守る』? お前たちが?」
オルドリンの瞳が、侮蔑ですらなく、ただの無機質な「事実確認」としてファビアンを射抜いた。
「ルシアンを守れるのは、この世で私だけだ。……消えろ」
ヒュンッ。
彼が指を弾いた瞬間、世界を終わらせる規模の魔法――『絶対氷結圏(コキュートス)』が発動しようとした、その時だった。
◇◇◇
「待てぇぇぇぇッ!!」
凍てつく空気を切り裂いたのは、俺――ルシアンの絶叫だった。
上空のオルドリンの手が、ピタリと止まるのが見える。
俺がいるのは、屋敷の屋根の上。
煙突だ。
煤だらけの煙突から、俺はゴホゴホと咳き込みながら必死に這い出した。
「……ゲホッ! うぇ、口の中が煤だらけだ……!」
「兄ちゃん、早く! お尻つっかえてる!」
「押すなジュリアン! 落ちるだろ!」
屋根裏の天窓が錆びついて開かなかったため、ジュリアンの案内で掃除用の点検口から煙突内をよじ登る羽目になったのだ。
全身真っ黒。顔なんて目と口以外は識別不能なほど汚れているだろう。
それでも俺は、必死に屋根の上に立ち上がり、空に向かって両手を振った。
「ここだ! ここにいるぞオルドリン!! 撃つな! 実家が消える!!」
嵐が、止んだ。
いや、正確には、肌を刺すような殺気が霧散したのだ。オルドリンが魔法を止めたのがわかった。
空中に漂っていた冷気が消え、彼の視線が一直線に俺へと固定される。
「……ル、シアン……?」
魔王の顔から、無機質な仮面が剥がれ落ちたように見えた。
彼は瞬きをした。信じられないものを見るように。
「……無事なのか? 拘束は? 拷問の痕は?」
「ないよ! ピンピンしてるよ! 見ろこの通り!」
俺はその場でくるりと回って見せた。
直後、オルドリンの姿が掻き消えた。
瞬間移動(テレポート)。
次の瞬間には、彼は俺の目の前――屋根の上に立っていた。
パキリ、と足元の瓦が凍りつき、俺たちの周囲だけが平らな氷の床へと作り変えられる。
「ルシアン……ッ!」
彼は俺に手を伸ばしかけ、そして、俺の足元にしがみついている「小さな影」に気づいて、凍りついた。
俺の腰にしがみつき、怯えたように顔を覗かせているのは、末弟のジュリアンだ。
煤だらけで、俺と瓜二つの顔をした七歳の少年。
オルドリンの視線が、俺とジュリアンを高速で行き来する。
ルシアン。ジュリアン。ルシアン。ジュリアン。
兄弟だから顔の造形は瓜二つだし、おそらく魔力の波長とやらも似通っているのだろう。
そして、二人とも等しく煤まみれ。
……プツン。
俺には聞こえた気がした。
世界最強の魔導師の脳内で、何かの回路が焼き切れる音が。
同時に、今まで彼を包んでいたBGMのような荘厳な威圧感が、プツリと途絶えた。
「……ルシアン」
オルドリンが、震える声で俺の名を呼んだ。
その表情は、先ほどの「魔王」の顔ではない。
未知の事象に直面し、世界の真理を問う学者のように、真剣そのものだった。
「怒らないから、正直に言ってくれ」
「な、なんだよ」
「……いつ、産んだ?」
時が止まった。
俺も、屋根の下で様子を窺っていた兄貴たちも、全員が思考停止した。風の音さえ止まった気がした。
「……は?」
「…………」
オルドリンは数秒間、虚空を見つめてフリーズした。
だが次の瞬間、彼の瞳に狂気的な演算の光が走るのが見えた。
「計算が合わない。君と離れて、まだ七十二時間しか経過していないはずだ。だというのに、なぜ既にこれほどの大きさにまで成長した子供がここにいる?」
オルドリンは脂汗を流しながら、ブツブツと高速で独り言を始めた。
「いや、私の時間感覚が狂っていたのか? 実は私が執務室で仕事をしている間に、数年の時が流れていた? それとも、君の特異体質か? 私の魔力が濃すぎて、受胎から出産、成長までの過程が魔法的に短縮されたのか? あり得る……君と私の愛の結晶ならば、理など通用しないはず……」
彼は本気だ。
冗談でもなんでもなく、大真面目に「俺がこの三日の間に子供を産み、それが急速成長した」可能性を検討している。
「だとしたら……なんということだ……!」
オルドリンはその場に膝をつき、悲痛な顔で俺を見上げた。
「すまない……! 出産の痛みに、私は立ち会うことすらできなかったのか……! 君一人に、そんな大仕事をさせてしまうなんて……私は夫失格だ……!」
「んなわけねーだろ!!!」
俺は全身全霊のツッコミを叩きつけた。
屋根が抜けるかと思うほどの声量だった。
「計算しなおせ! ていうか俺は男だ! 産めるわけないだろ!」
「しかし、ルシアン。その子は君に瓜二つだ。君の複製か、あるいは君から分裂した妖精か、私との子以外に考えられない」
「弟だよ!! 俺の実の弟、ジュリアンだ!」
俺はジュリアンの背中をバンと叩いた。
「ほら、お前もなんか言え! お前の好きな『銀色のキラキラ』だぞ!」
俺が言うと、ジュリアンはおずおずと顔を上げた。
そして、陽の光を浴びて輝くオルドリンの銀髪と、美しい装飾品を見て、パァァっと目を輝かせた。
「……あ! 兄ちゃんのカードよりキラキラだ!」
「む?」
「銀色のお兄ちゃん、すごい綺麗!」
ジュリアンは警戒心ゼロでオルドリンに歩み寄ると、その長いマントの裾をギュッと掴んだ。
「ねえ、お兄ちゃんもお菓子くれる人? すごく甘い匂いがする!」
その無邪気すぎる要求に、オルドリンは数秒間、瞬きを繰り返した。
目の前にいるのは、俺に瓜二つの顔で、自分を「綺麗」と褒め称え、餌付けを要求してくる生き物。
やがて、彼の超高性能な頭脳が、ようやく「現実」を処理し終えたようだった。
「……弟……義弟、か」
オルドリンは、ふぅー、と長く深い息を吐き出した。
その顔には、安堵とともに、ほんの少しの――いや、結構な量の「失望」が混じっているように見えた。
「なんだ……。てっきり、君との愛が形になって具現化したのかと期待してしまった」
「期待すんな。ていうか、俺に隠し子がいたって疑いかけられたのかと思ったぞ」
「まさか。君が私以外の誰かと子を成すなど、天地がひっくり返ってもあり得ない。もしそうなら、今頃この大陸は灰になっている」
サラリと恐ろしいことを言いながら、オルドリンは立ち上がった。
そして、俺の顔をじっと見つめる。
「……無事、なんだな?」
「ああ。言っただろ、誤解だって」
「誰にも、傷つけられていないな? その煤汚れの下に、青あざ一つ隠していないな?」
「ないよ。服脱いで見せるか?」
「それは寝室で私だけに見せてくれ」
オルドリンは一歩、俺に近づいた。
その瞳に、再び熱が灯る。
さっきまでの殺気や混乱とは違う。もっと粘着質で、重たくて、甘い熱だ。
「……ルシアン」
「ん?」
「限界だ」
言うが早いか、彼は俺に倒れ込むように抱きついた。
「うわっと!」
俺はよろめきながらも、彼の体を支えた。
ずっしりと重い。体重の重さだけじゃない。彼がこの三日間、俺がいなくてどれほど消耗していたか、その「枯渇」の重さが伝わってくるようだ。
「……息だ……。ようやく、呼吸ができる……」
オルドリンは俺の首筋に顔を埋め、スーハー、スーハーと深呼吸を始めた。
まるで砂漠で水を求める遭難者のように、俺の匂いを肺の奥底まで取り込んでいる。
煤臭いはずなのに、彼にとっては最高のアロマらしい。
「ちょ、オルドリン! 苦しいって!」
「黙ってくれ。今、急速補給中だ。ルシアン成分が血管を巡っていく……ああ、心臓が再び鼓動を始めた……」
「アンタさっきまで元気いっぱいに空飛んでただろ!」
「あれは死後硬直のようなものだ。魂は死んでいた」
オルドリンは俺を抱きしめる腕に力を込めた。
痛いほどだ。
でも、その震えが「失うことへの恐怖」から来ていることが伝わってきて、俺は抵抗するのをやめた。
俺はため息をつき、そっと彼の背中に手を回してポンポンと叩いた。
「……悪かったよ。心配かけて」
「……二度とするな。次は鎖で繋いででも離さない」
「それは却下だけど……まぁ、ただいま」
「……ああ。おかえり、私のルシアン」
屋根の上、煤だらけの再会。
感動的……と言えなくもないシーンだったが、それをぶち壊す怒号が下から響いた。
「き、貴様ぁぁぁ!! ルシアンから離れろ悪魔めぇぇ!!」
庭にいたファビアン兄貴だ。
状況が飲み込めない兄貴には、弟が悪魔に捕食(ハグ)されているように見えたのかもしれない。反射的な悲鳴にも聞こえた。
「皆の者、掛かれ! ルシアンを奪い返すんだ!」
「おおおお!」
兄貴の号令で、農具や剣を持った領民たちが一斉に屋敷に殺到しようとする。
マズい。誤解は解けたが、向こうの興奮状態が収まっていない。
「待って兄貴! 攻撃しないでくれ!」
俺が止めようとしたが、それより速く、オルドリンが動いた。
彼は俺の首筋に顔を埋めたまま、面倒くさそうに片手だけをヒラリと振った。
俺とジュリアンを背に庇うように、ガキンッ! と見えない壁が出現し、突撃してきた兄貴たちを弾き飛ばした。
悲鳴を上げて転がる実家の人々。
しかし、オルドリンは彼らに視線すら向けなかった。
まるで今の彼には、俺しか見えていないようだった。
「……うるさい」
オルドリンは不機嫌そうに呟いた。
「せっかくの補給時間だぞ。雑音を入れるな」
「いや、俺の実家! 雑音扱いひどくない!?」
「関係ない。今の私にとって、君以外はすべて路端の石だ」
彼は指先一つで、屋敷全体を包み込むほどの強力な防音・物理結界を展開した。
外で兄貴たちが何か喚いているが、完全にシャットアウトされる。
静寂が戻った屋根の上で、オルドリンは満足げに再び俺の首筋に鼻を押し当てた。
「さて、続きだ。まだほんの僅かしか満たされていない」
「どんだけ吸う気だよ!」
「私が満足するまでだ。……覚悟しろ」
その光景を、足元でジュリアンがポカンと見上げていた。
そして、ポケットから干し肉を取り出し、モグモグと齧りながら呟く。
「……ふーん。お兄ちゃん、ルシアン兄ちゃんのこと大好きなんだね」
その純粋すぎる言葉だけが、この場の真実を的確に言い当てていた。
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