異国妃の宮廷漂流記

花雨 宮琵 ー Kau Miyabi ー

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第2章:新たな漂流先――森の離宮

第27話:一口大の果実~始まりの朝

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 森の中にひっそりと佇む離宮は、帝都から馬車で半日ほどの道のりだった。
 宮殿で過ごしたのは、わずか2か月。
 セヴラン先生と、女官長が推薦してくれたマナー講師は個人的に雇うことにした。
 年末までは引き続きレッスンをお願いし、その後もアドバイザーとして助言をもらう予定だ。

 2人とも現役を引退している身だから、自然の中で過ごせると聞いて、喜んでついてきてくれた。
 固定の使用人は持たなかった。
 恐ろしいほど広い離宮だけれど、要塞としての機能もなければ、要人をもてなす予定もない。
使うのはほんの数室だけ。だから、住み込みの老夫婦と、通いの家政婦だけを雇うことにした。
 護衛だけは、殿下の命令で変わらず24時間張り付くことになってしまったけれど。

「ごめんね、みんな。恋人と離れちゃうことになっちゃって」  
「エレナ様がお気になさることなど、何もございません」
 ジョンがきっぱり言う。  
「そうっすよ! 休暇のたびに帰れますし、離れてる分、絆が深まるってもんです!」
 ジャンが胸を張る。  
「そ、そうです! 殿下も……その……同じかと」
 ジャックが口ごもる。  

「私は、これを機に結婚することにしました」
 ジョンがさらりと告げる。  
「えぇー!」  
 鎌をかけてみただけなのに、ジャンだけじゃなくて、みんな恋人がいるんだ。ジョンに至っては婚約者まで!  

『離れている分、絆が深まる』かぁ。  
 私の場合は――離れている分、速攻で存在を忘れられそう……。  

「ジョン、結婚式はいつなの?」  
「年末に、故郷で挙げるつもりです」  
「まぁ! 素敵! 帝国の結婚式は、ロマンチックなんでしょうねぇ。誓いの口づけが3度もあるんですもの!」  
「ええっ!? 3度!?」
 ジャンが大げさにのけぞり、倒れそうになる。  
「エ、エレナ様! 口付けなどと軽々しく言うものでは……!」
 ジャックが周囲を窺いながら声を潜める。  
「神聖な婚姻の儀で、誓いの口付けを3度もする罰当たりなど存在いたしません」
 ジョンは眉をひそめ、祈りの十字を切った。  

 いや、いますけど!?  
 あなたたちの、主ですけどね!!  

「だって、でん――」  
「でん……!? ま、まさか殿下が!?」
 ジャックが裏返った声を上げる。  
「ち、違うわよ! で、伝記にそう書いてあったのよ。――帝国流婚礼伝記。知らんけど」  
「なるほど。一見の価値がありそうな書物ですね」
 ジョンが真顔で頷きながらメモを取る。  
「ジョン!! あ、あいにく、もう絶版になってるから!」  

「うっわぁー、びっくりしたー。殿下が3度も口付けしたのかと思っちゃいましたよ!」
 けらけらとジャンが笑う。  
「3度は、いささかがっつきすぎかと」
 ジャックが真面目に返す。  
「まったくだ。参列者に”観覧料”を頂かねば割に合いません」
 ジョンが冷静に計算を始める。  

 3人の掛け合いを聞きながら、私は呆然と立ち尽くしていた。
 なんかもう、いろいろ負けた気がする。
 掃除でもして、心の塵を取り払おう。

「まっ、とりあえず! 今日は掃除から始めるわよぉ~!」  
 腕まくりをして勢いよく離宮へ足を踏み入れた――その瞬間。  

 ……え?  

 そこはまるで、昨日まで主が暮らしていたかのように、隅々まで整えられていた。  

 誰かが掃除してくれたの?  
 ……殿下が指示を? そんなはず、ない。  
 そう思いたいのに、浮かんできたのは、スープ事件の夜の会話。  
 殿下……足繁く離宮に通っていたって聞いたけど。  
 ――もしかして、ここの準備を?  

「なぁんだ。はじめから、私を追い出すつもりで……用意してたんじゃない」  

 口にした途端、喉の奥に違和感が走った。  
 嫌悪に近い、居心地の悪さ。
 ちゃんと心では分かっていた――それは違う、と。  
 殿下らしい、不器用な優しさだと。

 翌朝。
 ふわりと甘い匂いが漂ってきて、目が覚めた。
 誘われるように階下へと降りていく。
 一日の始まりを過ごす食堂の窓には、蔦が柔らかく絡みついていた。
 小さな白い花がぽつぽつと咲いていて、朝陽に透けるその姿が、まるで絵本の挿絵のようだった。

 窓から差し込む光が、テーブルクロスのギンガムチェックを優しく照らす。
 庶民的な柄なのに、どこか懐かしくて、心地がいい。
 まるで、祖母と領地で暮らしていた頃みたい。
 こんな朝がまたやって来るなんて――。

 テーブルには、丁寧に盛り付けられた朝食が並んでいた。
 黒いライ麦パン、ほんのり琥珀色に煮詰められた洋梨のコンポート、キノコ入りのオムレツ。
 王国の領地で過ごしていた頃、よく食べていたものばかりだ。
「……私の好きなものばかり」
 誰に言うでもなくぽつりと呟いたら、後ろからジョンが何気なく言った。
「殿下のご指示です。『ヘレナの好物を揃えておけ』と」
「……え?」
 フォークを持つ手が止まった。
 ――殿下が?
 私のために?

「それに、一口大に切って出すように、とも言われてます」
 ジャックが神妙な顔つきでそう言う。

 一口大に? そんな細かいことまで?
 いったい、いつから?
 そういえば、初夜を偽装したあの日。
 ナイフで指を切ってしまって、包帯を巻いていたせいで、うまく持てなかった。
 思い返せばその後も、ずっと。
 食事はいつも、細かく切られていた。
 もう、傷なんてとっくに治ってるのに。
「……過保護すぎるでしょ」
 あの人はいつも――黙って、気付かないふりをする。
 でも、ほんとうは、ちゃんと、見ててくれてたのかもしれない。

 その瞬間、最後に見た殿下の、影の差した顔が浮かんで、胸がきゅっと締めつけられた。
 そっと、ネックレスに手を伸ばす。
 もしかしたらあの時からずっと、守ってくれていたのかもしれない。
 殿下らしい、静かな優しさ。

 ……私。
 やってみようかな。
 できること、きっとまだあるはずだから。
 ほんの少しでも、殿下の治世が安定するように。
 かりそめの妻でも、役に立てたら嬉しい。
 その間に、ちゃんと自分の役割を果たして――
 それから、戻ろう。
 自分の場所へ。
 ……戻れる場所が、まだ残ってるのなら。
 その時は――今よりもう少し、強くなれてたらいいな。
 そのために、今日から始めよう。
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