異国妃の宮廷漂流記

花雨 宮琵 ー Kau Miyabi ー

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第1章:漂流の始まり――宮廷という伏魔殿

第23話:届かない世界、触れた温もり

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 憂鬱な気分を少しでも晴らしたくて、温室へ足を運ぶことにした。
 神妙な顔をした近衛兵が私のために扉を開けながら、背後にいたジャックを鋭い声で制する。
「護衛はここで待機を」
「ジャック、ここまでで大丈夫よ。先に帰っていてちょうだい」
「ですが……」
「大丈夫。帰りは近衛兵に送ってもらうから」

 しぶしぶ納得してくれたジャックに微笑んで、扉の内側へと歩を進める。  
「わぁ……」
 思わず感嘆の声が出た。

 湿った甘い果実の香り。
 柔らかな熱気。
 葉からこぼれ落ちる水滴の音。
 領地の森に抱かれているような感覚に、胸の奥が少しほどけていく。  
 ベンチに腰を下ろすと、膝の上にサンドイッチの包みを広げた。 
  「いただきます」
 その瞬間、背後でゴソゴソと音がした。

「……誰かいるの?」
 クレモンティンの木の陰から、ひょこんと小さな男の子が顔を出した。
「あら。可愛らしいお客さんね。お名前は?」
「シャルルです」
「シャルル……もしかして、皇子様?」
「はい」
 小さな声。でもその響きには、凛とした威厳が宿っていた。
 殿下によく似ている。
 なんて可愛いのかしら。

「はじめまして。私はエレナよ。よろしくね?」
「皇太子妃様?」
「エレナよ」
 その小さな胸に、正妻の影を背負わせたくなかった。
「エレナ様……」
「うん。今ね、軽食を取ろうと思ってたの。よかったら、いっしょに食べない?」
 彼はしばらく迷ったのち、小さな手を伸ばしてきた。
 サンドイッチを手渡そうとしたその時――
「――シャルル様? シャルル様? どちらですか? シャルル様?」
「シャルル? シャルル? っ、シャルル!!」
「母上!?」

 彼がびくりを肩を揺らしたのを見て、ハッと我に返る。
 こんなにも早く、殿下が離宮に隠す女性と顔を合わせることになるなんて。
 クリステル様が駆け寄り、震える声で息子の名を呼ぶ。
 彼女の腕に包まれるシャルルを見た瞬間、目の前に、透明な壁がすっと立ち上がった気がした。
 ――私には、決して届かない世界。

「っ、皇太子妃殿下。息子が、大変失礼いたしました」
「いいえ。シャルル様は何も。一緒にお昼をどうかと思ってお声かけしたのですが」
「……!! シャルル、何か口にしたの? 身体は? 何ともない?」
「宮廷医を呼んでまいります!!」
 女官たちが慌てて動き出す。
 クリステル様は、シャルルの顔色を確かめながら、唇を震わせていた。  
 頬に手を添え、何度も「大丈夫? 苦しくない?」と繰り返す。  
 シャルルが咳払いをしただけで、彼女は目を見開いた。  
 私は、ようやく理解した。  
 ――毒見をしていない食べ物を、皇子が口にすることは、タブーなのだ。  

「シャルル様はまだ一口も召し上がっていません。毒見もさせず、軽率でした」  
「っ、そのようなつもりでは……」  
 そう否定する彼女の声は掠れていて、私を映す瞳には怯えが含まれていた。 

「ご迷惑でしたね、失礼いたします」
 そう言葉を残して、逃げるみたいにその場を離れた。

 庭に出ると、冷たい風が頬を打った。
 色を失った木々がざわざわと揺れ、さっきまで心を和ませてくれた温室のぬくもりが、風にさらわれていく。
 誰も私を追ってはきてくれない。  
 この時感じたのは、孤独じゃなかった。
 残酷なまでにたしかな――孤立だった。  

 彼らの姿が見えないところまでやってきて、中庭の片隅に腰を下ろす。
 包みを開く指先が、ひどく冷たかった。
 こうなったら、全部食べてやる。
 私のお料理、美味しいんだから。
 泣き出しそうになるのを必死でこらえながら、サンドイッチを口に詰め込む。
 でも、味なんて分からなかった。

 泣きたくないのに、喉の奥が熱くなって、勝手に涙がこぼれてくる。
 袖で拭っても、頬の温もりが消えなくて、また次の涙が滲んだ。

 毒殺を疑われるなんて。
 私は、皇太子妃なのに。
 誰にも必要とされない。
 誰にも信じてもらえない。
 誰にも――守ってもらえない。
 そんな思いが胸を締めつけて、サンドイッチを噛むたびに耳の下が痛んだ。

 その時、不意に顔に影が差した。  
「そんなにたくさん食べるのかい?」  
 見上げると、気品漂う紳士が立っていた。 

「その惣菜パイ、食べきれないのなら貰ってもいいかな? ん? ダメ? やっぱり図々しかったかな?」  
「……たくさんあるので……どうぞ」  
「本当? じゃ、遠慮なく。……ん、美味い! おかわり!」  
「ふふっ、どうぞ」  
「このトマトのサンドイッチもいいね。水っぽくない。コツがあるの?」  
「……ありますけど、門外不出です」  
「えぇ~、ケチだなぁ」  

 ――本当は言いたかった。  
 食べたかったら、また会いに来てください、と。  
 けれどその言葉は喉の奥で絡まり、声にはならなかった。  
 私と関われば迷惑になる――そんな気がしてならなかった。  

 彼は次々と軽食を口に運びながら、満足そうに笑った。  
「はぁ――。お世辞じゃなくて、どれも本当においしい」    

 彼は最後に林檎を手に取ると、空を見上げながらシャリッと豪快にかじった。
「実はさ、騎士団で耳にしたんだ。市井のことを熱心に勉強してるんだってね」  
 それ、離縁に備えてです。必死に生き延びようとしてるだけ。 

「騎士団の訓練にもよく顔を出してくれるそうじゃないか。妃様の差し入れが絶品だって、噂になってたよ」    
 それ、初恋の青年を探してるだけ。差し入れは単なる口実で――我ながら情けない……。

「今年は平民出身の候補生がやたらと多くてね。おかげで採用倍率は5倍だよ。“庶民派の妃様の護衛につきたい”って張り切ってるらしい」  
「庶民派……?」  
 ただ田舎くさいだけなのに。私の必死さ、全部ズレて伝わってる気がする。

「ははっ、悪い意味じゃないさ。むしろ皆、妃様のことを“仲間”だと思ってるんだ」  
「仲間……」
「帝国では、分け隔てなく接してくれる貴族夫人は珍しいらからね。そうそう、ジャンたちが言ってたよ。『妃様のように明るくて家庭的でユーモア溢れる奥様がいる皇太子殿下が羨ましい』って」
「どれも、皇太子妃には……必要とされないものばかり、みたいですけど」
「そうかな? そんな皇太子妃がいる国には、平和が訪れてくれそうだけどな」  
 その言葉が、胸の奥に、じんわりとしみていく。
 なんにも返せなくて、ただ、足元を見つめた。

「なーんてね、歳を取ると話が長くなって困るね。ご飯、美味しかったよ。ごちそうさま」  
「……お粗末様でした」  

 彼は「じゃ、また!」とウインクして、片手を上げて去っていった。  

 あれは一体、誰だったんだろう?  
 どこか懐かしくて、あたたかくて。  
 笑い方が、昔の誰かに似ていた。  

 ――にしても私って、一応、皇太子妃よね?
 敬語を使われていい立場……の、はずよね?
 騎士団に立ち寄るってことは、騎士か帝国軍の方かしら。

 胸の奥に残ったのは、久しぶりに感じた“誰かと繋がっている”という感覚だった。
「……不思議ね。なんだか、守られているような気がした」  

 この感覚が、やがて私の心を揺らすことになるなんて――この時の私は、まだ知らなかった。
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