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第1章:漂流の始まり――宮廷という伏魔殿
第25話:追放ではなく選択
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夕方は、あの紳士の言葉に少しだけ救われた。
けれど夜になると、また孤独の冷たさに引き戻される。
――それが、帝国に来てからの私の現実だった。
「――ナ?」
「――レナ?」
「へレナ?」
ぼんやりとした意識の中で、誰かの声が耳をかすめた。
けれど、それが自分に向けられたものだとは思わなかった。
視線の気配に、ようやく顔を上げる。
目の前には、殿下が立っていた。
何かを尋ねられている。
「――俺にもくれないか」
手元の皿を見下ろし、小さく頷いた。
「っ殿下!? 毒見がされていないものを召し上がるのは――」
「愚かなことを言うな。ヘレナは帝国の妃だ」
……名目上とはいえ、私は彼の妻なのに。
それでも、殿下の近くにいる者にすら、私は信用されていない。
その事実が、私の心に決定的な傷を刻んだ。
「どうして雑用など引き受けた?」
その問いに、少しだけ逡巡したのちーー正直に答えた。
「……役に立ちたくて」
「何もしなくていいと言ったはずだ」
「やめてよ! そういうの、すごく傷つくの。……ここにいていいのか、分からなくなるじゃない……」
「ヘレナの行動は、誇るべきものだ。だが、帝国で正しいとされる姿は、王国とは違う」
「私に……母国の誇りを捨てろと?」
「ヘレナのやり方を否定はしない。ただ、それだけでは受け入れられないこともある。……分かるだろう?」
「……ここに、私の役割はないってこと?」
「少なくとも、雑用をする必要はない」
「毎日、何もせず着飾って笑っていろと?」
「それが、帝国でいう“女性の幸せ”だ。――俺たちが、どう思おうと」
「馬鹿にしないでよ!」
胸の奥に積もった孤独が、堰を切ったように溢れ出した。
「結局、殿下も帝国の物差しでしか私を見てないじゃない!」
「今はまだ、ヘレナに公務を任せることはできない」
「たしかに私は敬語も覚束ないし、学もないけど。でも少しくらいなら――」
「執務はイヴェットが務めている。……今は、それで十分だ」
「夜のお相手も、彼女が?」
言った瞬間、胸が痛んだ。
本当は、そんなことを口にしたいわけじゃなかったのに。
でも――確かめずには、いられなかった。
「……彼女を侮辱する発言は許さない」
殿下の瞳が揺れた。
その怒りに、逆に少しだけ安心した。
殿下にとって、イヴェットは信頼に足る人物らしい。
そんな人が公務を代行してくれるのなら、大丈夫だろう。
「殿下には――クリステル様とイヴェット様がいれば十分なんでしょう?」
「クリステルのことを、誰から聞いた?」
殿下の表情が一瞬で硬くなり、心がギュッと痛む。
温室での、酷く動揺したクリステル様の姿が蘇る。
私は決して、殿下の“家族”を傷つけたりはしないのに。殿下まで私のこと――。
「そんなに怒らなくても。偶然、温室でお会いしただけです」
「衛兵は何をしていた!?」
「申し訳ございません!!」
普段は決して声を荒げることのない殿下が衛兵を断じる声を、どこかぼんやり聞いていた。
ここでも、私の存在は置いてきぼりみたい……。
「公務も不要、伽も不要。だったら私は、何をすればいいのよ」
声が震えた。
怒りじゃない。悲しみだった。
「……もう、ここにいるのが辛いの。誰にも必要とされないのは、苦しいの。ねぇ、助けてよ!」
そう訴えても、返ってきたのは沈黙だけだった。
誰かに責められるよりも、何も言われない方がずっと苦しい。
まるで、透明な壁の向こうに閉じ込められたみたいに。
沈黙は、私を存在しないものにしてしまう。
「なんで黙るのよ。あなたは私の――叔父さん、なのに」
どうしたって、届かないみたい。
私の覚悟も、声も。殿下に、何ひとつ。
“叔父さん”と呼んだ瞬間、彼の瞳が苦しそうに揺れた。
「……離宮で過ごしたいのなら、そう……手配する」
「他にも離宮があるの?」
「帝都から離れた森の中にある。そこでなら、心静かに過ごせるだろう」
殿下の言葉に、レオポルドが一瞬だけ目を伏せ、静かに頷いた。
まるで、こうなることを予見していたかのように。
「分かりました。そちらへ居を移します」
「公式行事など、どうしても妃の出席が必要な場合には、出てきてもらうことになる」
「その時は、綺麗に着飾って、貴方の隣で幸せそうに笑っていれば良いんでしょう?」
空笑いしながらも、声は震えていた。
「予算や使用人は、今の範囲内で私に権限をいただけますか?」
絞りだすように言葉を紡いだ。
「……いいだろう」
「1日時間をください。その間に荷物をまとめるから」
「離宮は長い間使われていない。住める状態になるまでは宮殿にいればいい」
「だったら、自分で住める状態にします。わたし、料理だけじゃなくて掃除も――王国仕込みなので!」
「ヘレナ――」
殿下は何かを言いかけて、そっと手を伸ばしてきた。
でも、私は顔をそむけた。
その瞬間、彼の手が、ゆっくりと下ろされた。
まるで、何かを諦めるように。
彼が、涙を拭おうとしてくれているのだと分かった。
だけど、今、甘えてしまったら――きっと私は、自分の足で立てなくなる。
だから、精一杯に強がった。
「叔父さま? ご心配なく。私、自分の居場所くらい――ちゃんと、自分で作ってみせますから」
私は一礼して、食堂を後にした。
口ではそう強がってみたけれど、胸の奥では分かっていた。
どこへ行っても、私はきっと“余所者”のままなのだと。
それでもこれは、“追放”ではなく、私自身の”選択”だと信じたかった。
その夜。
どこからか話を聞きつけた女官長が部屋までやってきた。
「離宮へ追いやるなんてあんまりです。もう一度、殿下へ抗議しに行ってまいります!」
常に冷静な女官長が、私のためにこんなにも感情を露わにして怒ってくれたのが意外だった。
「女官長、あなた――殿下に抗議したの?」
「当たり前です! こんな――セレスティーナ様の形見を渡した女性を、あっさり遠くにやるなんて! あんな根性なしに育てた覚えはございません!」
「……形見? 何のこと?」
「そのネックレスでございます!」
まさか。
あの時、殿下が何も言わずに私の首にかけてくれたネックレスが――そんな、大切なものだったなんて。
指から抜け落ちそうになった指輪を通すためにって、思っていたけど。
どうして……。
「まさか。……ご存知ありませんでしたか?」
「ええ。何も――」
「まったく。肝心なことを、あの御方は――とにかく、エレナ様が出ていく必要などございません!」
「ダフネ。……ここに、私の居場所はないの」
「居場所なんて、これから作ればよろしいでしょう? 何を弱気に――エレナ様らしくもない」
「私たちの婚姻は、和平のためだから。国が平和になれば、お役御免なのよ。居場所をつくれば、去るのが辛くなるだけでしょう?」
「エレナ様……」
「本当はね、貴女もついてきてくれると心強いんだけど。そうそう我儘も言えないわね」
「申し訳ございません」
「そんな神妙な顔しないでよ。次、貴女に会うときには淑女らしくなって驚かせちゃうんだからね~?」
「語尾は伸ばさない」
「はいはい」
「『はい』は1回」
「……ダフネ。もしかして貴女、殿下のマナー教師だった?」
「そうですが」
「やっぱりね。そっくりだわ、その口調。とにかく――お元気で。たまには離宮に顔を出してちょうだいね」
「エレナ様も……」
そう言って女官長が泣き出すものだから、宥めるのが大変だった。
なぜか私の周りには、自分の代わりに泣いてくれる人が集まってくるみたいだ。
ずっと、ここには居場所がないと思っていた。
でも、私の代わりに怒ってくれる人がいて、泣いてくれる人がいてくれた。それだけで、ここで過ごした日々が確かな形を帯びていく気がして、心に温もりが戻ってくるのを感じた。
もし、次に宮殿を訪れることがあるならばーーその時は、大事なことにちゃんと気付ける自分になっていたい。
けれど夜になると、また孤独の冷たさに引き戻される。
――それが、帝国に来てからの私の現実だった。
「――ナ?」
「――レナ?」
「へレナ?」
ぼんやりとした意識の中で、誰かの声が耳をかすめた。
けれど、それが自分に向けられたものだとは思わなかった。
視線の気配に、ようやく顔を上げる。
目の前には、殿下が立っていた。
何かを尋ねられている。
「――俺にもくれないか」
手元の皿を見下ろし、小さく頷いた。
「っ殿下!? 毒見がされていないものを召し上がるのは――」
「愚かなことを言うな。ヘレナは帝国の妃だ」
……名目上とはいえ、私は彼の妻なのに。
それでも、殿下の近くにいる者にすら、私は信用されていない。
その事実が、私の心に決定的な傷を刻んだ。
「どうして雑用など引き受けた?」
その問いに、少しだけ逡巡したのちーー正直に答えた。
「……役に立ちたくて」
「何もしなくていいと言ったはずだ」
「やめてよ! そういうの、すごく傷つくの。……ここにいていいのか、分からなくなるじゃない……」
「ヘレナの行動は、誇るべきものだ。だが、帝国で正しいとされる姿は、王国とは違う」
「私に……母国の誇りを捨てろと?」
「ヘレナのやり方を否定はしない。ただ、それだけでは受け入れられないこともある。……分かるだろう?」
「……ここに、私の役割はないってこと?」
「少なくとも、雑用をする必要はない」
「毎日、何もせず着飾って笑っていろと?」
「それが、帝国でいう“女性の幸せ”だ。――俺たちが、どう思おうと」
「馬鹿にしないでよ!」
胸の奥に積もった孤独が、堰を切ったように溢れ出した。
「結局、殿下も帝国の物差しでしか私を見てないじゃない!」
「今はまだ、ヘレナに公務を任せることはできない」
「たしかに私は敬語も覚束ないし、学もないけど。でも少しくらいなら――」
「執務はイヴェットが務めている。……今は、それで十分だ」
「夜のお相手も、彼女が?」
言った瞬間、胸が痛んだ。
本当は、そんなことを口にしたいわけじゃなかったのに。
でも――確かめずには、いられなかった。
「……彼女を侮辱する発言は許さない」
殿下の瞳が揺れた。
その怒りに、逆に少しだけ安心した。
殿下にとって、イヴェットは信頼に足る人物らしい。
そんな人が公務を代行してくれるのなら、大丈夫だろう。
「殿下には――クリステル様とイヴェット様がいれば十分なんでしょう?」
「クリステルのことを、誰から聞いた?」
殿下の表情が一瞬で硬くなり、心がギュッと痛む。
温室での、酷く動揺したクリステル様の姿が蘇る。
私は決して、殿下の“家族”を傷つけたりはしないのに。殿下まで私のこと――。
「そんなに怒らなくても。偶然、温室でお会いしただけです」
「衛兵は何をしていた!?」
「申し訳ございません!!」
普段は決して声を荒げることのない殿下が衛兵を断じる声を、どこかぼんやり聞いていた。
ここでも、私の存在は置いてきぼりみたい……。
「公務も不要、伽も不要。だったら私は、何をすればいいのよ」
声が震えた。
怒りじゃない。悲しみだった。
「……もう、ここにいるのが辛いの。誰にも必要とされないのは、苦しいの。ねぇ、助けてよ!」
そう訴えても、返ってきたのは沈黙だけだった。
誰かに責められるよりも、何も言われない方がずっと苦しい。
まるで、透明な壁の向こうに閉じ込められたみたいに。
沈黙は、私を存在しないものにしてしまう。
「なんで黙るのよ。あなたは私の――叔父さん、なのに」
どうしたって、届かないみたい。
私の覚悟も、声も。殿下に、何ひとつ。
“叔父さん”と呼んだ瞬間、彼の瞳が苦しそうに揺れた。
「……離宮で過ごしたいのなら、そう……手配する」
「他にも離宮があるの?」
「帝都から離れた森の中にある。そこでなら、心静かに過ごせるだろう」
殿下の言葉に、レオポルドが一瞬だけ目を伏せ、静かに頷いた。
まるで、こうなることを予見していたかのように。
「分かりました。そちらへ居を移します」
「公式行事など、どうしても妃の出席が必要な場合には、出てきてもらうことになる」
「その時は、綺麗に着飾って、貴方の隣で幸せそうに笑っていれば良いんでしょう?」
空笑いしながらも、声は震えていた。
「予算や使用人は、今の範囲内で私に権限をいただけますか?」
絞りだすように言葉を紡いだ。
「……いいだろう」
「1日時間をください。その間に荷物をまとめるから」
「離宮は長い間使われていない。住める状態になるまでは宮殿にいればいい」
「だったら、自分で住める状態にします。わたし、料理だけじゃなくて掃除も――王国仕込みなので!」
「ヘレナ――」
殿下は何かを言いかけて、そっと手を伸ばしてきた。
でも、私は顔をそむけた。
その瞬間、彼の手が、ゆっくりと下ろされた。
まるで、何かを諦めるように。
彼が、涙を拭おうとしてくれているのだと分かった。
だけど、今、甘えてしまったら――きっと私は、自分の足で立てなくなる。
だから、精一杯に強がった。
「叔父さま? ご心配なく。私、自分の居場所くらい――ちゃんと、自分で作ってみせますから」
私は一礼して、食堂を後にした。
口ではそう強がってみたけれど、胸の奥では分かっていた。
どこへ行っても、私はきっと“余所者”のままなのだと。
それでもこれは、“追放”ではなく、私自身の”選択”だと信じたかった。
その夜。
どこからか話を聞きつけた女官長が部屋までやってきた。
「離宮へ追いやるなんてあんまりです。もう一度、殿下へ抗議しに行ってまいります!」
常に冷静な女官長が、私のためにこんなにも感情を露わにして怒ってくれたのが意外だった。
「女官長、あなた――殿下に抗議したの?」
「当たり前です! こんな――セレスティーナ様の形見を渡した女性を、あっさり遠くにやるなんて! あんな根性なしに育てた覚えはございません!」
「……形見? 何のこと?」
「そのネックレスでございます!」
まさか。
あの時、殿下が何も言わずに私の首にかけてくれたネックレスが――そんな、大切なものだったなんて。
指から抜け落ちそうになった指輪を通すためにって、思っていたけど。
どうして……。
「まさか。……ご存知ありませんでしたか?」
「ええ。何も――」
「まったく。肝心なことを、あの御方は――とにかく、エレナ様が出ていく必要などございません!」
「ダフネ。……ここに、私の居場所はないの」
「居場所なんて、これから作ればよろしいでしょう? 何を弱気に――エレナ様らしくもない」
「私たちの婚姻は、和平のためだから。国が平和になれば、お役御免なのよ。居場所をつくれば、去るのが辛くなるだけでしょう?」
「エレナ様……」
「本当はね、貴女もついてきてくれると心強いんだけど。そうそう我儘も言えないわね」
「申し訳ございません」
「そんな神妙な顔しないでよ。次、貴女に会うときには淑女らしくなって驚かせちゃうんだからね~?」
「語尾は伸ばさない」
「はいはい」
「『はい』は1回」
「……ダフネ。もしかして貴女、殿下のマナー教師だった?」
「そうですが」
「やっぱりね。そっくりだわ、その口調。とにかく――お元気で。たまには離宮に顔を出してちょうだいね」
「エレナ様も……」
そう言って女官長が泣き出すものだから、宥めるのが大変だった。
なぜか私の周りには、自分の代わりに泣いてくれる人が集まってくるみたいだ。
ずっと、ここには居場所がないと思っていた。
でも、私の代わりに怒ってくれる人がいて、泣いてくれる人がいてくれた。それだけで、ここで過ごした日々が確かな形を帯びていく気がして、心に温もりが戻ってくるのを感じた。
もし、次に宮殿を訪れることがあるならばーーその時は、大事なことにちゃんと気付ける自分になっていたい。
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