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第11章
228話
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それからカミツレは順調に回復し、腕の傷はすっかり癒えた。
「世話になった。その分、対価を払う。」
「何度も言うけど、対価なんて要らないよ。」
「いや、払う。」
「要らな――」
「払う。」
「……。」
そんな押し問答の末、カミツレは対価を払うために、この国へ留まることになった。
国の者たちは彼女を仲間として迎え入れた。
最初こそは人々に対して警戒していたカミツレであったが、彼らの温かさに触れるうちに、彼女の態度は次第に柔らかくなっていった。
彼女は誰よりも狩りに長け、そして力強かった。
誰もが彼女を頼り、そして必要とした。
いつしか、カミツレはこの国に欠かせない存在となっていた。
❖❖❖❖❖
穏やかに月日は流れ、カミツレとユリウスは、丘の上でりんごの収穫をしていた。
この北の地では作物を育てるのが難しいが、りんごと芋だけは安定して実る。
「手伝ってくれてありがとう、カミツレ。」
「これぐらい、大したことはない。」
力仕事には自信のあったユリウスだったが、彼がりんごの入った籠を一つ抱えるのに対し、カミツレは平然と二つを抱えていた。
その姿を見て、ユリウスは思わず苦笑する。
男として、少し情けない。
この前もそうだ。ユリウスが丘の斜面で足を滑らせたとき、咄嗟に彼女が腕を伸ばし「足元に気をつけろ。」と、しっかりと身体を支えてくれた。
ーーー普通は逆!
思わずそう心の中で叫んだのと、うっかりときめいてしまったことは、記憶に新しい。
そんな彼女は国の女性から人気が高かった。
男たちの肩身がやや狭くなったことは、言うまでもない。
「王様が、こんな力仕事する必要なんてないんじゃないか。」
「僕はこうして体を動かしている方が、性に合ってるんだ。」
国の運営には、噴火の前に政治を担っていた者たちが協力してくれている。
彼らと相談しながら、ユリウスは国をまとめていた。
それでも彼は、もともとはりんご農家の出だ。こうして土に触れ、風を感じていると落ち着くのだった。
ふたりは収穫した籠を荷台へと積み上げ、馬に引かせる準備を進めていた。
「よし、そろそろ下に降りようか。……カミツレ?」
彼女は丘の端に立ち、眼下の国を静かに見下ろしていた。
「どうしたの?」
「国を見ていた。」
「……あぁ、君が手伝ってくれたおかげで、だいぶ国らしくなってきたね。」
何もなかった荒れ地に、いまでは家々が立ち並び、広場ができ、遠くでは城の建設が進んでいる。
建築作業に携わっているカミツレの働きは、まぎれもなく建国の礎のひとつだった。
「……別に、俺は大したことはしていない。」
そっぽを向いたカミツレの耳が、ほんのりと朱に染まる。そのわずかな色の変化に、ユリウスは思わず微笑んだ。
国の女性たちの手によって髪や服を整えられたカミツレは、以前より更に美しくなっていた。
高い位置でひとつに束ねた髪型も、とてもよく似合っている。
「謙遜しなくていいよ。みんな君に感謝してる。」
「……ふん。」
しばし、ふたりは言葉もなく、風にそよぐ国を見つめていた。
「……君は、この世界をどう思う?」
不意にユリウスが口を開いた。
穏やかな風が吹き抜け、丘の草原がざわめく
「いきなりだな。」
彼女の声は、ほんのわずかに笑みを含んでいた。
その横顔を見て、ユリウスは胸の奥が温かくなる。
沈黙ののち、カミツレはゆっくりと息を吐いた。
その吐息が風に溶けるようにして、言葉がこぼれる。
「……昔は、なんとも思ってなかった。狩って、食べて、寝る。ただそれだけの世界だった。」
「……今は?」
カミツレはわずかに目を細め、丘の下に広がる国を見渡した。
子どもたちが追いかけっこをし、洗濯物が風にはためき、どこかの家の煙突から白い煙が上がっている。
「――今は、美しいと思う。」
その言葉は、淡く、けれど確かな温度を帯びていた。
珍しく微笑むカミツレの横顔に、ユリウスの胸の奥がきゅっと締めつけられるのを感じた。
「……そっか。」
ユリウスは小さくうなずき、視線を同じ方向へと向けた。
陽の光が二人の影を長く伸ばす。
少しの沈黙を挟んで、カミツレが問い返す。
「お前はどう思う?」
「僕は……」
その時、ふたりの間に風が吹き抜け、カミツレの髪がふわりと揺れた。
青空の下、彼女の真珠の髪が陽光を受けてきらめき、ユリウスの視線を奪う。
その美しさに、ユリウスは思わず呟いた。
「……綺麗………………だ、と、思う……」
ユリウスにとって、この世界は憎むべきものだった。
かつて世界が起こした噴火が、彼から大切な家族を奪い去ったのだから。
けれど――
彼女がいるこの世界を、ユリウスはたった今、美しいと思ってしまった。
❖❖❖❖
ユリウスの国は、少しずつ豊かになっていった。
病院や学校、市場が生まれ、人々の笑い声が絶えない。
かつての混乱が嘘のように、平和が根づき始めていた。
だが――その一方で、人々に新たな不安が呼び起こされていた。
「進化した彼らが、攻めてくるのではないか。」
「王様がいなくなったら、私たちはどうすればいいのか。」
人の国の最大の弱点――それは、神蟲の力を持つ者がユリウスただひとりであることだった。
人々の不安が募る中、重臣たちは次第に口を揃えるようになる。
「我が国の力を、他国に示さねばなりません。」
「貴方様は他国の王とは違い、神より賜った神の力を持つ上位の存在――エンペラーになのです。」
「その血を絶やしてはならぬ。」
「力を使える者を増やさなければ。」
そして、ユリウスに命が下った。
世継ぎをつくれ。
それも、できるだけ多くの女性との間に。
“神の力”を継ぐ者を増やすために。
「僕を種馬にするつもりか。」
ユリウスは即座に拒んだ。
しかし、人々はそれを許さなかった。
平和に慣れ、恐れを忘れたはずの民の目が、次第にユリウスを追い詰めていく。
「国のために」「皆のために」ーーーその言葉が、鋭い刃となって彼の胸を刺した。
そして――ある晩のことだった。
信頼していた仲間の一人が、密かにユリウスの杯に酒と薬を混ぜた。
国の未来のためだと信じて。
あるいは、そう思い込もうとして。
その日は静かな夜だった。
炎の灯りが揺れる寝所で、ユリウスは深い眠りに落ちる。
その扉の向こうから、何人もの影が忍び寄るのにユリウスは気付かない。
絹の衣擦れの音が、夜気に溶ける。
男の手がユリウスの手足を押え、その肌の上を女の手が這った。
―――その夜。
「国のため」という名のもとに、ひとりの意思を踏みにじられた。
❖❖❖❖❖
長い夜が明けた。
鳥の声が、遠くからかすかに聞こえる。
瞼の裏が重い。
ユリウスはぼんやりとした意識の中で、冷たい朝の空気を吸い込んだ。
体が鉛のように重く、頭の奥が鈍く痛む。
手を動かそうとしたとき、指先に柔らかな感触が触れた。
そこには――誰かがいた。
瞬間、全てを理解する。
胸の奥がひやりと凍り付いた。
彼は跳ね起き、布団を乱暴に払いのける。
目に映ったのは、重臣の娘たちの寝顔だった。
穏やかで、安らかでーーーあまりにも残酷な光景。
誰が、どうして――考えるまでもない。
唇がわなわなと震えた。
怒りが湧き上がるより先に、吐き気が込み上げる。
喉の奥からこみ上げる声は、言葉にならなかった。
寝台の端に座り込み、額を押さえる。
頭の中が真っ白で、何一つ考えがまとまらない。
窓から差し込む朝日が、あまりに眩しかった。
彼はふらつきながら静かに立ち上がる。寝所を一瞥し、何も言わずに扉を開けた。
外の空気は冷たく澄んでいた。
朝焼けが、闇を溶かしながら、東の空に広がり始めている。
ユリウスの心境とは裏腹に、世界は相変わらず美しかった。
❖❖❖
あの夜から、ユリウスはカミツレを避けるようになった。
彼女の目に、今の自分がどう映るのか、考えるだけで恐ろしかった。
以来、二人は顔を合わせることもなく、互いに距離を置いたまま日々が過ぎていった。
季節は巡り、やがて、新たな命が国に芽吹いた。
ユリウスの子供が生まれたのだ。
子供たちは皆、青い瞳と神蟲の力を受け継いで生まれてきた。
国民はそれを“奇跡”と呼び、祭りを開き、涙を流して喜んだ。
誰もが神に祝福された国の未来を信じて疑わなかった。
だが、ユリウスの胸に広がったのは祝福ではなく、重く沈むような静けさだった。
祝福の声が高まるほどに、彼の心はその喧噪から遠ざかっていった。
そんなある日。
ユリウスの身体に、わずかな異変が訪れた。
いつものように、侍女が淹れたカモミールティー。
口にした瞬間、ユリウスは眉をひそめた。
「……もしかして最近、茶葉を変えた?」
「いいえ、以前と同じものでございます。」
「……そうか。悪いけど、次からはハーブティー以外にしてくれないかな。」
「かしこまりました。」
徐々にユリウスはカモミールをはじめとしたハーブ類に違和感を覚え始め、気付けば、一切受け付けない身体になっていった。
香りを嗅ぐだけで吐き気を覚え、酷い時には腹痛に襲われるほどだった。
だが、それはほんの始まりに過ぎなかった。
彼の変化は、静かに、そして確実に深まっていった。
❖❖❖❖❖
「陛下!大変です!」
執務室の扉が勢いよく開かれた。
かつて「王」と呼ばれたユリウスは、「皇帝陛下」に呼び名が変わっていた。
「そんなに慌ててどうした。」
「ハンツ様が……殿下が木から落ちました!」
ハンツ――ユリウスの長子。
いずれ国を継ぐことになる皇太子だ。
「怪我の具合は?」
「回復力が素晴らしく、命に別状はございません。ただ数針縫うほどの傷で……今、治療を受けておられます。」
「そうか。」
ユリウスは短くそう答えると、何事もなかったかのように机へ視線を戻した。
筆を取り、書きかけの文書に再び目を落とす。
部下は目を丸くし、躊躇いながら言葉を発した。
「あの……それだけですか?」
「……?報告はちゃんと受けたが。」
「いえ、その……ご自身のお子が怪我をしたんですよ……?」
その一言で、ユリウスの手が止まった。
そして――遅れて、理解が追いつく。
椅子を倒すようにして立ち上がる
心臓が跳ねる、胸の奥に、何かが抜け落ちたような空洞が広がっていく。
――なぜ、僕は平然としているんだ?
以前のユリウスなら、真っ先に駆け出していたはずだった。
妹が、家族が傷つけば、夜でも嵐でも迷わず走った。
だが今の自分は、報せを受けても、何の感情も湧かなかった。
神蟲の力の自己治癒能力は凄まじい。心臓や首を貫かれない限り、死ぬことは無いだろう。だからと言って、自分の子を心配しない親がどこにいる。
ユリウスは口元を押さえ、震える声で呟く。
「……すまない。すぐにハンツのところへ向かう。案内してくれ。」
ユリウスは筆を置き、部下の後を速足で追った。
だがその足取りは重く、どこかぎこちなかった。
ーーーその夜。
彼は窓に映る自身の瞳を見て、息を呑んだ。
深い青の中に、人ではない光が宿っていた。
まるで無機質なビー玉のような………いや。
その目は感情のない”虫の目”そのものだった。
「こんな目、カミツレには見せられない……」
呟きが震える。
どんどん自分の中から人間らしさが消えていくことに、ユリウスは恐れた。
自分の子供だけじゃない。
当たり前に持っていた人間への愛情、感心、同情ーーー様々な感情が、まるで水を加えているかのように薄れていく。
いつか自分は、人に対して非情な選択をしてしまうのではないだろうか。
そんなことを考えるユリウスの頭に、ふとカミツレのことが思い浮かぶ。
ユリウスの瞳を美しいと言ってくれた彼女。
そんな彼女を自らの手で傷つける、ありえない光景が、に脳裏に過った。
「―っ、違うっ!」
ユリウスは慌てて執務机の引き出しを開け、ひとつの小箱を取り出した。
蓋を開けると、そこにはゾフィーの形見であるリボンが収められていた。
その血が滲んだリボンを見た瞬間、あの時に感じた感情がまざまざと蘇る。
「……まだ、大丈夫……僕は人間だ……虫じゃない……」
掠れた声が、静まり返った部屋に落ちては闇に溶けていく。
ゾフィーのリボンを握り絞めたユリウスの震えは、しばらく止まらなかった。
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