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032 戻りたい
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——美しい花々が咲き誇ってる。
神殿のような場所に、光り輝く銀色の蝶たちが舞っている。
そして、目の前にひざまずく騎士の影がひとつ——顔は見えない。
ただ、低く澄んだ声だけが胸に刺さる。
『この花は…あなたの瞳の色と同じですね』
ルシェルは細い息を吐いて目を開けた。
胸もとに指を当てると、鼓動が速い。
夢の名残は微かな温度となって指先に残り、消えない。
(…夢…だったの…?)
「……ルシェル」
掠れた声に、彼女は目を上げた。
ノアの寝室で看病しながら眠ってしまっていたようだ。
「ごめんなさい、私も眠っていたみたい…。あなたも起きたのね。喉は渇いていない?」
「ルシェル……話を、聞いてほしい」
名前を呼ばれることに、懐かしさすら感じてしまっている自分が、少し可笑しかった。
ノアは上体を起こし、迷いの残る手で彼女の指を取った。
「…また…思い出したんだ。記憶をなくしている間に、俺が君にしてきたことを…」
ルシェルは短く息を飲み、ゆっくりと杯を卓に戻した。
金の縁が木に触れて、小さく澄んだ音が鳴る。
「……そう」
ノアは顔を歪める。
悔恨の色が、口元の影に濃い。
「本当にすまなかった…。どう謝っても許してもらえないかもしれない…だが謝ることしかできない。本当にすまない」
ノアはルシェルの目を見ることができず、ルシェルはそんなノアを見ているのが辛かった。
ノアが言いづらそうに続ける。
「だが——あの時、崖の下に落ちたとき、俺は…イザベルに救われたのだろう?」
「ええ、そうみたいね」
「…それから…彼女が俺の子を授かったと聞いた時…俺は…本当に嬉しかったんだ…」
時間が止まったようだった。蝋芯がぱちりと弾ける音が、やけに遠い。
「…ええ、そうでしょうね。わかっているわ」
ルシェルは微笑の形に口角を持ち上げた。
けれど頬の筋は固く、胸の奥で何かが静かに軋む。
「違うんだ…ルシェル、聞いてくれ。イザベルには感謝しているし、子供のことももちろん嬉しい。……あの時の俺にとって、イザベルの存在は確かだった…否定することはできない。すまない…。だが、俺が愛しているのは、本当に君だけだ…ルシェル」
「話してくれて、ありがとう」
(本当に残酷な人。あまりにも誠実で…そして、優しすぎる。だからあなたは残酷なのよ)
「ノア、あなたはきっといい父親になるわ」
ノアは言葉を失った。
「…誤解しないでくれ。俺は、君と…もう一度、以前のように、笑って過ごしたい…。俺の妻は…この国の皇后は…君だけなんだ…ルシェル」
言葉は真っすぐだった。
だが、その真っすぐさが、今は刃のように胸に触れる。
ルシェルは寝台の覆いを整え、彼の喉元まで静かに掛けた。
視線はやさしく、声音は均されたまま。
「私は、あなたを愛していたわ。誰よりも、何よりも——。それでも、今の私には…もう前と同じようにあなたを思うことは…難しいわ。あなたが私を忘れていたあいだ、私はあまりにも辛かったから」
「……ルシェル」
「…ただ時間が欲しいの」
燭の火がふっと揺れ、ふたりの影が壁で離れ合う。
ノアはその揺れを見て、目を閉じた。
「…時間が経てば…以前のように戻れるのか?」
「……」
短い沈黙。
ルシェルは水差しを取り、杯に少しだけ注いで差し出した。
「…さあ、お水を飲んで。熱は、昨夜より下がっているわね。明日また宮廷医を呼ぶわ」
「……ああ」
ノアは受け取り、口縁に触れた。
飲み下す動きが喉を渡り、肩の力がわずかに抜ける。
杯が再び卓に戻る音。彼はそのまま視線を落とし、低く続けた。
「イザベルにはーー俺から話をする。責任は俺にある」
「何を話すというの?彼女はあなたを救い、あなたの子供を孕っているのよ」
「わかっている…。それでも、俺はルシェルを愛していると…言っておかなければ…」
「…今夜はもう休んで。……明日、またくるわ」
「…あぁ、わかった」
「おやすみなさい、ノア」
「おやすみ、ルシェル」
扉が静かに閉まると、回廊の冷気が頬に触れた。
喉の奥で小さく息を噛み、ルシェルは掌を握りしめる。
脈が整うのを待ってから、歩き出した。
ノアとやり直す幸せを願う心と、ゼノンの言葉を思い出してしまう心。
その二つの間で揺れる自分に、ルシェルは静かに唇を噛んだ。
ーーその頃。寝室にひとり残ったノアは、天蓋の下で拳を握り締めていた。
「……俺は愚かだ」
掠れた声が、闇に溶ける。
イザベルへの感謝と、ルシェルへの愛情。
どちらも真実であるがゆえに、言葉はルシェルの心を最も深く傷つけた。
(取り戻したい……だが、俺はすでに取り返しのつかないことをしているのではないか)
脳裏に蘇るのは、イザベルが懸命に寄り添ってくれた日々。
それでも――胸の奥で求めるのは、ただ一人の妻の温もり。
ノアは額を押さえ、荒い息を吐いた。
神殿のような場所に、光り輝く銀色の蝶たちが舞っている。
そして、目の前にひざまずく騎士の影がひとつ——顔は見えない。
ただ、低く澄んだ声だけが胸に刺さる。
『この花は…あなたの瞳の色と同じですね』
ルシェルは細い息を吐いて目を開けた。
胸もとに指を当てると、鼓動が速い。
夢の名残は微かな温度となって指先に残り、消えない。
(…夢…だったの…?)
「……ルシェル」
掠れた声に、彼女は目を上げた。
ノアの寝室で看病しながら眠ってしまっていたようだ。
「ごめんなさい、私も眠っていたみたい…。あなたも起きたのね。喉は渇いていない?」
「ルシェル……話を、聞いてほしい」
名前を呼ばれることに、懐かしさすら感じてしまっている自分が、少し可笑しかった。
ノアは上体を起こし、迷いの残る手で彼女の指を取った。
「…また…思い出したんだ。記憶をなくしている間に、俺が君にしてきたことを…」
ルシェルは短く息を飲み、ゆっくりと杯を卓に戻した。
金の縁が木に触れて、小さく澄んだ音が鳴る。
「……そう」
ノアは顔を歪める。
悔恨の色が、口元の影に濃い。
「本当にすまなかった…。どう謝っても許してもらえないかもしれない…だが謝ることしかできない。本当にすまない」
ノアはルシェルの目を見ることができず、ルシェルはそんなノアを見ているのが辛かった。
ノアが言いづらそうに続ける。
「だが——あの時、崖の下に落ちたとき、俺は…イザベルに救われたのだろう?」
「ええ、そうみたいね」
「…それから…彼女が俺の子を授かったと聞いた時…俺は…本当に嬉しかったんだ…」
時間が止まったようだった。蝋芯がぱちりと弾ける音が、やけに遠い。
「…ええ、そうでしょうね。わかっているわ」
ルシェルは微笑の形に口角を持ち上げた。
けれど頬の筋は固く、胸の奥で何かが静かに軋む。
「違うんだ…ルシェル、聞いてくれ。イザベルには感謝しているし、子供のことももちろん嬉しい。……あの時の俺にとって、イザベルの存在は確かだった…否定することはできない。すまない…。だが、俺が愛しているのは、本当に君だけだ…ルシェル」
「話してくれて、ありがとう」
(本当に残酷な人。あまりにも誠実で…そして、優しすぎる。だからあなたは残酷なのよ)
「ノア、あなたはきっといい父親になるわ」
ノアは言葉を失った。
「…誤解しないでくれ。俺は、君と…もう一度、以前のように、笑って過ごしたい…。俺の妻は…この国の皇后は…君だけなんだ…ルシェル」
言葉は真っすぐだった。
だが、その真っすぐさが、今は刃のように胸に触れる。
ルシェルは寝台の覆いを整え、彼の喉元まで静かに掛けた。
視線はやさしく、声音は均されたまま。
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「……ルシェル」
「…ただ時間が欲しいの」
燭の火がふっと揺れ、ふたりの影が壁で離れ合う。
ノアはその揺れを見て、目を閉じた。
「…時間が経てば…以前のように戻れるのか?」
「……」
短い沈黙。
ルシェルは水差しを取り、杯に少しだけ注いで差し出した。
「…さあ、お水を飲んで。熱は、昨夜より下がっているわね。明日また宮廷医を呼ぶわ」
「……ああ」
ノアは受け取り、口縁に触れた。
飲み下す動きが喉を渡り、肩の力がわずかに抜ける。
杯が再び卓に戻る音。彼はそのまま視線を落とし、低く続けた。
「イザベルにはーー俺から話をする。責任は俺にある」
「何を話すというの?彼女はあなたを救い、あなたの子供を孕っているのよ」
「わかっている…。それでも、俺はルシェルを愛していると…言っておかなければ…」
「…今夜はもう休んで。……明日、またくるわ」
「…あぁ、わかった」
「おやすみなさい、ノア」
「おやすみ、ルシェル」
扉が静かに閉まると、回廊の冷気が頬に触れた。
喉の奥で小さく息を噛み、ルシェルは掌を握りしめる。
脈が整うのを待ってから、歩き出した。
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その二つの間で揺れる自分に、ルシェルは静かに唇を噛んだ。
ーーその頃。寝室にひとり残ったノアは、天蓋の下で拳を握り締めていた。
「……俺は愚かだ」
掠れた声が、闇に溶ける。
イザベルへの感謝と、ルシェルへの愛情。
どちらも真実であるがゆえに、言葉はルシェルの心を最も深く傷つけた。
(取り戻したい……だが、俺はすでに取り返しのつかないことをしているのではないか)
脳裏に蘇るのは、イザベルが懸命に寄り添ってくれた日々。
それでも――胸の奥で求めるのは、ただ一人の妻の温もり。
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