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第1章:漂流の始まり――宮廷という伏魔殿
第26話:選んだ孤独と、降ろされた手
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――翌日の夕方。
殿下の執務室を訪ねた。
「短い間でしたが、大変お世話になりました。殿下の御健勝、そして、帝国の繁栄と国民の幸せをお祈りしております」
そう言って、署名済みの離縁届と結婚指輪を差し出した。
結局、指輪のサイズは調整されないまま。
最後まで、私の指には合わなかった。
ま、これで私が成人したときか、数年して国際情勢が落ち着けば、自動的に離縁の手続きが行われるだろう。
でも、ネックレスには手を伸ばせなかった。
本来なら、指輪と一緒に返すべきなのかもしれない。
けれど、どうしても外せなかった。
ただの装飾品じゃなかったから。
これを返してしまったら、何かが音を立てて終わりそうで……怖かった。
「こんなに早急に出て行かなくともよいだろう?」
「『思い立ったが吉日』。帝国の諺ですよね?」
「……明日は、何時に発つ?」
そう尋ねた殿下の声が、なぜか少しだけ、寂しげに聞こえた。
「朝の8時に」
殿下は静かに立ち上がった。
視線を逸らさず、ゆっくりと歩み寄ってくる。
そして、何も言わずに、私を腕の中に囲った。
鼻先に、殿下の衣の香がふわりと漂い、彼の心音が、静かに響いた。
耳元に、低く、静かな声が落ちる。
「明日は、一緒に朝食を取ろう」
「……はい」
ほんの一瞬、彼の胸に頭を預けてから、一歩引いて距離を取る。
背筋を伸ばし姿勢を整えると、精一杯の美しいカーテシーをして、殿下にさよならを告げた。
執務室から出た瞬間、背筋を伸ばしていたはずの身体から力が抜けた。
廊下を歩き出した途端に視界が揺れ、涙が次から次へと溢れ出す。
自分で決めたことなのに――。
窓辺に差し込む夕暮れの光が、頬を赤く照らした。
王国より少し遅いその光は、淡く、優しく、祖母の眼差しのように思えた。
祖母の言葉が、ふと胸に蘇る。
「誰も褒めてくれなくてもね――ヘレナの頑張りは、ちゃんと私が見ているよ。
私がいなくなったら? ふふ、その時は、お天道様にお願いしておくの。
ヘレナのこと、ずっと見守ってくださいませ、とね」
……お祖母様。
「今の私も、見てくれていますか? ……少しだけ、お休みしてもいいでしょうか。居場所探し」
沈黙の中でしか聞こえない声が、届いた気がした。
きっと祖母なら、こう言ってくれる。
『森だって、冬には眠るのよ。春に芽吹くために。休むことも成長のうち。ヘレナもおんなじ、だいじょうぶ』
だから今は、涙のまま眠ろう。
……そう思ったのに、どうしてもあのことが気になっていた。
その夜、荷造りの合間に、私は宮廷画家を呼んだ。
「私がちゃーんと皇太子妃教育を受けていたことを、記録に残してほしいの」
そう言って、まともに使ったことのない執務机に腰かけた。
机の上には、会計学の教科書と、数字と符号の羅列が並ぶ2枚のシート。
そして背後の壁には、何かの構造を描いたような紙を貼りつけた。
勉強の補助資料に見せかけて。
「……私のノートにある数字の並びも、符号の形も、インクの濃淡も――一字一句違えずに描いてね?
殿下ってば、すっごく細かいの。計算間違いを見つけようものなら、どや顔で正してくるんだから!」
画家は一瞬、怪訝そうに眉をひそめた。
けれど、やがて黙って筆を走らせる。
この人は、寝グセの一本まで描き込むほど精密な人だ。
だから、数字の羅列だって「勉強用のメモ」として写すことに、何の違和感も覚えないだろう。
――むしろ、この異質な紙質に至るまで、きっちり再現してくれそうだ。
これは、ただの覚え書きじゃない。
数字の並びには、帳簿を扱ってきた者にしか分からない“裏”の匂いが漂っていた。
そして、図形を歪めたような符号も、図表も政策をまとめたような資料には見えなかった。
けれど、私にはそれを追及する権限も立場もない。
だから――せめて、残すことだけはしておこう。
消されてしまう前に、痕跡だけでも。
「……できあがったら、陛下に渡してちょうだい」
一瞬、筆先が止まった。
あの朝、冗談半分で「パトロンは陛下ね?」と口にした時と同じ反応。
先ほどから、ふわりと漂う気配。
帝国の威厳を象徴する竜涎香――アンバーグリスと呼ばれる、海の深みから生まれる芳香。
初めて謁見の間で陛下に拝したとき、玉座の周りに漂っていた。
初対面のときから、宮廷画家にも同じ匂いを感じていた。
あの時は気のせいだと思って笑い飛ばしたけれど――今なら分かる。
「あなたのパトロンは、陛下なのでしょう?」
「妃様……」
その沈黙は、筆よりも雄弁だった。
私には扱えないけれど、陛下ならきっと意味を見つけてくださるはず。
この小さな行為が、後に殿下の物語を動かすことになるなんて――この時の私はまだ知らなかった。
翌朝。
日の出とともに、宮殿を発った。
昨夜、挨拶は済ませた。
朝、食事を一緒にしようと誘われたけど、それは社交辞令の一環だと思うことにした。
殿下との、最後の約束だったかもしれないのに。
それを反故にしちゃったことに、胸の奥がチクりと痛んだ。
それでも、綺麗に、去りたかった。
せめて最後くらい、王国の女の誇りを持ちたかった。
――それが建前。
本当はただ、殿下の記憶に残る私が、少しでも綺麗であってほしかった。
涙を見せずに去る自信を、どうしても持てなかった。
王国では、別れの挨拶は抱擁するのがお決まりだ。
温もりを交わして、涙を見せても許される。
でも、帝国では――静かに、背筋を伸ばして去るのが美しいとされる。
だからきっと。
帝国流の“礼節”には――こっちのほうが、正しいのだろう。
――捨てられた、と思えたらよかったのに。
そうじゃないのが、ちょっとだけ、辛い。
『叔父くらいに思ってくれたらいい』と言われたけれど、そもそも私は、叔父という存在を知らない。
世間一般には「甘えられる存在」なのだとしたら、その言葉に、少しだけ憧れた。
でも私には、結局それがどういうものか、最後まで分からなかった。
それでも――私を離宮へ追いやることが、殿下の“優しさ”だったのなら。
その優しさに、今はすがらせてほしい。
――長年使われていなかった静寂を保つ森の離宮。
その扉を開けた先に、私の新しい物語が待っていることなど、まだ想像もしていなかった。
◆◆◆
ヘレナが離宮へ移る前に、最後に食事を共にしたかった。
朝。まだ空が明けきらぬ頃、家族用の食堂で席を整えて待った。
だが、8時を過ぎても彼女は来ない。
「……日の出とともに、発たれました」
侍従の言葉に、胸の奥がスッと沈んだ。
昨夜の挨拶が、最後だったのか。
綺麗に去りたかったのだろう。
帝国流の“礼節”を、彼女は誰よりも大切にしていた。
――自分は、沈黙しか選ばなかった。
あの時、手を差し伸べれば、彼女の決意を揺らがせてしまう。
必死に自分の足で立とうとする姿を、止めることはできなかった。
だが、この沈黙こそが、彼女を最も深く傷つけたのだとしたら。
……自分の沈黙は、やはり罪だ。
***
ここまでお読みいただき、ありがとうございます(^^)
第1章 宮廷編はここまでとなります。
第2章 離宮編は、12/31から投稿再開いたします。
引き続き、ヘレナの旅路を一緒に見守っていただけますと嬉しいです。
殿下の執務室を訪ねた。
「短い間でしたが、大変お世話になりました。殿下の御健勝、そして、帝国の繁栄と国民の幸せをお祈りしております」
そう言って、署名済みの離縁届と結婚指輪を差し出した。
結局、指輪のサイズは調整されないまま。
最後まで、私の指には合わなかった。
ま、これで私が成人したときか、数年して国際情勢が落ち着けば、自動的に離縁の手続きが行われるだろう。
でも、ネックレスには手を伸ばせなかった。
本来なら、指輪と一緒に返すべきなのかもしれない。
けれど、どうしても外せなかった。
ただの装飾品じゃなかったから。
これを返してしまったら、何かが音を立てて終わりそうで……怖かった。
「こんなに早急に出て行かなくともよいだろう?」
「『思い立ったが吉日』。帝国の諺ですよね?」
「……明日は、何時に発つ?」
そう尋ねた殿下の声が、なぜか少しだけ、寂しげに聞こえた。
「朝の8時に」
殿下は静かに立ち上がった。
視線を逸らさず、ゆっくりと歩み寄ってくる。
そして、何も言わずに、私を腕の中に囲った。
鼻先に、殿下の衣の香がふわりと漂い、彼の心音が、静かに響いた。
耳元に、低く、静かな声が落ちる。
「明日は、一緒に朝食を取ろう」
「……はい」
ほんの一瞬、彼の胸に頭を預けてから、一歩引いて距離を取る。
背筋を伸ばし姿勢を整えると、精一杯の美しいカーテシーをして、殿下にさよならを告げた。
執務室から出た瞬間、背筋を伸ばしていたはずの身体から力が抜けた。
廊下を歩き出した途端に視界が揺れ、涙が次から次へと溢れ出す。
自分で決めたことなのに――。
窓辺に差し込む夕暮れの光が、頬を赤く照らした。
王国より少し遅いその光は、淡く、優しく、祖母の眼差しのように思えた。
祖母の言葉が、ふと胸に蘇る。
「誰も褒めてくれなくてもね――ヘレナの頑張りは、ちゃんと私が見ているよ。
私がいなくなったら? ふふ、その時は、お天道様にお願いしておくの。
ヘレナのこと、ずっと見守ってくださいませ、とね」
……お祖母様。
「今の私も、見てくれていますか? ……少しだけ、お休みしてもいいでしょうか。居場所探し」
沈黙の中でしか聞こえない声が、届いた気がした。
きっと祖母なら、こう言ってくれる。
『森だって、冬には眠るのよ。春に芽吹くために。休むことも成長のうち。ヘレナもおんなじ、だいじょうぶ』
だから今は、涙のまま眠ろう。
……そう思ったのに、どうしてもあのことが気になっていた。
その夜、荷造りの合間に、私は宮廷画家を呼んだ。
「私がちゃーんと皇太子妃教育を受けていたことを、記録に残してほしいの」
そう言って、まともに使ったことのない執務机に腰かけた。
机の上には、会計学の教科書と、数字と符号の羅列が並ぶ2枚のシート。
そして背後の壁には、何かの構造を描いたような紙を貼りつけた。
勉強の補助資料に見せかけて。
「……私のノートにある数字の並びも、符号の形も、インクの濃淡も――一字一句違えずに描いてね?
殿下ってば、すっごく細かいの。計算間違いを見つけようものなら、どや顔で正してくるんだから!」
画家は一瞬、怪訝そうに眉をひそめた。
けれど、やがて黙って筆を走らせる。
この人は、寝グセの一本まで描き込むほど精密な人だ。
だから、数字の羅列だって「勉強用のメモ」として写すことに、何の違和感も覚えないだろう。
――むしろ、この異質な紙質に至るまで、きっちり再現してくれそうだ。
これは、ただの覚え書きじゃない。
数字の並びには、帳簿を扱ってきた者にしか分からない“裏”の匂いが漂っていた。
そして、図形を歪めたような符号も、図表も政策をまとめたような資料には見えなかった。
けれど、私にはそれを追及する権限も立場もない。
だから――せめて、残すことだけはしておこう。
消されてしまう前に、痕跡だけでも。
「……できあがったら、陛下に渡してちょうだい」
一瞬、筆先が止まった。
あの朝、冗談半分で「パトロンは陛下ね?」と口にした時と同じ反応。
先ほどから、ふわりと漂う気配。
帝国の威厳を象徴する竜涎香――アンバーグリスと呼ばれる、海の深みから生まれる芳香。
初めて謁見の間で陛下に拝したとき、玉座の周りに漂っていた。
初対面のときから、宮廷画家にも同じ匂いを感じていた。
あの時は気のせいだと思って笑い飛ばしたけれど――今なら分かる。
「あなたのパトロンは、陛下なのでしょう?」
「妃様……」
その沈黙は、筆よりも雄弁だった。
私には扱えないけれど、陛下ならきっと意味を見つけてくださるはず。
この小さな行為が、後に殿下の物語を動かすことになるなんて――この時の私はまだ知らなかった。
翌朝。
日の出とともに、宮殿を発った。
昨夜、挨拶は済ませた。
朝、食事を一緒にしようと誘われたけど、それは社交辞令の一環だと思うことにした。
殿下との、最後の約束だったかもしれないのに。
それを反故にしちゃったことに、胸の奥がチクりと痛んだ。
それでも、綺麗に、去りたかった。
せめて最後くらい、王国の女の誇りを持ちたかった。
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本当はただ、殿下の記憶に残る私が、少しでも綺麗であってほしかった。
涙を見せずに去る自信を、どうしても持てなかった。
王国では、別れの挨拶は抱擁するのがお決まりだ。
温もりを交わして、涙を見せても許される。
でも、帝国では――静かに、背筋を伸ばして去るのが美しいとされる。
だからきっと。
帝国流の“礼節”には――こっちのほうが、正しいのだろう。
――捨てられた、と思えたらよかったのに。
そうじゃないのが、ちょっとだけ、辛い。
『叔父くらいに思ってくれたらいい』と言われたけれど、そもそも私は、叔父という存在を知らない。
世間一般には「甘えられる存在」なのだとしたら、その言葉に、少しだけ憧れた。
でも私には、結局それがどういうものか、最後まで分からなかった。
それでも――私を離宮へ追いやることが、殿下の“優しさ”だったのなら。
その優しさに、今はすがらせてほしい。
――長年使われていなかった静寂を保つ森の離宮。
その扉を開けた先に、私の新しい物語が待っていることなど、まだ想像もしていなかった。
◆◆◆
ヘレナが離宮へ移る前に、最後に食事を共にしたかった。
朝。まだ空が明けきらぬ頃、家族用の食堂で席を整えて待った。
だが、8時を過ぎても彼女は来ない。
「……日の出とともに、発たれました」
侍従の言葉に、胸の奥がスッと沈んだ。
昨夜の挨拶が、最後だったのか。
綺麗に去りたかったのだろう。
帝国流の“礼節”を、彼女は誰よりも大切にしていた。
――自分は、沈黙しか選ばなかった。
あの時、手を差し伸べれば、彼女の決意を揺らがせてしまう。
必死に自分の足で立とうとする姿を、止めることはできなかった。
だが、この沈黙こそが、彼女を最も深く傷つけたのだとしたら。
……自分の沈黙は、やはり罪だ。
***
ここまでお読みいただき、ありがとうございます(^^)
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第2章 離宮編は、12/31から投稿再開いたします。
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