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第1話:その献身は「愛」ではなく「機能」だった
しおりを挟む視界が白く明滅していた。
吐き気をこらえながら杖を握る指先は、氷のように冷え切っている。魔力枯渇の初期症状だ。
血管の中を血液の代わりに泥が流れているような不快な倦怠感が、エリアスの全身を支配していた。
「――よっしゃあ! 見たかよ、今の俺の一撃!」
鼓膜を揺らすような大音声が、荒野に響き渡る。
目の前で巨大なオーク・ジェネラルが光の粒子となって崩れ去っていく。その粉塵の中心で、黄金の髪をなびかせた青年――勇者ガウルが、勝利の剣を高く掲げていた。
彼の輝く鎧には、傷ひとつない。返り血の一滴すら付着していなかった。
なぜなら、エリアスが展開し続けた三重の『物理障壁』と『自動浄化(オート・クリーン)』が、彼を完璧に守っていたからだ。
「さすがガウル様! あんな強敵を一撃なんて!」
「いやあ、リリアの『聖なる祈り』のおかげだよ。あのタイミング、最高だったぜ」
ガウルは駆け寄ってきたパーティーの聖女、リリアの肩を抱き寄せて豪快に笑った。
リリアは頬を染めて、ガウルの逞しい腕に身を預けている。絵に描いたような英雄とお姫様の構図だ。
エリアスは、その光景を数メートル後ろからぼんやりと見つめていた。
喉が張り付いて声が出ない。
戦闘中、ガウルが無茶な突撃をするたびに、エリアスは自分の生命力を削って魔力に変換し、障壁の強度を維持し続けた。リリアの祈りは士気を高める精神魔法だが、実際に敵の棍棒を受け止めていたのはエリアスの障壁だ。
だが、ガウルの視界にエリアスは映っていない。
当然だ。空気があることに感謝する人間がいないように、エリアスの魔法もまた、あって当たり前の物と化していた。
「おい、エリアス!」
不意に名前を呼ばれ、エリアスはびくりと肩を震わせた。
ガウルが振り返り、眉を顰めている。心配しているのではない。不満がある時の顔だ。
「いつまで突っ立ってんだよ。さっさと街へ先回りして宿取っとけよ。腹減って死にそうだ」
「……はい。すぐに」
「あと、剣の切れ味がちょっと鈍った気がする。宿に着いたら研磨(シャープネス)かけ直しといてくれ。明日の移動までに頼むな」
「……わかり、ました」
ガウルはエリアスの顔色の悪さになど気づきもしない。
彼は満足げに踵を返すと、仲間たちと談笑しながら歩き出した。
エリアスは杖に縋りつくようにして、重い一歩を踏み出した。地面が揺れている気がしたが、倒れるわけにはいかない。
今ここで自分が倒れれば、誰が宿を手配し、誰が食事を作り、誰が彼らの快適な寝床を用意するのか。
エリアスは唇を噛み締め、痛覚で意識を繋ぎ止めた。
◇◇◇
その夜の宴は、近隣の村の酒場を貸し切って行われた。
魔物の脅威が去ったことで村人たちは歓喜し、勇者一行に惜しみない酒と料理を振る舞っていた。
喧騒と熱気。ジョッキがぶつかり合う音。
その輪から少し離れたカウンターの隅で、エリアスは一人、黙々と作業を続けていた。
テーブルには、ガウルが脱ぎ捨てたガントレットや、仲間たちの装備品が山積みになっている。
エリアスは指先に微弱な魔力を集め、歪んだ金具を修復し、付着した魔物の呪詛を丁寧に除去していく。
本来なら、専門の鍛冶師や解呪師に依頼すべき仕事だ。だが、ガウルは「お前の魔法なら一瞬だろ」と言って、旅の資金を浮かせたがる。
浮いた金は、彼らの豪遊費に消えるのだ。
「――でさあ! 俺がこう、グッて踏み込んだら、地面が割れちまってよ!」
ガウルの武勇伝が聞こえてくる。村娘たちが目を輝かせ、リリアが「もう、ガウル様ったら」と甲高い声で笑う。
エリアスは手元のガントレットに視線を落とした。
この歪み。ガウルが無茶な体勢で剣を振るった証拠だ。あの時、エリアスがとっさに『重力軽減』をかけなければ、彼の手首は砕けていただろう。
だが、その事実をガウルは知らない。
エリアスが黙ってサポートすることこそが、彼の「最強」を支えていることを、彼は知らない。
いいや。
知ろうともしないのだ。
「おい、エリアス」
背後から、酒臭い息がかかった。
振り返ると、顔を赤くしたガウルが立っていた。機嫌は良さそうだが、その目は据わっている。
エリアスは作業の手を止め、精一杯の笑みを浮かべた。
「お疲れ様、ガウル。飲み過ぎじゃないか?」
「あ? こんくらいで酔うかよ。それよりお前、俺のジョッキが空だぞ」
「……あそこにある樽から、自分で注げるだろう?」
「ぬるいんだよ」
ガウルは不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「村の酒は保管状態が悪い。お前の氷魔法でキンキンに冷やせよ。それくらい気が利くだろ?」
エリアスのこめかみが、ずきりと痛んだ。
魔力枯渇による頭痛が限界に達している。指先を動かすだけで、神経をやすりで削られるような痛みが走るのだ。
それでも、エリアスは小さく息を吐き、右手をかざした。
「……『冷却(フリーズ)』」
ジョッキの表面に霜が降りる。
ガウルは満足そうに口角を上げ、「おう、やればできんじゃん」と乱暴にエリアスの頭を撫でた。
それは恋人に対する愛撫ではなく、芸をした犬を褒める手つきだった。
「……ガウル。僕は少し部屋に戻るよ。頭痛がひどいんだ」
「はあ? もうかよ。付き合い悪いな」
「今日は魔力を使いすぎた。明日のためにも休ませてほしい」
「ちぇっ。まあいいや、俺も後で行くから鍵かけんなよ」
ガウルは冷えた酒を煽りながら、再び仲間の輪へと戻っていった。
その背中を見送りながら、エリアスは胸の奥で何かが冷たく沈殿していくのを感じた。
かつて、この背中に憧れていた。
故郷の村を飛び出し、無謀な夢を語る彼を支えたかった。彼が傷つかないように、彼が恥をかかないように、全ての障害を先回りして排除してきた。
恋人として。パートナーとして。
けれど、今の自分は彼にとって何なのだろう。
便利な道具? 歩く魔導具?
少なくとも、対等な人間ではないことは確かだった。
◇◇◇
宿の部屋に戻っても、安息はなかった。
ベッドに倒れ込むように横たわったが、泥のような眠りは一時間ほどで中断された。
ガチャリとドアが開き、ドタドタと足音が近づいてくる。
ガウルだ。
彼は泥酔したまま、靴も脱がずにベッドにダイブしてきた。
重い。酒臭い。
「……んぐ、エリアスぅ……」
ガウルが甘ったるい声を出して、エリアスの体に腕を回してくる。
普段なら、この重みさえ愛おしいと思えたかもしれない。だが今は、枯渇した身体にのしかかる肉の塊でしかなかった。
「ガウル、重い……どいてくれ」
「んだよ、冷たいなぁ……させろよ」
「無理だ。本当に具合が悪いんだ」
エリアスは必死に抵抗した。身体的な接触は、微量だが魔力を譲渡するパス(経路)を開くことになる。今のエリアスからこれ以上魔力を吸い上げれば、意識を失いかねない。
しかし、ガウルは聞く耳を持たなかった。
彼はエリアスの抵抗を、いつもの照れ隠しだと解釈しているようだった。
「お前さぁ、最近たるんでないか?」
耳元で、ガウルが不満げに呟いた。
「リリアを見習えよ。あいつはずっとニコニコして、俺を立ててくれるぞ。お前はずっとしかめっ面で、装備の手入れがどうとか、金がどうとか、小言ばっかりだ」
エリアスは目を見開いた。
誰のために。
誰のために、小言を言い、金を管理し、夜なべして装備を直していると思っているのか。
「……僕は、君のためにやっている」
「だからさぁ!」
ガウルが苛立ったように声を張り上げた。
「それがお前の仕事だろ? お前はいいよなぁ、後ろで杖振ってるだけで楽できてさ。俺みたいに命張ってねえんだから」
時が、止まった気がした。
部屋の空気が凍りついたように静まり返る。
ガウルは自分が何を言ったのか、理解していないようだった。眠そうに欠伸をしている。
「……楽、だと?」
エリアスの唇から、乾いた声が漏れた。
「ああ、そうだろ。後ろで安全に見てるだけじゃねえか。コンディション管理くらい完璧にやれよ。それが恋人(おまえ)の役目だろ?」
「…………」
「あー、眠い。明日早いんだろ? ちゃんと起こせよ……」
ずしり、と。
言い捨てたガウルは完全に脱力し、全体重をエリアスに預けてきた。
その容赦のない暴力的な重みが、エリアスの肺を圧迫する。
耳元で、高いびきが聞こえ始めた。
エリアスは天井を見つめていた。
ボロボロの木の天井。染みだらけの壁。
プツン、と。
頭の中で、張り詰めていた糸が切れる音がした。
怒りではなかった。悲しみですらなかった。
それは、ただひたすらに、凪いだ「虚無」だった。
ああ、そうか。
自分は今まで、穴の空いたバケツに水を注ぎ続けていたんだ。
どれだけ注いでも満たされることはない。彼は、水が入っていることすら認識していないのだから。
エリアスは、自分にのしかかるガウルの腕を押しのけた。
重い腕がベッドに落ちる。ガウルは呻き声を上げたが、起きる気配はない。
エリアスはベッドから降りると、ふらつく足で机に向かった。
指にはめていた、銀の指輪を外す。
冒険者になった日、ガウルとお揃いで買った安物だ。
かつては、これが世界の全てだった。これさえあれば、どんな苦難も乗り越えられると信じていた。
だが今、掌にあるそれは、ただの古びた金属の輪にしか見えなかった。
指輪の隣に、パーティーの紋章が入った腕章を置く。
ペンを取り、羊皮紙の切れ端に、たった一言だけ書き残した。
『辞めます』
理由は書かなかった。
不満も、呪詛も、感謝も書かなかった。
言葉を尽くして説明する価値すら、もう彼らには感じられなかったからだ。
エリアスは荷物をまとめた。
といっても、自分の杖と、数冊の魔導書、そして身の回りの着替えだけだ。
彼が管理していたパーティーの共有アイテムボックスには手も付けなかった。
中に入っている最高級のポーションも、貴重な素材も、全て置いていく。
これら全て、エリアスが素材を集め、調合し、管理していたものだが、くれてやろうと思った。
どうせ、明日にはゴミと化すのだから。
最後に一度だけ、エリアスはベッドで眠るガウルを振り返った。
幸せそうに寝息を立てる、かつての恋人。
その顔を見ても、もう胸は痛まなかった。
「……さようなら、勇者様」
エリアスは静かにドアを開け、夜明け前の冷たい空気の中へと足を踏み出した。
背中の重荷が消え、不思議なほど足取りは軽かった。
ガウルが目を覚ますのは、数時間後。
朝の光と共に、彼にとっての「当たり前」がこの世界から消滅したことを知るのは、もう少し先の話だ。
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