【8話完結】勇者の「便利な恋人」を辞めます。~世界を救うより、自分の幸せを守ることにしました~

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第2話:名もなき魔法が消えた朝

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 翌朝、ガウルは最悪の目覚めを迎えた。
 頭蓋骨を内側からガンガンと殴られるような激しい二日酔い。喉が焼けつくように渇いている。
 まぶたを開けるのも億劫で、ガウルは無意識に右手を伸ばした。
 いつもなら、そこには適温に冷やされた水が入ったコップが置かれているはずだった。エリアスが毎朝、ガウルが目覚める数秒前に用意していたからだ。

「……あ?」

 指先が空を切る。
 ガウルは不機嫌に眉を寄せ、のろのろと上半身を起こした。
 サイドテーブルには、昨夜の飲み残しのワインが入ったボトルと、空のコップがあるだけだ。水差しの中身は空っぽだった。

「おい、エリアス。水」

 掠れた声で呼ぶ。返事はない。
 ガウルは舌打ちをして、部屋を見回した。
 狭い宿の一室には、淀んだ空気が充満していた。酒と、昨日の戦闘でかいた汗と、そしてどこか生臭い魔物の血の臭い。
 いつもなら朝には爽やかな風が吹き抜け、ほのかに柑橘系の香りが漂っているはずなのに、今日は窓すら開いていない。

「何やってんだよ、あいつ……」

 ガウルは苛立ちながらベッドを降りた。
 ブーツのまま床を踏むと、ジャリ、と嫌な音がした。砂埃だ。
 おかしい。エリアスの『自動清掃(オート・クリーン)』はどうした。
 疑問よりも怒りが先に立った。昨夜、少しキツく言ったから拗ねているのだろうか。ガウルにとって、エリアスの機嫌取りなど日常茶飯事の面倒事の一つに過ぎなかった。どうせ数時間もすれば、「ごめんね」と泣きそうな顔で戻ってくるに決まっている。

 ガウルは自身の体を見下ろした。
 昨日から着たままのインナーシャツは汗を吸ってごわごわと硬く、鼻を近づけると酸っぱい臭いがした。

「うわ、なんだこれ。汚ねえな」

 ガウルはシャツを脱ぎ捨てようとしたが、肌に張り付いて思うように脱げない。不快だ。
 いつもなら、眠っている間にエリアスが魔法で洗浄し、乾燥させ、さらに『防汚』と『軽量化』の付与をかけ直していたのだ。
 ガウルはその工程を知らない。
 彼はただ、「自分の装備は常に清潔で快適である」という結果だけを享受していた。だから、この不快な重みが、本来の自分の装備の姿だということが理解できなかった。

「ふざけんなよ……これじゃ着替えられねえだろ」

 仕方なく、ガウルは部屋の隅にある『共有アイテムボックス』に手を伸ばした。
 留め具には、魔法が使えない者でも扱える『魔導ダイヤル』が嵌め込まれている。
 合わせるべき数字は四つ。

『ガウル、この数字だけは忘れないでね。僕たちの始まりの日だ』

 いつかエリアスは、愛おしげにその数字を設定していた。
 ガウルは舌打ちし、記憶を探る。
 勇者に認定された日か? ……違う、開かない。
 なら、俺の誕生日か? ……これも違う。

 まさか、あの日か?
 安物の指輪を揃いで買って、愛を誓い合った日。
 いかにも、あいつが大事にしそうな記念日だ。

 だが、ダイヤルに指をかけたまま、ガウルは動きを止めた。

 ……いつだ?
 春だったか、冬だったか。
 エリアスにとっての「一番大切な日」は、ガウルにとって、記憶の彼方に埋もれた些末な過去でしかなかった。

「チッ……くだらねえ」

 ガウルは苛立ち紛れに鞄を蹴りつけた。
 たかが数字一つ。だがその数字こそが、二人の間に横たわる決定的な断絶だった。
 中には清潔な服が入っているのに、取り出すことができない。
 ガウルはエリアスへの怒りを募らせた。
 嫌がらせだ。こんな覚えにくい数字に設定したあいつが悪い。

「あー、クソ。頭いてえ。リリアに回復魔法(ヒール)かけてもらうか」

 ガウルは舌打ちし、床に脱ぎ捨ててあった上着を乱暴に拾い上げた。袖を通すと、冷たく湿った感触が肌に張り付く。

「最悪だ……」

 ガウルはドスドスと足音を荒らげて部屋を出た。

             
 ◇◇◇

 宿の一階にある食堂に降りると、そこには既に仲間たちが集まっていた。
 だが、その空気はお世辞にも明るいとは言えなかった。

「もう! 最悪なんだけど!」

 聖女リリアが、テーブルをバンと叩いていた。
 彼女の輝くようなブロンドはボサボサで、艶がない。純白の聖衣の裾には、昨日の泥ハネが点々と残っていた。

「私の髪、なんでこんなに絡まるの!? クシが通らないんだけど! エリアスさんは!? 私の『美容魔法(ビューティー・マジック)』まだなの!?」
「うるせえな、朝からキャンキャンと」

 ガウルが頭を掻きながら席に着くと、盗賊のカイがげんなりした顔で顔を上げた。

「お、大将。起きたか。……なあ、エリアス知らねえ? 俺の短剣、刃こぼれしたまんまなんだけど。これじゃ使い物にならねえよ」
「知るか。俺だって探してんだよ」

 ガウルは適当な椅子を引き、テーブルの上の水差しを掴んだ。
 コップに注ぎ、一気に煽る。
 ブーッ!!
 ガウルは盛大に水を吹き出した。

「な、なんだこれ! 泥水か!?」
「村の水だろ、それ」

 カイが呆れたように言った。
 
「この辺の水は不味いって聞いたぜ。ま、俺らは平気だったけどな」
「へい、この辺の井戸水は鉄が多いんでね。魔法使いの兄ちゃんが毎朝『濾過』して『味質調整』してたんだよ」

 宿の親父が、どん、とスープ皿を置きながら説明を加えた。
 ガウルは口元の水を拭った。鉄臭い後味が残り、吐き気が増す。
 こんな泥水を、自分たちは毎日飲んでいたのか?
 いや、違う。エリアスが変えていたのだ。
 魔法で。
 当然のように。

「……あいつ、どこ行きやがった」

 ガウルの声にドスが効き始めた時、親父が口を開いた。

「へい、朝飯だ。昨日の残りの野菜スープだが、サービスだぞ」

 皿の中身は、茶色く濁った液体に、くたくたに煮込まれた野菜が浮いているだけの代物だった。
 一口啜ったリリアが「まっず!」と叫んでスプーンを投げた。

「何これ! 味が薄いし、野菜も筋っぽいし! 昨日の夜はあんなに美味しかったのに!」
「昨日の夜は、魔法使いの兄ちゃんがスパイス足して煮込み直してたからな」

 親父は悪びれもせず言った。

「あの兄ちゃんがいなけりゃ、こんなもんだよ。辺境の宿飯なんてな」

 ガウルはスプーンを握りしめた。
 不快だ。
 何もかもが不快だ。
 服は臭い。水は不味い。飯は食えたもんじゃない。髪も肌もベタつく。
 たった一晩。エリアスが姿を消した、たったそれだけのことで、世界が色あせて腐敗したように感じられた。

「……探すぞ」

 ガウルは立ち上がった。

「拗ねてどっかで隠れてるに決まってる。見つけたら説教だ。パーティーの管理を放棄した罰を与えてやる」

 ガウルは自信満々だった。
 エリアスは自分に惚れている。
 今までどんな理不尽な要求にも応えてきた。今回も、ちょっとした痴話喧嘩の延長に過ぎない。
 そう信じて疑わなかった。

              
 ◇◇◇

 宿を出ようとした時だった。
 入り口の扉を開けた瞬間、ブォン、という重低音が響き、巨大な羽虫の群れが雪崩れ込んできた。

「うわっ!? なんだこれ!!」

 ガウルは慌てて腕を振り回した。
 一匹一匹は大したことのない低級モンスター、ジャイアント・モスキートだ。だが、その数は尋常ではない。数十匹の群れが、宿の入り口付近に密集していたのだ。

「きゃあああ! 虫! 来ないで!」
「おいおい、結界はどうなってんだよ!」

 カイが短剣を抜こうとするが、昨日の返り血が凝固して鞘の口に張り付き、スムーズに抜けない。
 ガウルは舌打ちし、素手で虫を叩き潰した。黄色い体液が手に付着し、強烈な悪臭を放つ。

「クソッ! どいつもこいつも!!」

 ガウルは怒りに任せて剣を抜き、真空波で虫の群れを一掃した。
 宿の前の通りは、虫の死骸で汚れた。
 野次馬が集まってくる中、ガウルは肩で息をした。
 エリアスの『対害虫結界』。
 24時間、半径50メートル以内に害虫や小動物を寄せ付けない、地味だが高度な多重結界。
 それが消失していたのだ。
 ガウルたちは、自分たちがどれほど過保護な揺り籠の中で眠っていたのかを、肌で感じさせられた。

「……ギルドだ」

 ガウルは血走った目で言った。

「あいつ、ギルドにいるかもしれねえ。依頼の精算もある」

 一行は、泥と体液で薄汚れた格好のまま、冒険者ギルドへと向かった。
 道行く人々が、勇者一行を見て眉をひそめる。
 いつもなら、輝くような装備と清潔感あふれる姿で称賛の的だった彼らが、今はまるで野盗の集団のように見えたからだ。

              
 ◇◇◇

 冒険者ギルドの扉を蹴破るようにして入ると、喧騒が一瞬にして止んだ。
 ガウルはカウンターへ大股で歩み寄った。
 受付嬢が、ギョッとした顔で彼らを見る。

「ゆ、勇者様……? どうされたんですか、その恰好……ひどい臭いも……」
「うるせえ。エリアスは来てるか?」

 ガウルはカウンターを叩いた。

「あいつ、宿にもいねえんだ。ここで依頼の手続きでもしてんだろ。呼んでくれ」

 受付嬢は困惑したように瞬きをした。
 そして、気まずそうに視線を逸らし、手元の書類の束を慌ただしく繰り始めた。

「あの……エリアス様でしたら、今朝一番にいらっしゃいました」
「やっぱりな! で、どこだ? 奥の会議室か?」
「いえ……もう出発されました」
「は?」

 ガウルの動きが止まった。
 出発? どこへ? クエストになんて行っていないはずだ。

「出発ってなんだよ。俺たちに黙って単独行動か?」
「いえ、そうではなくて……」

 受付嬢は、一枚の羊皮紙をガウルの前に差し出した。
 そこには、見慣れた、几帳面で整った筆跡があった。

『パーティー脱退届』

 申請者:魔術師エリアス
 所属:勇者ガウルパーティー
 理由:一身上の都合により

 その書類には、すでにギルドマスターの承認印が押されていた。
 正式な受理。
 覆しようのない、契約の解除。

「……は、あ?」

 ガウルの口から、間の抜けた声が漏れた。
 脱退?
 エリアスが?
 俺を捨てた?

「ふざけんな……なんだよこれ」

 ガウルは書類を掴み上げ、クシャクシャに握り潰した。

「冗談じゃねえぞ! 誰の許可とって辞めてんだ! 俺は認めてねえぞ!」
「で、ですが、冒険者規定により、個人の脱退意志は尊重されますし、違約金も全額お支払いいただいておりますので……」
「金の問題じゃねえんだよ!!」

 ガウルの怒号がギルド中に響き渡った。
 周囲の冒険者たちが引いた目でこちらを見ている。
 だが、ガウルの耳には何も入らなかった。
 胸の奥で、ドス黒い感情が渦巻いていた。
 怒り。屈辱。そして、ほんのわずかな――認めたくない焦燥。

「あいつ……本気で俺を捨てる気か?」

 握り潰した紙屑を床に叩きつける。
 
「いい度胸だ、エリアス。俺がいないと何もできないくせに、格好つけやがって」

 ガウルは歪んだ笑みを浮かべた。
 まだ、彼は理解していなかった。
 何もできないのは、エリアスではない。
 自分たちの方だということを。

「行くぞ。馬車を調達しろ。あいつの足なら、まだ遠くへは行ってねえ」

 ガウルは仲間たちに命じた。
 
「捕まえて、土下座させてやる。泣いて謝るまで、絶対に許さねえからな」

 勇者は踵を返した。
 その背中に、以前のような輝きはもうなかった。
 薄汚れたマントが、力なく揺れているだけだった。
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