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第1章:漂流の始まり――宮廷という伏魔殿
第22話:居場所のない執務室、ひとかけらの甘さ
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その日は、ジャンが警護についてくれていた。
「エレナ様って、本当に公爵令嬢だったんですか?」
「え? そうよ。どうして?」
「いやぁ、ベッドメイキングなんて、侍女の仕事じゃないですか」
「私は自分のやり方があるの。お手本を見せてるだけ、今だけよ」
ベッドを整え、クッションを直す私を見て、ジャンがぽつりと言った。
「ほんと、エレナ様はきっちりしてますよね。僕の恋人なんて、ベッド放置ですもん」
「……ジャン。恋人がいるの?」
「はい」
「『はい』って! 結婚前なのに一緒に住んでるの!?」
「平民じゃ普通ですよ。同棲した方が楽だし、好きな人と一緒にいられるし」
「そうなの!? 詳しく聞かせて!」
「え、いいですけど……エレナ様が知って得します?」
「もちろんよ! 第二の人生に向けて、市井の実態を学ぶんだから!」
「エレナ様、真剣すぎて怖いっす!」
「当然でしょ、人生かかってるんだから!」
「……俺、感動しました。エレナ様がそこまで皇妃になる覚悟を――ぐすっ、分かりました! 全力で語ります!」
――ジャン先生による市井講義を聞き終えると、懲りずにまた執務室へ顔を出した。
昼時だというのに、皆は食事もとらずに黙々と仕事をしている。
豪華な昼食がワゴンに乗せられてはいるけれど、あんな料理じゃ片手間に食べることはできない。
それから毎日、執務室に通っては、頼まれてもいないのにお茶出しとおやつ、食事の配膳をして、皆を観察した。
議会の開催中はとにかく忙しそうだった。
3日連続で昼食が手つかずだったのを見て、皆に籠入りの軽食を持っていくことにした。
好みはだいたい把握できていた。
「良かったらお昼をどうぞ。片手で食べられるものばかりですから」
「――毒見は? 私、エレナ様の代わりですので」
「お料理をする時間があるなら、公務を一つでも覚えていただけると助かります」
「妃様の“趣味”に付き合う暇など、ございません」
……反応は、散々だった。
身体全体で『迷惑だ』と告げられているようで、誰も手を伸ばさない。
「美味しいと思うんだけどなぁ」
レオポルドも、ジョン達も、セヴラン先生もみんな喜んで食べてくれるのに。
あの女官長でさえ、頬を緩めてくれるのに。
翌日も、翌々日も、懲りずに食籠を抱えて執務室へ向かった。
「皇太子妃教育も急いで進めていますけど、しばらくはご迷惑をかけちゃうわ」
そこには、職務応援のため派遣された文官が何人か混じっていて、黙って受け取る人もいた。
けれど、いつものメンバーに至っては同じ結果だった。
――さらに辛辣な言葉が落ちてきた。
「それは料理長の職務です」
「我々の信頼が、食籠ひとつで動くと思われているなら――正直、侮辱された気分です」
イヴェットの淡々とした声。反論できない。全部、正しい。
けれど、次の一言だけは違った。
「……私たちに取り入ったところで、殿下の“寵愛”は得られませんよ」
みなの動きが、ピタリと止まる。
その言葉だけが、いつもにはない感情を帯びていた。
敵意というより――嫉妬と、羨望。
わずかに揺れた彼女の瞳に、私は気づいてしまった。
……言わせてしまったんだ。
私の尻拭いを、彼女に引き受けさせているから。
胸の奥に、冷たいものが落ちて、広がっていく。
申し訳なさと、情けなさと――少しの、悔しさ。
……皇太子妃教育なら、ちゃんと受けている。手を抜いているわけじゃない。
でも、話しかけてくれる人が少なくて、実践を積む機会がない。
敬語と常態語が混じってしまうのも、そのせいだ。
努力しているのに、誰にも届かない。
その孤独が、静かに胸を蝕んでいく。
……殿下とだって、もう数週間、顔を合わせていない。
寵愛なんて、求めていないはずなのに――その寂しさは、確かにあった。
でも、たしかにこれは料理長の仕事だ。
私が出しゃばるところじゃない。
軽食を用意するのは、今日で最後にしよう。
窓の外には、灰色の秋空が広がっていた。
低く垂れた雲は、空ごと落ちてきそう。
王国の秋空は、あんなにも高く澄んでいたのに。
今はただ、重く沈んだ心にグレーの空が重なっていく。
こうして、執務室に漂う沈黙は、言葉よりも冷たく、私の居場所を少しずつ削り取っていった。
食籠を回収していると、一人の文官が机の陰から食籠を差し出した。
「――ありがとうございました」
私にだけ聞こえるような、小さな声。
被せられた布をめくると、「美味しかったです」というメモと、宝物のように色とりどりのキャンディーが詰められていた。
居場所のない執務室で見つけた、ほんのひとかけらの甘さ。
包み紙を指先でなぞると、幼い日の記憶が蘇った。
夏至祭で水差しを割った子どもを庇い、一緒に叱られたとき。
誰も気づいてくれなかったけれど、祖母だけは見ていてくれた。
「立派になったね」と笑って、飴玉を手渡してくれたあの温もり。
今、胸に広がる甘さは、それと同じだった。
――思い出すのは、祖母の姿。
ランスロットとの婚約が成立して間もない頃。
王太子妃教育のカリキュラムを手に屋敷へ戻ると、祖母が本をパタンと閉じて言った。
「さぁ、ヘレナ。聖誕祭の準備をしましょう!」
「でも、まだ明日の予習が――」
「必要ないでしょう? 会計学も経営学も、もう十分。それより明後日は、我が領に大勢のお客様がいらっしゃるのよ? それこそ、他国の公爵から市井の人たちまで」
祖母はカリキュラムの紙にバツ印をつけると、にっこりと笑った。
「教育係に伝えておいで。これらの科目は不要です、と」
祖母の教えは、机上の理論よりも実践重視だった。
料理も掃除も、ベッドメイキングも。
使用人の仕事を見よう見まねで実践し、祖母の采配を間近で見ながら、指示の出し方や人の動かし方を学んでいった。
だから帝国に来てからも、初心に戻って、自分のできることから始めようと思った。
けれど、あの頃と今とでは立場が違う。
お料理も、お茶汲みも――皇太子妃のする仕事じゃないことは分かっている。
それでも、何かをしていたかった。
じゃないと、自分の存在価値が消えてしまいそうで怖かったから。
……でも、祖母なら、こう言うかもしれない。
「ヘレナ。貴女のおかげで、誰かが今日、少しだけ助かったのよ。それって、すごく素敵なことじゃない?」
そう思えたら――もう少しだけ頑張れそうな気がした。
「めげずに、明日も行ってみようかな。執務室へ――私の居場所を、探しに」
「エレナ様って、本当に公爵令嬢だったんですか?」
「え? そうよ。どうして?」
「いやぁ、ベッドメイキングなんて、侍女の仕事じゃないですか」
「私は自分のやり方があるの。お手本を見せてるだけ、今だけよ」
ベッドを整え、クッションを直す私を見て、ジャンがぽつりと言った。
「ほんと、エレナ様はきっちりしてますよね。僕の恋人なんて、ベッド放置ですもん」
「……ジャン。恋人がいるの?」
「はい」
「『はい』って! 結婚前なのに一緒に住んでるの!?」
「平民じゃ普通ですよ。同棲した方が楽だし、好きな人と一緒にいられるし」
「そうなの!? 詳しく聞かせて!」
「え、いいですけど……エレナ様が知って得します?」
「もちろんよ! 第二の人生に向けて、市井の実態を学ぶんだから!」
「エレナ様、真剣すぎて怖いっす!」
「当然でしょ、人生かかってるんだから!」
「……俺、感動しました。エレナ様がそこまで皇妃になる覚悟を――ぐすっ、分かりました! 全力で語ります!」
――ジャン先生による市井講義を聞き終えると、懲りずにまた執務室へ顔を出した。
昼時だというのに、皆は食事もとらずに黙々と仕事をしている。
豪華な昼食がワゴンに乗せられてはいるけれど、あんな料理じゃ片手間に食べることはできない。
それから毎日、執務室に通っては、頼まれてもいないのにお茶出しとおやつ、食事の配膳をして、皆を観察した。
議会の開催中はとにかく忙しそうだった。
3日連続で昼食が手つかずだったのを見て、皆に籠入りの軽食を持っていくことにした。
好みはだいたい把握できていた。
「良かったらお昼をどうぞ。片手で食べられるものばかりですから」
「――毒見は? 私、エレナ様の代わりですので」
「お料理をする時間があるなら、公務を一つでも覚えていただけると助かります」
「妃様の“趣味”に付き合う暇など、ございません」
……反応は、散々だった。
身体全体で『迷惑だ』と告げられているようで、誰も手を伸ばさない。
「美味しいと思うんだけどなぁ」
レオポルドも、ジョン達も、セヴラン先生もみんな喜んで食べてくれるのに。
あの女官長でさえ、頬を緩めてくれるのに。
翌日も、翌々日も、懲りずに食籠を抱えて執務室へ向かった。
「皇太子妃教育も急いで進めていますけど、しばらくはご迷惑をかけちゃうわ」
そこには、職務応援のため派遣された文官が何人か混じっていて、黙って受け取る人もいた。
けれど、いつものメンバーに至っては同じ結果だった。
――さらに辛辣な言葉が落ちてきた。
「それは料理長の職務です」
「我々の信頼が、食籠ひとつで動くと思われているなら――正直、侮辱された気分です」
イヴェットの淡々とした声。反論できない。全部、正しい。
けれど、次の一言だけは違った。
「……私たちに取り入ったところで、殿下の“寵愛”は得られませんよ」
みなの動きが、ピタリと止まる。
その言葉だけが、いつもにはない感情を帯びていた。
敵意というより――嫉妬と、羨望。
わずかに揺れた彼女の瞳に、私は気づいてしまった。
……言わせてしまったんだ。
私の尻拭いを、彼女に引き受けさせているから。
胸の奥に、冷たいものが落ちて、広がっていく。
申し訳なさと、情けなさと――少しの、悔しさ。
……皇太子妃教育なら、ちゃんと受けている。手を抜いているわけじゃない。
でも、話しかけてくれる人が少なくて、実践を積む機会がない。
敬語と常態語が混じってしまうのも、そのせいだ。
努力しているのに、誰にも届かない。
その孤独が、静かに胸を蝕んでいく。
……殿下とだって、もう数週間、顔を合わせていない。
寵愛なんて、求めていないはずなのに――その寂しさは、確かにあった。
でも、たしかにこれは料理長の仕事だ。
私が出しゃばるところじゃない。
軽食を用意するのは、今日で最後にしよう。
窓の外には、灰色の秋空が広がっていた。
低く垂れた雲は、空ごと落ちてきそう。
王国の秋空は、あんなにも高く澄んでいたのに。
今はただ、重く沈んだ心にグレーの空が重なっていく。
こうして、執務室に漂う沈黙は、言葉よりも冷たく、私の居場所を少しずつ削り取っていった。
食籠を回収していると、一人の文官が机の陰から食籠を差し出した。
「――ありがとうございました」
私にだけ聞こえるような、小さな声。
被せられた布をめくると、「美味しかったです」というメモと、宝物のように色とりどりのキャンディーが詰められていた。
居場所のない執務室で見つけた、ほんのひとかけらの甘さ。
包み紙を指先でなぞると、幼い日の記憶が蘇った。
夏至祭で水差しを割った子どもを庇い、一緒に叱られたとき。
誰も気づいてくれなかったけれど、祖母だけは見ていてくれた。
「立派になったね」と笑って、飴玉を手渡してくれたあの温もり。
今、胸に広がる甘さは、それと同じだった。
――思い出すのは、祖母の姿。
ランスロットとの婚約が成立して間もない頃。
王太子妃教育のカリキュラムを手に屋敷へ戻ると、祖母が本をパタンと閉じて言った。
「さぁ、ヘレナ。聖誕祭の準備をしましょう!」
「でも、まだ明日の予習が――」
「必要ないでしょう? 会計学も経営学も、もう十分。それより明後日は、我が領に大勢のお客様がいらっしゃるのよ? それこそ、他国の公爵から市井の人たちまで」
祖母はカリキュラムの紙にバツ印をつけると、にっこりと笑った。
「教育係に伝えておいで。これらの科目は不要です、と」
祖母の教えは、机上の理論よりも実践重視だった。
料理も掃除も、ベッドメイキングも。
使用人の仕事を見よう見まねで実践し、祖母の采配を間近で見ながら、指示の出し方や人の動かし方を学んでいった。
だから帝国に来てからも、初心に戻って、自分のできることから始めようと思った。
けれど、あの頃と今とでは立場が違う。
お料理も、お茶汲みも――皇太子妃のする仕事じゃないことは分かっている。
それでも、何かをしていたかった。
じゃないと、自分の存在価値が消えてしまいそうで怖かったから。
……でも、祖母なら、こう言うかもしれない。
「ヘレナ。貴女のおかげで、誰かが今日、少しだけ助かったのよ。それって、すごく素敵なことじゃない?」
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