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第3話:地獄の勇者一行 vs 聖域の賓客
しおりを挟むガキィッ!!
鈍い金属音が響き、ガウルの腕に痺れが走った。
「硬ってえな! なんだこいつの皮は! 岩かよ!」
ガウルは悪態をつきながら、バックステップで距離を取った。
目の前に立ちはだかるのは、街道沿いの森に生息する『アイアン・ボア』だ。下級より少し上、中級にも満たない魔物である。
かつての勇者パーティーなら、ガウルの剣が一閃するだけでバターのように切断できていた相手だ。
だが今は、何度斬りつけても浅い傷しかつかない。
それどころか、ボアはガウルを一瞥もしない。硬い皮で剣を弾いた直後、鼻息荒く後衛のリリアへ向き直ったのだ。
「おいカイ! 側面から隙を作れ! リリア、攻撃力強化(アタック・ブースト)だ!」
「やってるよ! でも俺の短剣じゃ刃が通らないんだ!」
「無理ですぅ! ガウル様の攻撃じゃそっち向かないんです! さっきから狙われてて、詠唱する暇がありません!」
リリアが悲鳴を上げて逃げ惑う。ボアの猛突進を避けるのに必死で、支援魔法どころではないのだ。
いつもなら。
いつもなら、エリアスの『敵意誘導(ヘイト・コントロール)』が完璧に機能し、後衛のリリアに敵が向くことなどあり得なかった。
いつもなら、エリアスの『貫通付与(ペネトレイト)』がかかった武器は、鉄の皮を紙のように切り裂いた。
いつもなら、エリアスの『身体加速(ヘイスト)』が、彼らの動きを倍速化していた。
「クソッ、どいつもこいつも役に立たねえ!」
ガウルは舌打ちし、強引に魔力を練り上げた。
剣に光を纏わせ、力任せに叩きつける。
「うおおらぁっ!!」
ズドン、という衝撃と共に、ようやくボアが絶命して倒れた。
だが、その代償は小さくなかった。
倒れたボアが跳ね上げた大量の泥と返り血を、頭から被ったのだ。
「ぺっ! ……最悪だ」
ガウルは顔に張り付いた泥を拭った。
白いマントは茶色く汚れ、輝く金髪は見る影もない。
肩で息をする仲間たちも同様だ。たかだか一匹の魔物を倒すのに、三十分もかかっていた。
「ねえ、ガウル様……もうやだぁ。服がベトベトするぅ」
「エリアスの『浄化』さえあれば……」
リリアとカイが弱音を吐く。その言葉を聞いた瞬間、ガウルのこめかみに青筋が浮かんだ。
「あいつの名前を出すな!」
ガウルは怒鳴り散らし、ボアの死体を蹴り飛ばした。
「あいつがいなくたって、俺たちは勝てた。そうだろ? ただ、ちょっと調子が出なかっただけだ」
自分に言い聞かせるように言うが、体の節々が悲鳴を上げている。
戦闘後の疲労感が、以前とは比べ物にならないほど重い。
魔力消費の効率化支援がないため、無駄に力を使いすぎているのだ。だが、ガウルはその理屈を理解できない。ただ、「今日はやけに体が重い」と感じるだけだった。
「……行くぞ。馬車はまだか」
ガウルたちは、泥だらけの敗残兵のような姿で、再びエリアスの行方を追う旅路についた。
その背中には、かつての「英雄」の覇気は欠片も残っていなかった。
◇◇◇
一方その頃。
国境を越える峠道を行く一台の馬車の中に、エリアスの姿はあった。
ただし、彼が乗っているのは乗り合い馬車ではない。
王族が使うような、漆黒の塗装に金の装飾が施された最高級の魔導馬車である。
車内は揺れ一つなく、ふかふかのベルベットの座席が、エリアスの疲弊した体を優しく包み込んでいた。
「――それで、君は徒歩で国境を越えるつもりだったのかい?」
向かいの席から、呆れたような、しかし温かみのある声がかかる。
エリアスは恐縮して肩をすくめた。
「……お恥ずかしい限りです。まさか、シグルド公爵閣下の馬車に拾っていただくとは」
目の前に座っているのは、隣国『聖域(サンクチュアリ)』の守護者であり、大陸最強の魔導師の一人と謳われるシグルド公爵その人だった。
銀色の長髪を緩く束ね、切れ長の瞳には理知的な光を宿している。ガウルのような荒々しい美形とは対極にある、洗練された大人の男だ。
道端で倒れかけていたエリアスを見つけ、自身の馬車に乗せてくれたのだ。
「『万能魔術師』エリアス。噂は聞いているよ。勇者パーティーの要(かなめ)であり、千の魔術を操ると言われる天才だとね」
「……買い被りです。僕はただの、器用貧乏な道具係でしたから」
エリアスは自嘲気味に笑った。
道具係。それが自分に相応しい肩書きだと思っていた。
シグルドは眉をひそめ、エリアスの荒れた指先を見つめた。
魔導師の手ではない。まるで下働きの召使いのように、細かい傷と魔力焼けの跡が残っている。
「……お茶が冷めてしまったな」
ふと、シグルドが呟いた。
テーブルに置かれた磁器のカップから、湯気が消えている。
エリアスは反射的に動いていた。
長年の習性とは恐ろしいものだ。「ガウルが不機嫌になる前に直さなければ」という強迫観念が、思考より先に体を動かす。
「失礼します」
エリアスはカップに手をかざした。
詠唱破棄。
第六階位熱量操作魔法『恒温(サーモスタット)』の限定展開。
沸騰させるのではなく、茶葉の香りが最も引き立つ「六十五度」に、液体の一部だけを分子レベルで振動させて調整する。カップ自体は熱くならず、中身だけを飲み頃に戻す超高等技術だ。
「……はい、どうぞ」
エリアスが差し出すと、シグルドはカップを受け取り――そして、絶句した。
彼は一口含み、その完璧な温度と、損なわれていない香りに目を見開いた。
「君は……今、何をした?」
「え? あ、いえ、ただ温め直しただけで……。すみません、勝手なことを」
「謝る必要はない! だが……信じられん」
シグルドはカップを置き、身を乗り出した。
「今の術式構成、三重並列処理をさらに圧縮していたな? しかも、液体の変質を防ぐために『時間停止』の概念まで組み込んでいた。……たかが、お茶を温めるためだけに?」
「ええ、まあ……。ガウル……勇者は猫舌で、かつ熱すぎると香りが飛ぶと怒るので、毎日こうして……」
エリアスが説明すると、シグルドの表情が凍りついた。
それは軽蔑ではない。
激しい、烈火のごとき「憤り」だった。
「……狂っている」
「は、はい?」
「その技術があれば、一国を灰にすることも、死にかけた兵団を蘇らせることも可能だ。それを……ただの男の舌を満足させるために、毎日浪費させていたというのか?」
シグルドの声には、震えるほどの怒気が混じっていた。
エリアスは怯んで身を引いたが、シグルドはすぐに表情を和らげ、エリアスの手を取った。
その手つきは、壊れ物を扱うように繊細で、敬意に満ちていた。
「エリアス君。君は自分が『道具係』だと言ったな」
「……はい」
「訂正しよう。君は、無知な猿の群れに投げ込まれた、最高級の宝石だ」
宝石。
その言葉に、エリアスの心臓が跳ねた。
ガウルからは「便利」「楽」とは言われたが、そんな風に価値を認められたことは一度もなかった。
「私の国に来てほしい。いや、来てくれ。『聖域』は魔術を尊ぶ国だ。君のような才能が、そんな風に使い潰されているのを見るのは……同じ魔術師として、心が裂ける思いだ」
シグルドの瞳は真剣そのものだった。
下心や利用しようという計算は見えない。ただ純粋に、エリアスの才能への敬意と、不遇な扱いへの義憤だけがあった。
エリアスの目頭が熱くなった。
認められたかった。
愛されなくてもいい、ただ、自分が積み上げてきた技術と努力を、誰かに「すごい」と言ってほしかった。
それが、まさかこんな出会い頭の他人に叶えられるなんて。
「……僕で、いいのでしょうか。魔力も枯渇しかけの、出がらしですが」
「出がらし? とんでもない。君はまだ、本当の輝き方を知らないだけだ」
シグルドは優雅に微笑み、再び温かい紅茶を口にした。
「私が教えよう。君がどれほど素晴らしい魔術師で、どれほど価値のある人間かを」
馬車の窓の外、美しい夕日が流れていく。
それは、泥にまみれて野営の準備に追われているであろうガウルたちとは、あまりにも違う景色だった。
◇◇◇
その夜。ガウルたちは野営を余儀なくされていた。
宿場町まで辿り着けなかったのだ。移動速度を上げる『身体加速』も、疲れを軽減する『活力付与』もなかったため、予定の半分も進めなかった。
「……火がつかねえ」
ガウルは薪に向かって火打ち石を打ち付けていた。
カチ、カチ、と虚しい音が響く。
湿気った薪は煙を上げるだけで、一向に燃え上がらない。
エリアスなら、指先一つで最適な火力の焚き火を作り出し、煙が目に沁みないよう風向きさえ調整してくれた。
「ガウル様ぁ、お腹すきましたぁ……」
「保存食のパン、カビ生えてるぜ。これ食うのかよ」
仲間の不満が突き刺さる。
ガウルは石を投げ捨てた。
「知るかよ! 食えるもん食って寝ろ!」
暗い森の中、結界のない野営地。
魔物の遠吠えが聞こえるたびに、リリアが怯えて身を縮める。
ガウルは冷たく硬い地面に横になり、マントを頭から被った。
寒い。
エリアスの体温調整魔法がない夜が、これほど底冷えするものだとは知らなかった。
「……ふざけんなよ、エリアス」
ガウルは震える声で悪態をついた。
「俺をこんな目に遭わせて……タダで済むと思うなよ」
まだ、彼は被害者面を崩さない。
自分の無力さを認めることは、勇者としてのアイデンティティを崩壊させることだからだ。
だが、その強がりの裏側で、確かな恐怖が芽生え始めていた。
この「不便で、汚くて、惨めな現実」が、一時的なものではなく、永続するかもしれないという恐怖が。
――ガウルの知らない場所で、エリアスは今夜、シグルド公爵の屋敷のゲストルームで、最高級の羽毛布団に包まれて眠りについている。
その格差は、もはや取り返しのつかないところまで開いていた。
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