勇者の「便利な恋人」を辞めます。~世界を救うより、自分の幸せを守ることにしました~

キノア9g

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第3話:地獄の勇者一行 vs 聖域の賓客

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 ガキィッ!!
 鈍い金属音が響き、ガウルの腕に痺れが走った。

「硬ってえな! なんだこいつの皮は! 岩かよ!」

 ガウルは悪態をつきながら、バックステップで距離を取った。
 目の前に立ちはだかるのは、街道沿いの森に生息する『アイアン・ボア』だ。下級より少し上、中級にも満たない魔物である。
 かつての勇者パーティーなら、ガウルの剣が一閃するだけでバターのように切断できていた相手だ。
 だが今は、何度斬りつけても浅い傷しかつかない。
 それどころか、ボアはガウルを一瞥もしない。硬い皮で剣を弾いた直後、鼻息荒く後衛のリリアへ向き直ったのだ。

「おいカイ! 側面から隙を作れ! リリア、攻撃力強化(アタック・ブースト)だ!」
「やってるよ! でも俺の短剣じゃ刃が通らないんだ!」
「無理ですぅ! ガウル様の攻撃じゃそっち向かないんです! さっきから狙われてて、詠唱する暇がありません!」

 リリアが悲鳴を上げて逃げ惑う。ボアの猛突進を避けるのに必死で、支援魔法どころではないのだ。
 いつもなら。
 いつもなら、エリアスの『敵意誘導(ヘイト・コントロール)』が完璧に機能し、後衛のリリアに敵が向くことなどあり得なかった。
 いつもなら、エリアスの『貫通付与(ペネトレイト)』がかかった武器は、鉄の皮を紙のように切り裂いた。
 いつもなら、エリアスの『身体加速(ヘイスト)』が、彼らの動きを倍速化していた。

「クソッ、どいつもこいつも役に立たねえ!」

 ガウルは舌打ちし、強引に魔力を練り上げた。
 剣に光を纏わせ、力任せに叩きつける。

「うおおらぁっ!!」

 ズドン、という衝撃と共に、ようやくボアが絶命して倒れた。
 だが、その代償は小さくなかった。
 倒れたボアが跳ね上げた大量の泥と返り血を、頭から被ったのだ。

「ぺっ! ……最悪だ」

 ガウルは顔に張り付いた泥を拭った。
 白いマントは茶色く汚れ、輝く金髪は見る影もない。
 肩で息をする仲間たちも同様だ。たかだか一匹の魔物を倒すのに、三十分もかかっていた。

「ねえ、ガウル様……もうやだぁ。服がベトベトするぅ」
「エリアスの『浄化』さえあれば……」

 リリアとカイが弱音を吐く。その言葉を聞いた瞬間、ガウルのこめかみに青筋が浮かんだ。

「あいつの名前を出すな!」

 ガウルは怒鳴り散らし、ボアの死体を蹴り飛ばした。

「あいつがいなくたって、俺たちは勝てた。そうだろ? ただ、ちょっと調子が出なかっただけだ」

 自分に言い聞かせるように言うが、体の節々が悲鳴を上げている。
 戦闘後の疲労感が、以前とは比べ物にならないほど重い。
 魔力消費の効率化支援がないため、無駄に力を使いすぎているのだ。だが、ガウルはその理屈を理解できない。ただ、「今日はやけに体が重い」と感じるだけだった。

「……行くぞ。馬車はまだか」

 ガウルたちは、泥だらけの敗残兵のような姿で、再びエリアスの行方を追う旅路についた。
 その背中には、かつての「英雄」の覇気は欠片も残っていなかった。

               
 ◇◇◇

 一方その頃。
 国境を越える峠道を行く一台の馬車の中に、エリアスの姿はあった。

 ただし、彼が乗っているのは乗り合い馬車ではない。
 王族が使うような、漆黒の塗装に金の装飾が施された最高級の魔導馬車である。
 車内は揺れ一つなく、ふかふかのベルベットの座席が、エリアスの疲弊した体を優しく包み込んでいた。

「――それで、君は徒歩で国境を越えるつもりだったのかい?」

 向かいの席から、呆れたような、しかし温かみのある声がかかる。
 エリアスは恐縮して肩をすくめた。

「……お恥ずかしい限りです。まさか、シグルド公爵閣下の馬車に拾っていただくとは」

 目の前に座っているのは、隣国『聖域(サンクチュアリ)』の守護者であり、大陸最強の魔導師の一人と謳われるシグルド公爵その人だった。
 銀色の長髪を緩く束ね、切れ長の瞳には理知的な光を宿している。ガウルのような荒々しい美形とは対極にある、洗練された大人の男だ。
 道端で倒れかけていたエリアスを見つけ、自身の馬車に乗せてくれたのだ。

「『万能魔術師』エリアス。噂は聞いているよ。勇者パーティーの要(かなめ)であり、千の魔術を操ると言われる天才だとね」
「……買い被りです。僕はただの、器用貧乏な道具係でしたから」

 エリアスは自嘲気味に笑った。
 道具係。それが自分に相応しい肩書きだと思っていた。
 シグルドは眉をひそめ、エリアスの荒れた指先を見つめた。
 魔導師の手ではない。まるで下働きの召使いのように、細かい傷と魔力焼けの跡が残っている。

「……お茶が冷めてしまったな」

 ふと、シグルドが呟いた。
 テーブルに置かれた磁器のカップから、湯気が消えている。
 エリアスは反射的に動いていた。
 長年の習性とは恐ろしいものだ。「ガウルが不機嫌になる前に直さなければ」という強迫観念が、思考より先に体を動かす。

「失礼します」

 エリアスはカップに手をかざした。
 詠唱破棄。
 第六階位熱量操作魔法『恒温(サーモスタット)』の限定展開。
 沸騰させるのではなく、茶葉の香りが最も引き立つ「六十五度」に、液体の一部だけを分子レベルで振動させて調整する。カップ自体は熱くならず、中身だけを飲み頃に戻す超高等技術だ。

「……はい、どうぞ」

 エリアスが差し出すと、シグルドはカップを受け取り――そして、絶句した。
 彼は一口含み、その完璧な温度と、損なわれていない香りに目を見開いた。

「君は……今、何をした?」
「え? あ、いえ、ただ温め直しただけで……。すみません、勝手なことを」
「謝る必要はない! だが……信じられん」

 シグルドはカップを置き、身を乗り出した。

「今の術式構成、三重並列処理をさらに圧縮していたな? しかも、液体の変質を防ぐために『時間停止』の概念まで組み込んでいた。……たかが、お茶を温めるためだけに?」
「ええ、まあ……。ガウル……勇者は猫舌で、かつ熱すぎると香りが飛ぶと怒るので、毎日こうして……」

 エリアスが説明すると、シグルドの表情が凍りついた。
 それは軽蔑ではない。
 激しい、烈火のごとき「憤り」だった。

「……狂っている」
「は、はい?」
「その技術があれば、一国を灰にすることも、死にかけた兵団を蘇らせることも可能だ。それを……ただの男の舌を満足させるために、毎日浪費させていたというのか?」

 シグルドの声には、震えるほどの怒気が混じっていた。
 エリアスは怯んで身を引いたが、シグルドはすぐに表情を和らげ、エリアスの手を取った。
 その手つきは、壊れ物を扱うように繊細で、敬意に満ちていた。

「エリアス君。君は自分が『道具係』だと言ったな」
「……はい」
「訂正しよう。君は、無知な猿の群れに投げ込まれた、最高級の宝石だ」

 宝石。
 その言葉に、エリアスの心臓が跳ねた。
 ガウルからは「便利」「楽」とは言われたが、そんな風に価値を認められたことは一度もなかった。

「私の国に来てほしい。いや、来てくれ。『聖域』は魔術を尊ぶ国だ。君のような才能が、そんな風に使い潰されているのを見るのは……同じ魔術師として、心が裂ける思いだ」

 シグルドの瞳は真剣そのものだった。
 下心や利用しようという計算は見えない。ただ純粋に、エリアスの才能への敬意と、不遇な扱いへの義憤だけがあった。
 エリアスの目頭が熱くなった。
 認められたかった。
 愛されなくてもいい、ただ、自分が積み上げてきた技術と努力を、誰かに「すごい」と言ってほしかった。
 それが、まさかこんな出会い頭の他人に叶えられるなんて。

「……僕で、いいのでしょうか。魔力も枯渇しかけの、出がらしですが」
「出がらし? とんでもない。君はまだ、本当の輝き方を知らないだけだ」

 シグルドは優雅に微笑み、再び温かい紅茶を口にした。

「私が教えよう。君がどれほど素晴らしい魔術師で、どれほど価値のある人間かを」

 馬車の窓の外、美しい夕日が流れていく。
 それは、泥にまみれて野営の準備に追われているであろうガウルたちとは、あまりにも違う景色だった。

               
 ◇◇◇

 その夜。ガウルたちは野営を余儀なくされていた。
 宿場町まで辿り着けなかったのだ。移動速度を上げる『身体加速』も、疲れを軽減する『活力付与』もなかったため、予定の半分も進めなかった。

「……火がつかねえ」

 ガウルは薪に向かって火打ち石を打ち付けていた。
 カチ、カチ、と虚しい音が響く。
 湿気った薪は煙を上げるだけで、一向に燃え上がらない。
 エリアスなら、指先一つで最適な火力の焚き火を作り出し、煙が目に沁みないよう風向きさえ調整してくれた。

「ガウル様ぁ、お腹すきましたぁ……」
「保存食のパン、カビ生えてるぜ。これ食うのかよ」

 仲間の不満が突き刺さる。
 ガウルは石を投げ捨てた。

「知るかよ! 食えるもん食って寝ろ!」

 暗い森の中、結界のない野営地。
 魔物の遠吠えが聞こえるたびに、リリアが怯えて身を縮める。
 ガウルは冷たく硬い地面に横になり、マントを頭から被った。
 寒い。
 エリアスの体温調整魔法がない夜が、これほど底冷えするものだとは知らなかった。

「……ふざけんなよ、エリアス」

 ガウルは震える声で悪態をついた。

「俺をこんな目に遭わせて……タダで済むと思うなよ」

 まだ、彼は被害者面を崩さない。
 自分の無力さを認めることは、勇者としてのアイデンティティを崩壊させることだからだ。
 だが、その強がりの裏側で、確かな恐怖が芽生え始めていた。
 この「不便で、汚くて、惨めな現実」が、一時的なものではなく、永続するかもしれないという恐怖が。

 ――ガウルの知らない場所で、エリアスは今夜、シグルド公爵の屋敷のゲストルームで、最高級の羽毛布団に包まれて眠りについている。
 その格差は、もはや取り返しのつかないところまで開いていた。
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