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第11章
227話
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傍観者side
それからユリウスは、生き残った人々を探し集め、北の地に新たな人間の集落を築き始めた。
すべてはゼロからの出発であり、困難の連続であったが、人々は互いに助け合いながら、長い年月をかけて少しずつ国の形を整えていった。
噴火が起こる以前――産業革命が進み、人間の文明は大きく発展していた。
しかしユリウスは、あえて文明を再び発展させることはしなかった。
より自然に近い形で。無駄な争いを生まぬように。
そして、世界の意思を汲んで。
ユリウスが喰らうまで神蟲に流れていた“世界の感情”は、朧気ながらもユリウスの中に受け継がれていた。
噴火を起こし、ユリウスから大切なものを奪った世界を許すつもりは毛頭ないが、環境を壊され、苦しみ、嘆いていた世界のことを――彼は理解できないわけではなかった。
文明を発展させなかった結果、かつて工場の煙に覆われ曇天だった空は、いまや澄みきった青を取り戻していた。
国づくりのかたわら、ユリウスは神蟲の力を用いて、動物や魚、作物など――記憶に残る限りの生命を、一つずつ蘇らせていった。
荒れ果てていた大地に再び息吹が宿り、北の地はゆっくりと豊かな人の国へと姿を変えていく。
その奇跡の光景を目の当たりにした人々は、ユリウスを王として担ぎ上げ、彼の力を「神より授かった奇跡の魔法」と呼ぶようになっていった。
「――この世界に、神など存在しない。」
ユリウスがいくらそう言葉を投げかけても、誰も耳を傾けようとはしなかった。
噂は一人歩きを続け、彼への信仰は日を追うごとに深まっていく。
その現状に悩んでいると、ある日、仲間のひとりがユリウスにこう言った。
「復興の途中では、信仰の対象が必要だ。あんな悲劇があったら尚更。人は何かを信じなければ、前に進めない。」
その言葉に、ユリウスは長く沈黙した。やがて、ただ一度、小さく頷く。
不本意ではあったが、ユリウスは人々の前で神を否定することをやめた。
ようやく得られた人々の安らぎを、ここで壊すわけにはいかなかったのだ。
そして、彼とともに築かれたその国は、後の世に「ノルデン帝国」と呼ばれ、人々は彼を“神に選ばれし王”と讃えた。
建国の記憶は、こうして神話のように後世へと語り継がれていくのであった。
❖❖❖❖❖
そんな日々の中、ユリウスは時間を見つけては、あの洞窟で出会った“彼女”のもとを訪れていた。
最初の頃こそ、姿を見せるたびに矢を放たれたものだが、最近では――歓迎こそされないものの、追い払われることはなくなっていた。
――冬が近づき、底冷えする風が吹きすさぶある日のこと。
温かな上着を渡そうと、ユリウスはいつものように洞窟を訪れた。
しかし、入口に差しかかった瞬間――息を呑む。
岩場の陰に、彼女が倒れていた。
鼻先をかすめる鉄の匂い。
岩肌を濡らす赤。
その光景を見た瞬間、ユリウスの全身から血の気が引いた。
彼は我を忘れて駆け寄り、ぐったりとした身体を抱き起こす。
その身体は燃えるように熱く、腕には深い裂傷が走っていた。
「何があったんだ!この怪我はいったい……!」
ユリウスの声に、彼女はうっすらと目を開けると、嫌そうに顔を顰めた。
「……騒ぐな……鬱陶しい。」
「で、でも──!」
「ただの……かすり傷だ。」
「かすり傷、だって……?」
彼女の白い腕を見たユリウスは、息を詰まらせる。
傷は深く、出血は止まっていない。おそらく鋭い岩か何かで切ったのだろう。
粗末に巻かれた布が血に染まり、すでに手当ての意味をなしていなかった。
「これのどこがかすり傷なんだ……!重症じゃないか!おいっ、しっかり…!」
彼女はユリウスの腕の中で意識を失った。
その姿が、自ら命を絶ったゾフィーと重なり、息を呑む。
呼吸が乱れ、冷や汗が頬を伝い、手が震え始める。
ユリウスは彼女が世界から消えることに恐怖を覚えた。
「だ、ダメだ……ダメだダメだ……!」
ユリウスは無我夢中で神蟲の力を解放した。 淡い光が彼女の傷口を包み、裂けた肌がゆっくりと閉じていく。
それでも彼女の熱は下がらず、生命の灯は心許ないままだった。
このままでは危険だと判断し、ユリウスは彼女を抱き上げると、神蟲の力を使い一瞬で国へと連れ帰った。
清潔な寝台に彼女を横たえ、ユリウスは国の女性たちを呼び、必要なものを次々と運ばせた。そして、自らも懸命に看病し、彼女の傍を片時も離れなかった。
――どれほどの時が過ぎただろう。
深い静寂の中で、彼女が小さく身じろぎをした。やがて、重たげに瞼が開く。翡翠色の瞳が現れた瞬間、勢いよく椅子から立ち上がったユリウスは大きく息を吐き、胸の奥で固まっていた不安をようやく解いた。
「あぁ……よかった。目が覚めたんだね。具合はどう?痛むところはない?寒くない?あ、何か食べたいものとかある?それとも飲み物がいいかな?」
矢継ぎ早に問いかけるユリウスに、彼女は鬱陶しそうに眉をひそめた。
「……やかましい。……ここはどこだ?」
むくりと身を起こそうとする彼女の背を、ユリウスはそっと支えた。
「まだ寝てて。熱があるんだ。」
ユリウスは彼女を再びベッドに寝かせ、額のタオルを取り替える。そして、ここが自分たちが築いた新しい国であること、彼女を安全な場所へ運んだことを伝えた。
すると、彼女はわずかに目を細め、冷ややかに言った。
「勝手に……治すな。」
ユリウスは息を呑む。
「でも、あのまま放っておいたら、君は死んでいたかもしれない。」
「あれぐらいの怪我、大したことじゃない。それに――治されても、対価が払えない。」
その言葉に、ユリウスははっとした。
彼女はいつもそうだった。
ユリウスが何かを差し出せば、彼女は必ず何かしらの対価を支払ってきた。
ユリウスが鶏肉を渡せば彼女は魚で返し、毛布を渡せば狐の毛皮を差し出す。
野菜を持っていけば、山菜を渡された。
そうやって今までずっと一人で生きてきたのだろう。
ユリウスの胸の奥には、言葉にならないものが溢れていた。
「対価なんていらないよ。僕がしたくてやっているだけなんだから。」
「……。」
彼女はユリウスを、奇妙なものでも見るかのように眉をひそめた。
「……やっぱり、あの洞窟で一人で暮らすのは危険だよ。僕たちとここで一緒に暮らしたほうが――」
「またその話か。俺は、人と群れる気はない。」
ユリウスは彼女の元へ訪れるたびに、一緒の国で暮らそうと説得し続けていた。
しかし、彼女の意思は頑なだった。
「でも、今回はたまたま助けられたけど……次もそう上手くいくとは限らない。もし間に合わなかったら……。僕の力は、生きている人にしか使えないんだ。」
ユリウスの声には焦りが滲んでいた。
言葉を重ねるたびに、彼女は眉をひそめ、視線を逸らす。
「お願いだ。ここで暮らしてほしい。」
「……なぜそこまで気にする?俺とお前はただの他人だろ。」
ユリウスはそこで、言葉に詰まる。
何故と問われても、ユリウスは明確な答えを持っていなかった。
ただなぜか彼女のことを放っておけない。
だが、強いて言うなら―――
「……僕には、妹がいたんだ。」
ユリウスはポツリポツリとゾフィーのことを話す。
国を立てて以来、ユリウスが誰かにゾフィーの話をするのは、これが初めてだった。
「―――救えたはずの命が、目の前で消えるのがもう嫌なんだ。」
「お前の妹と俺を重ねるな。はっきり言って迷惑だ。」
「……ごめん。でも、僕は君に死んでほしくない。」
彼女は深く息を吐き、天井を見上げた。
「話にならん。」
そのとき、戸口から小さなノックの音が響いた。
「王様。新しいお水をお持ちしました。今、入ってもよろしいでしょうか?」
扉の向こうから、彼女の看病を手伝ってくれている若い少女の声がした。
ユリウスがちらりと彼女の方を見ると、彼女は警戒するように肩を強ばらせていた。
「大丈夫。ここに君を傷つける者はいないよ。」
そう優しく告げてから、ユリウスは扉を開け、少女を部屋に招き入れた。
少女は水の入った桶を抱え、部屋の中に入ると、目を輝かせた。
「あ、気が付いたんですね!良かった……!みんな、貴女のことを心配していたんですよ。」
少女の言葉に、彼女は目を瞬かせ、まるで言葉の意味を飲み込めないようにぽかんとした。
ユリウスは女の子から桶を受け取り、代わりに温くなった水が張った桶を渡す。
「彼女に、何か温かい飲み物を持ってきてくれないかな。」
ユリウスがそう言うと。女の子は嬉しそうに頷いた。
「かしこまりました!すぐにお持ちしますね。」
軽やかに一礼して部屋を後にする少女の姿を、彼女はぼんやりと目で追っていた。そんな彼女に、ユリウスは柔らかく笑いかける。
「ほらね。」
「……。」
建国する際、彼女の白髪が人々の恐怖や偏見の的にならぬよう、ユリウスは神蟲の力を使い、人々の認識を細やかに書き換えた。
白髪はただの個性として受け入れられ、不信や蔑みが芽生えぬように、思考の流れさえも整えた。
人間の思考にメスを入れる際、倫理や道徳といった言葉が一瞬頭をよぎったが、彼女のことを思えば、ためらいはすぐに消えた。
この国は、彼女のために創った言っても過言ではない。
彼女の額に乗せる濡れタオルを取り換えていると、再びノック音がした。
先程の少女が戻ってきたのだ。
扉を開けたユリウスはお礼を言って、少女からティーポットとティーカップが載ったトレイを受け取った。
「今日はこれを飲んで、ゆっくり休んで。」
「……それは?」
「ハーブティーだよ。身体を温めて、免疫を高めてくれる。」
ユリウスは湯気の立つカップにお茶を注ぎ、そっと差し出した。
彼女は上体を起こし、慎重にそれを受け取る。
柔らかな香りが立ちのぼり、翡翠の瞳に湯気の光が揺れた。
「……嗅いだことのない香りだ。」
「カモミールの花の香りだよ。」
「カモミール?」
「うん。君の髪みたいに白くて、小さな花。見たことない?」
「……多分、ない。」
彼女はそう呟くと、少しだけ息を吸い込み、恐る恐るカップを唇に運んだ。
一口、口に含み、静かに飲み下す。
その様子を見守っていたユリウスがそっと尋ねる。
「どう?口に合う?」
「……悪くない。」
彼女のほんのわずかに緩んだ口調に、ユリウスは嬉しそうに微笑んだ。
「良かった……。あ、そうだ。まだ君の名前を聞いていなかったね。僕はユリウス。君は?」
「俺に名前はない。」
淡々とした返答には、どこか投げやりな響きを帯びていた。
ユリウスはすぐにやってしまったと思った。
「ご、ごめん…」
「別に。名前なんて必要ない。」
「でも、呼ぶときに困るよね…。呼ばれたい名前とかはある?」
「ない。」
「そ、そっか……じゃあ、僕が決めてもいい?」
「勝手にしろ。」
そのぶっきらぼうな返事に、ユリウスは苦笑をこぼした。
「ありがとう、そうだな……」
小さく肩を竦めながら、ユリウスはしばし考える。彼女の髪に視線を落とすと、窓から差し込む陽の光がによって、まるで雪明かりのように柔らかく光っていた。
ふと、ユリウスの脳裏に昔の記憶が蘇る。
「『カミツレ』なんてどうかな?」
「カミツレ?」
「うん。カモミールの別名なんだ。小さくて、白くて、強い花。花言葉は――『逆境に耐える』や、『苦難の中で生まれる力』。なんか……君にぴったりだと思って。」
それは、ユリウスの母とゾフィーが好きだった花だった。
かつて彼が暮らしていた村では、春になるとあちこちにその白い花が咲き、家の中にはいつもカモミールティーのやさしい香りが漂っていた。
ユリウスの言葉に、彼女はわずかに視線を落とした。
湯気の向こうで、翡翠の瞳がかすかに揺れる。
「……花の名前なんて、俺には似合わない。」
「そんなことないよ。強くて、綺麗で、どんな場所でも咲ける。まるで、君みたいだ。」
「………。」
彼女はユリウスを軽く睨み、飲み干したティーカップをユリウスに押し返した。
「少し寝る。」
「あ、うん。ゆっくり休んで。君が眠るまで、ここに――」
「失せろ。鬱陶しい。」
「ちゃ、ちゃんと静かにしているよ。」
「存在が鬱陶しい。」
「そんな……」
ユリウスはガックリと肩を落とした。
彼女―――カミツレはユリウスに背を向け、横になる。
その耳がほんのり赤くなっているのに気付き、ユリウスは静かに微笑んだ。
「おやすみ、カミツレ。」
返事はない。
ただ、部屋にはカモミールの柔らかな香りと、薪のはぜる小さな音だけが残った。
それからユリウスは、生き残った人々を探し集め、北の地に新たな人間の集落を築き始めた。
すべてはゼロからの出発であり、困難の連続であったが、人々は互いに助け合いながら、長い年月をかけて少しずつ国の形を整えていった。
噴火が起こる以前――産業革命が進み、人間の文明は大きく発展していた。
しかしユリウスは、あえて文明を再び発展させることはしなかった。
より自然に近い形で。無駄な争いを生まぬように。
そして、世界の意思を汲んで。
ユリウスが喰らうまで神蟲に流れていた“世界の感情”は、朧気ながらもユリウスの中に受け継がれていた。
噴火を起こし、ユリウスから大切なものを奪った世界を許すつもりは毛頭ないが、環境を壊され、苦しみ、嘆いていた世界のことを――彼は理解できないわけではなかった。
文明を発展させなかった結果、かつて工場の煙に覆われ曇天だった空は、いまや澄みきった青を取り戻していた。
国づくりのかたわら、ユリウスは神蟲の力を用いて、動物や魚、作物など――記憶に残る限りの生命を、一つずつ蘇らせていった。
荒れ果てていた大地に再び息吹が宿り、北の地はゆっくりと豊かな人の国へと姿を変えていく。
その奇跡の光景を目の当たりにした人々は、ユリウスを王として担ぎ上げ、彼の力を「神より授かった奇跡の魔法」と呼ぶようになっていった。
「――この世界に、神など存在しない。」
ユリウスがいくらそう言葉を投げかけても、誰も耳を傾けようとはしなかった。
噂は一人歩きを続け、彼への信仰は日を追うごとに深まっていく。
その現状に悩んでいると、ある日、仲間のひとりがユリウスにこう言った。
「復興の途中では、信仰の対象が必要だ。あんな悲劇があったら尚更。人は何かを信じなければ、前に進めない。」
その言葉に、ユリウスは長く沈黙した。やがて、ただ一度、小さく頷く。
不本意ではあったが、ユリウスは人々の前で神を否定することをやめた。
ようやく得られた人々の安らぎを、ここで壊すわけにはいかなかったのだ。
そして、彼とともに築かれたその国は、後の世に「ノルデン帝国」と呼ばれ、人々は彼を“神に選ばれし王”と讃えた。
建国の記憶は、こうして神話のように後世へと語り継がれていくのであった。
❖❖❖❖❖
そんな日々の中、ユリウスは時間を見つけては、あの洞窟で出会った“彼女”のもとを訪れていた。
最初の頃こそ、姿を見せるたびに矢を放たれたものだが、最近では――歓迎こそされないものの、追い払われることはなくなっていた。
――冬が近づき、底冷えする風が吹きすさぶある日のこと。
温かな上着を渡そうと、ユリウスはいつものように洞窟を訪れた。
しかし、入口に差しかかった瞬間――息を呑む。
岩場の陰に、彼女が倒れていた。
鼻先をかすめる鉄の匂い。
岩肌を濡らす赤。
その光景を見た瞬間、ユリウスの全身から血の気が引いた。
彼は我を忘れて駆け寄り、ぐったりとした身体を抱き起こす。
その身体は燃えるように熱く、腕には深い裂傷が走っていた。
「何があったんだ!この怪我はいったい……!」
ユリウスの声に、彼女はうっすらと目を開けると、嫌そうに顔を顰めた。
「……騒ぐな……鬱陶しい。」
「で、でも──!」
「ただの……かすり傷だ。」
「かすり傷、だって……?」
彼女の白い腕を見たユリウスは、息を詰まらせる。
傷は深く、出血は止まっていない。おそらく鋭い岩か何かで切ったのだろう。
粗末に巻かれた布が血に染まり、すでに手当ての意味をなしていなかった。
「これのどこがかすり傷なんだ……!重症じゃないか!おいっ、しっかり…!」
彼女はユリウスの腕の中で意識を失った。
その姿が、自ら命を絶ったゾフィーと重なり、息を呑む。
呼吸が乱れ、冷や汗が頬を伝い、手が震え始める。
ユリウスは彼女が世界から消えることに恐怖を覚えた。
「だ、ダメだ……ダメだダメだ……!」
ユリウスは無我夢中で神蟲の力を解放した。 淡い光が彼女の傷口を包み、裂けた肌がゆっくりと閉じていく。
それでも彼女の熱は下がらず、生命の灯は心許ないままだった。
このままでは危険だと判断し、ユリウスは彼女を抱き上げると、神蟲の力を使い一瞬で国へと連れ帰った。
清潔な寝台に彼女を横たえ、ユリウスは国の女性たちを呼び、必要なものを次々と運ばせた。そして、自らも懸命に看病し、彼女の傍を片時も離れなかった。
――どれほどの時が過ぎただろう。
深い静寂の中で、彼女が小さく身じろぎをした。やがて、重たげに瞼が開く。翡翠色の瞳が現れた瞬間、勢いよく椅子から立ち上がったユリウスは大きく息を吐き、胸の奥で固まっていた不安をようやく解いた。
「あぁ……よかった。目が覚めたんだね。具合はどう?痛むところはない?寒くない?あ、何か食べたいものとかある?それとも飲み物がいいかな?」
矢継ぎ早に問いかけるユリウスに、彼女は鬱陶しそうに眉をひそめた。
「……やかましい。……ここはどこだ?」
むくりと身を起こそうとする彼女の背を、ユリウスはそっと支えた。
「まだ寝てて。熱があるんだ。」
ユリウスは彼女を再びベッドに寝かせ、額のタオルを取り替える。そして、ここが自分たちが築いた新しい国であること、彼女を安全な場所へ運んだことを伝えた。
すると、彼女はわずかに目を細め、冷ややかに言った。
「勝手に……治すな。」
ユリウスは息を呑む。
「でも、あのまま放っておいたら、君は死んでいたかもしれない。」
「あれぐらいの怪我、大したことじゃない。それに――治されても、対価が払えない。」
その言葉に、ユリウスははっとした。
彼女はいつもそうだった。
ユリウスが何かを差し出せば、彼女は必ず何かしらの対価を支払ってきた。
ユリウスが鶏肉を渡せば彼女は魚で返し、毛布を渡せば狐の毛皮を差し出す。
野菜を持っていけば、山菜を渡された。
そうやって今までずっと一人で生きてきたのだろう。
ユリウスの胸の奥には、言葉にならないものが溢れていた。
「対価なんていらないよ。僕がしたくてやっているだけなんだから。」
「……。」
彼女はユリウスを、奇妙なものでも見るかのように眉をひそめた。
「……やっぱり、あの洞窟で一人で暮らすのは危険だよ。僕たちとここで一緒に暮らしたほうが――」
「またその話か。俺は、人と群れる気はない。」
ユリウスは彼女の元へ訪れるたびに、一緒の国で暮らそうと説得し続けていた。
しかし、彼女の意思は頑なだった。
「でも、今回はたまたま助けられたけど……次もそう上手くいくとは限らない。もし間に合わなかったら……。僕の力は、生きている人にしか使えないんだ。」
ユリウスの声には焦りが滲んでいた。
言葉を重ねるたびに、彼女は眉をひそめ、視線を逸らす。
「お願いだ。ここで暮らしてほしい。」
「……なぜそこまで気にする?俺とお前はただの他人だろ。」
ユリウスはそこで、言葉に詰まる。
何故と問われても、ユリウスは明確な答えを持っていなかった。
ただなぜか彼女のことを放っておけない。
だが、強いて言うなら―――
「……僕には、妹がいたんだ。」
ユリウスはポツリポツリとゾフィーのことを話す。
国を立てて以来、ユリウスが誰かにゾフィーの話をするのは、これが初めてだった。
「―――救えたはずの命が、目の前で消えるのがもう嫌なんだ。」
「お前の妹と俺を重ねるな。はっきり言って迷惑だ。」
「……ごめん。でも、僕は君に死んでほしくない。」
彼女は深く息を吐き、天井を見上げた。
「話にならん。」
そのとき、戸口から小さなノックの音が響いた。
「王様。新しいお水をお持ちしました。今、入ってもよろしいでしょうか?」
扉の向こうから、彼女の看病を手伝ってくれている若い少女の声がした。
ユリウスがちらりと彼女の方を見ると、彼女は警戒するように肩を強ばらせていた。
「大丈夫。ここに君を傷つける者はいないよ。」
そう優しく告げてから、ユリウスは扉を開け、少女を部屋に招き入れた。
少女は水の入った桶を抱え、部屋の中に入ると、目を輝かせた。
「あ、気が付いたんですね!良かった……!みんな、貴女のことを心配していたんですよ。」
少女の言葉に、彼女は目を瞬かせ、まるで言葉の意味を飲み込めないようにぽかんとした。
ユリウスは女の子から桶を受け取り、代わりに温くなった水が張った桶を渡す。
「彼女に、何か温かい飲み物を持ってきてくれないかな。」
ユリウスがそう言うと。女の子は嬉しそうに頷いた。
「かしこまりました!すぐにお持ちしますね。」
軽やかに一礼して部屋を後にする少女の姿を、彼女はぼんやりと目で追っていた。そんな彼女に、ユリウスは柔らかく笑いかける。
「ほらね。」
「……。」
建国する際、彼女の白髪が人々の恐怖や偏見の的にならぬよう、ユリウスは神蟲の力を使い、人々の認識を細やかに書き換えた。
白髪はただの個性として受け入れられ、不信や蔑みが芽生えぬように、思考の流れさえも整えた。
人間の思考にメスを入れる際、倫理や道徳といった言葉が一瞬頭をよぎったが、彼女のことを思えば、ためらいはすぐに消えた。
この国は、彼女のために創った言っても過言ではない。
彼女の額に乗せる濡れタオルを取り換えていると、再びノック音がした。
先程の少女が戻ってきたのだ。
扉を開けたユリウスはお礼を言って、少女からティーポットとティーカップが載ったトレイを受け取った。
「今日はこれを飲んで、ゆっくり休んで。」
「……それは?」
「ハーブティーだよ。身体を温めて、免疫を高めてくれる。」
ユリウスは湯気の立つカップにお茶を注ぎ、そっと差し出した。
彼女は上体を起こし、慎重にそれを受け取る。
柔らかな香りが立ちのぼり、翡翠の瞳に湯気の光が揺れた。
「……嗅いだことのない香りだ。」
「カモミールの花の香りだよ。」
「カモミール?」
「うん。君の髪みたいに白くて、小さな花。見たことない?」
「……多分、ない。」
彼女はそう呟くと、少しだけ息を吸い込み、恐る恐るカップを唇に運んだ。
一口、口に含み、静かに飲み下す。
その様子を見守っていたユリウスがそっと尋ねる。
「どう?口に合う?」
「……悪くない。」
彼女のほんのわずかに緩んだ口調に、ユリウスは嬉しそうに微笑んだ。
「良かった……。あ、そうだ。まだ君の名前を聞いていなかったね。僕はユリウス。君は?」
「俺に名前はない。」
淡々とした返答には、どこか投げやりな響きを帯びていた。
ユリウスはすぐにやってしまったと思った。
「ご、ごめん…」
「別に。名前なんて必要ない。」
「でも、呼ぶときに困るよね…。呼ばれたい名前とかはある?」
「ない。」
「そ、そっか……じゃあ、僕が決めてもいい?」
「勝手にしろ。」
そのぶっきらぼうな返事に、ユリウスは苦笑をこぼした。
「ありがとう、そうだな……」
小さく肩を竦めながら、ユリウスはしばし考える。彼女の髪に視線を落とすと、窓から差し込む陽の光がによって、まるで雪明かりのように柔らかく光っていた。
ふと、ユリウスの脳裏に昔の記憶が蘇る。
「『カミツレ』なんてどうかな?」
「カミツレ?」
「うん。カモミールの別名なんだ。小さくて、白くて、強い花。花言葉は――『逆境に耐える』や、『苦難の中で生まれる力』。なんか……君にぴったりだと思って。」
それは、ユリウスの母とゾフィーが好きだった花だった。
かつて彼が暮らしていた村では、春になるとあちこちにその白い花が咲き、家の中にはいつもカモミールティーのやさしい香りが漂っていた。
ユリウスの言葉に、彼女はわずかに視線を落とした。
湯気の向こうで、翡翠の瞳がかすかに揺れる。
「……花の名前なんて、俺には似合わない。」
「そんなことないよ。強くて、綺麗で、どんな場所でも咲ける。まるで、君みたいだ。」
「………。」
彼女はユリウスを軽く睨み、飲み干したティーカップをユリウスに押し返した。
「少し寝る。」
「あ、うん。ゆっくり休んで。君が眠るまで、ここに――」
「失せろ。鬱陶しい。」
「ちゃ、ちゃんと静かにしているよ。」
「存在が鬱陶しい。」
「そんな……」
ユリウスはガックリと肩を落とした。
彼女―――カミツレはユリウスに背を向け、横になる。
その耳がほんのり赤くなっているのに気付き、ユリウスは静かに微笑んだ。
「おやすみ、カミツレ。」
返事はない。
ただ、部屋にはカモミールの柔らかな香りと、薪のはぜる小さな音だけが残った。
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今さら「本当に愛していたのは君だ」と言われても、裏切ったあなたを許すことはできない。
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妻にも母にもなれなかった伯爵夫人イネス。
過去を悔いながらも、愛を手に入れることを決めた彼女が辿り着いた先には――
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棗
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※一部タイトルを変えました。
伯爵令嬢フィオーレは、自分がいつか異母妹を虐げた末に片想い相手の公爵令息や父と義母に断罪され、家を追い出される『予知夢』を視る。
現実にならないように、最後の学生生活は彼と異母妹がどれだけお似合いか、理想の恋人同士だと周囲に見られるように行動すると決意。
自身は卒業後、隣国の教会で神官になり、2度と母国に戻らない準備を進めていた。
――これで皆が幸福になると思い込み、良かれと思って計画し、行動した結果がまさかの事態を引き起こす……
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