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第1章:漂流の始まり――宮廷という伏魔殿
第24話:夢を手放した夜
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「今日は妻と夕食を共にする」と言うと、侍従の顔に戸惑の色が浮かんだ。
「妃様でしたら、夕食は不要だと連絡がありましたが」
「なに? ……夕食だけは料理長に作らせていただろう?」
「それが――」
久しぶりに戻った宮殿は、どこかよそよそしく感じられた。
足早に家族用の食堂へと向かう。
扉を開けると、そこにはヘレナがいた。
テーブルの上には、サンドイッチやパイ、総菜のタルトなどが収められた包みが整然と並べられている。
彼女はただ黙々と、それらを食べていた。
目を細めている様子から、怒っているのかと思ったが――違った。
涙の痕はないが、頬にわずかな赤みが差し、目尻がいつもより少しだけ硬い。
口元も、何かを噛みしめるように強張っている。
――泣いていたのか?
誰にも悟られまいと背筋を伸ばしている姿が、なぜか胸に痛みを残した。
「――あれはどうした」
「妃様の執務室に仕える者たちへ籠入りの軽食を手渡したそうなのですが、誰も召し上がらなかったようで」
「軽食? そんなことをしているのか」
思わず声が低くなる。
……俺が帝都を離れていた間に、そんなことを?
「少しでもお役に立ちたいとおっしゃって。皇太子妃教育の合間に、お茶くみから書庫の整理まで、雑用を買って出ているようです」
雑用……? なぜ彼女が。
「皇太子妃教育はどうなっている」
「それが……セヴラン先生と女官長いわく、教えることがないくらい優秀だと。改善すべき点があるとすれば、帝国語の敬語遣いくらいだそうです」
「……そうか」
彼女が聡明なことは知っている。
サーフォーク領の運営を、彼女が祖母と担っていたことも。
実務に裏付けされた行動力が、文官たちの対抗意識を刺激したのかもしれない。
「王国の貴族学院では首席だったそうです。あちらでの王太子妃教育は終わらせていたとも聞きますし」
「加えて、あの女豪傑として名を馳せたアン夫人自らが教育を施したんだ。――当然、か」
俺の恩師であるセヴラン。
マナー教師を務めたダフネ。
腹心の騎士、レオポルド。
彼女を導いてくれるこの3人がいれば、大丈夫だ――そう思い込んでいた。
老獪な議員たちを前にしても怯まず渡り合える知恵と品格。
危険から身を守る術。
実際、彼女に必要なものは、彼らがすべて授けてくれていた。
それが、彼女の心を見落とすことになるとは、思いもしなかった。
自分が傍にいるべきだった。
その事実だけが、胸に重くのしかかる。
少し、帝都を留守にしすぎたかもしれない……。
彼女の力量なら、イヴェットが代行している公務を担うこともできるはず。
だが――それを任せるわけにはいかない。
その理由を、彼女に伝えることはできない。
今は、まだ。
◆◆◆
夜だけは、料理長が私のために夕食を用意してくれることになっていた。
けれど食籠には、まだ手つかずの食事が山のように残っている。
「今夜はこれを食べなくちゃね」
――無駄にしてしまう前に、きちんと伝えよう。
そう思って、夕食は不要だと料理長へ直接伝えに厨房を訪れた。
感謝と謝罪を、口にしたかった。
けれど、扉の前で足を止めた。
中から、押し殺したような声が聞こえてきたから。
「……ったく、当てつけかよ」
「官僚たち、俺たちの菓子より妃様が作るやつの方が美味いって言ったんだぜ」
「何なんだよ」
胸の奥が、すうっと冷えていった。
足がすくんで、中に入る勇気を、どうしても持てなかった。
クッキーを差し入れたのは、殿下が朝食を取りながら会議をしていると知ったから。
花と果実のような香りを持つ、サーフォーク領の特別な茶葉を練り込んだ。
ほんの少しでも役に立ちたかった――それだけだった。
「文句を言う暇があるなら腕を磨け」
料理長の声が響いた。
陰口に加担しないその姿勢が、かえって胸に痛みを残した。
――私は、知らず知らずのうちに、彼らの誇りを踏みにじっていたのかもしれない。
私室へ戻る途中、すれ違った女官たちは、私に気づいていながら、ぎこちなく視線を逸らした。
彼女たちの顔に浮かんでいたのは、敵意ではなく――困惑だった。
まるで「声をかけられたら、どう返せばいいんだろう」と迷っているような、そんな表情。
だから、私も声をかけられなかった。
これ以上、困らせたくなかった。
だからーー私も視線を逸らして、ただ、静かに通り過ぎた。
嫌ってはいない。
けれど、妃として敬意を示すことは躊躇われる。
そういう曖昧な距離感が、かえって胸に堪えた。
その夜。
私は殿下の侍従へ焼き菓子のレシピを手渡した。
サーフォーク領の高級茶葉とともに。
どうせ私には、お茶会に招く友人もいない。
だから、クッキーの香りづけに使ってもらえたら、それでいい。
――領地にいた頃は違った。
身分も関係なく、気の合う友人たちを招いて、庭先で笑い合った。
湯気の立つ紅茶と、焼きたてのクッキー。
取りとめのないおしゃべりに花を咲かせて、夕暮れまで時を忘れた。
帝国でも、あんなふうに温かな絆でつながる仲間ができたら――そう願っていた。
けれど。
ずっと胸の奥にしまっていたその夢は、今夜、そっと風に放つことにした。
「妃様でしたら、夕食は不要だと連絡がありましたが」
「なに? ……夕食だけは料理長に作らせていただろう?」
「それが――」
久しぶりに戻った宮殿は、どこかよそよそしく感じられた。
足早に家族用の食堂へと向かう。
扉を開けると、そこにはヘレナがいた。
テーブルの上には、サンドイッチやパイ、総菜のタルトなどが収められた包みが整然と並べられている。
彼女はただ黙々と、それらを食べていた。
目を細めている様子から、怒っているのかと思ったが――違った。
涙の痕はないが、頬にわずかな赤みが差し、目尻がいつもより少しだけ硬い。
口元も、何かを噛みしめるように強張っている。
――泣いていたのか?
誰にも悟られまいと背筋を伸ばしている姿が、なぜか胸に痛みを残した。
「――あれはどうした」
「妃様の執務室に仕える者たちへ籠入りの軽食を手渡したそうなのですが、誰も召し上がらなかったようで」
「軽食? そんなことをしているのか」
思わず声が低くなる。
……俺が帝都を離れていた間に、そんなことを?
「少しでもお役に立ちたいとおっしゃって。皇太子妃教育の合間に、お茶くみから書庫の整理まで、雑用を買って出ているようです」
雑用……? なぜ彼女が。
「皇太子妃教育はどうなっている」
「それが……セヴラン先生と女官長いわく、教えることがないくらい優秀だと。改善すべき点があるとすれば、帝国語の敬語遣いくらいだそうです」
「……そうか」
彼女が聡明なことは知っている。
サーフォーク領の運営を、彼女が祖母と担っていたことも。
実務に裏付けされた行動力が、文官たちの対抗意識を刺激したのかもしれない。
「王国の貴族学院では首席だったそうです。あちらでの王太子妃教育は終わらせていたとも聞きますし」
「加えて、あの女豪傑として名を馳せたアン夫人自らが教育を施したんだ。――当然、か」
俺の恩師であるセヴラン。
マナー教師を務めたダフネ。
腹心の騎士、レオポルド。
彼女を導いてくれるこの3人がいれば、大丈夫だ――そう思い込んでいた。
老獪な議員たちを前にしても怯まず渡り合える知恵と品格。
危険から身を守る術。
実際、彼女に必要なものは、彼らがすべて授けてくれていた。
それが、彼女の心を見落とすことになるとは、思いもしなかった。
自分が傍にいるべきだった。
その事実だけが、胸に重くのしかかる。
少し、帝都を留守にしすぎたかもしれない……。
彼女の力量なら、イヴェットが代行している公務を担うこともできるはず。
だが――それを任せるわけにはいかない。
その理由を、彼女に伝えることはできない。
今は、まだ。
◆◆◆
夜だけは、料理長が私のために夕食を用意してくれることになっていた。
けれど食籠には、まだ手つかずの食事が山のように残っている。
「今夜はこれを食べなくちゃね」
――無駄にしてしまう前に、きちんと伝えよう。
そう思って、夕食は不要だと料理長へ直接伝えに厨房を訪れた。
感謝と謝罪を、口にしたかった。
けれど、扉の前で足を止めた。
中から、押し殺したような声が聞こえてきたから。
「……ったく、当てつけかよ」
「官僚たち、俺たちの菓子より妃様が作るやつの方が美味いって言ったんだぜ」
「何なんだよ」
胸の奥が、すうっと冷えていった。
足がすくんで、中に入る勇気を、どうしても持てなかった。
クッキーを差し入れたのは、殿下が朝食を取りながら会議をしていると知ったから。
花と果実のような香りを持つ、サーフォーク領の特別な茶葉を練り込んだ。
ほんの少しでも役に立ちたかった――それだけだった。
「文句を言う暇があるなら腕を磨け」
料理長の声が響いた。
陰口に加担しないその姿勢が、かえって胸に痛みを残した。
――私は、知らず知らずのうちに、彼らの誇りを踏みにじっていたのかもしれない。
私室へ戻る途中、すれ違った女官たちは、私に気づいていながら、ぎこちなく視線を逸らした。
彼女たちの顔に浮かんでいたのは、敵意ではなく――困惑だった。
まるで「声をかけられたら、どう返せばいいんだろう」と迷っているような、そんな表情。
だから、私も声をかけられなかった。
これ以上、困らせたくなかった。
だからーー私も視線を逸らして、ただ、静かに通り過ぎた。
嫌ってはいない。
けれど、妃として敬意を示すことは躊躇われる。
そういう曖昧な距離感が、かえって胸に堪えた。
その夜。
私は殿下の侍従へ焼き菓子のレシピを手渡した。
サーフォーク領の高級茶葉とともに。
どうせ私には、お茶会に招く友人もいない。
だから、クッキーの香りづけに使ってもらえたら、それでいい。
――領地にいた頃は違った。
身分も関係なく、気の合う友人たちを招いて、庭先で笑い合った。
湯気の立つ紅茶と、焼きたてのクッキー。
取りとめのないおしゃべりに花を咲かせて、夕暮れまで時を忘れた。
帝国でも、あんなふうに温かな絆でつながる仲間ができたら――そう願っていた。
けれど。
ずっと胸の奥にしまっていたその夢は、今夜、そっと風に放つことにした。
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