33 / 64
033 初恋の香り
ーーノアの寝室。
「ありがとう、カイン。助かったわ」
「いえ、私は自分の勤めを果たしただけですので」
カインは、ノアが幼い頃から信頼している護衛の一人だ。
ノアの診察を終えた宮廷医は、怪訝そうな顔をしている。
「陛下は大丈夫なの…?」
ルシェルが不安そうに聞く。
「はい、皇后陛下。陛下は疲れが溜まっておられたのかと思われます。睡眠も十分に取れていないようですので、しばらくの間は、どうか安静にして下さいますよう……」
「…そう、わかったわ。ありがとう」
しばらくして、ノアの瞳がゆっくりと開いた。
その瞬間、ルシェルの顔を見つめ、わずかに微笑む。
「……ルシェル……?」
声は弱々しいが、確かに彼女を認識していた。
(……今、ルシェルって言ったの……?)
「……陛下……私のことが…わかるのですか……?」
ノアが不思議そうな顔をしている。
「……なんだ、陛下だなんて……他人行儀だな。どうしたんだ…ルシェル?」
「…まさか…」
ルシェルは驚きを隠せない。
「宮廷医!どういうことなの!?陛下は…ノアは…記憶が戻ったの…!?」
宮廷医も驚いている。
「……そ、そのようです……皇后陛下。私にも、何が何だかさっぱりでして……」
「…ルシェル…?一体どうしたんだ……?大丈夫か……?」
「…ええ、ノア……大丈夫よ…」
ルシェルはしばらくの間嬉しさに浸ったが、ゼノンのことが頭をよぎった。
(さっき…彼の手を振り解いてしまったわ…)
「陛下…大丈夫ですか…?心配しました、急に倒れられて…」
イザベルがノアに声をかけると、ノアは一瞬頭を抱えて、「イザベル…?」と彼女の名を呼んだ。
「はい、陛下のイザベルですよ!」
ノアは何かを思い出したかのように、顔面蒼白になった。
「……そんな……俺は……なんてことを……そんな…まさか…」
ノアが急に涙を流し、言葉を失う。
「…ノア、大丈夫?」
ルシェルがノアに声をかけると、ノアはルシェルの腕を掴み、抱き寄せた。
「…ルシェル…ルシェル…すまない…。俺はなんてことを……」
ノアは涙を流しながらルシェルに謝り続けた。
「陛下はきっと、急に記憶が戻ったことで混乱されているのでしょう…」
宮廷医が静かに囁く。
「……皆……申し訳ないのだけれど、私と陛下を二人きりにしてくれないかしら」
カインや宮廷医は「はい、皇后陛下」と頭を下げて寝室を出ていった。
だが、イザベルだけは留まろうとした。
「……なぜ私まで追い出すのですか!?私も陛下のおそばに居させて下さい!」
「……」
ルシェルはノアを見る。
「……イザベル。ルシェルと二人きりで話したいんだ…」
ノアがイザベルにそう言うと、イザベルは力が抜けたようにしゃがみ込んだ。
「ユリアナ……イザベルを支えてあげてちょうだい」
「はい、皇后陛下。イザベル様、私につかまってください」
ユリアナに支えられて、イザベルは寝室をあとにした。
ノアはルシェルの胸に顔を埋めながら、心の奥で小さく震えていた。
彼女の心臓の鼓動が、頬に温く伝わる。
髪の間からかすかなライラックの香りが立ちのぼり、ノアは思わず目を閉じた。
彼の抱きしめる腕の強さに、胸の奥まで満たされる。
けれど同時に、庭園でゼノンと交わした静かな時間、彼の微笑み、彼の真剣な眼差しーーその全てがどうしても脳裏から離れなかった。
(ノアが……私の知ってるノアが……やっと戻ってきた……。これ以上の幸せなんてないはずなのに……どうして……ゼノン様のことを考えてしまうのかしら……)
「……本当にすまない……ルシェル……。どうか……俺を許してくれないか……」
その声は、弱くて、幼子のように不安げだった。
「ノア……」
唇が震える。
言葉にすれば簡単なのに、胸に溜まった罪悪感が喉を塞ぐ。
――私はノアを愛している。
――でも、ゼノンを想う心も消せない。
ルシェルは目を閉じ、彼の胸に顔を寄せた。
「……仕方ないわ。だってあなたは事故で記憶をなくしただけだもの…」
「……だが、ルシェルを傷つけたことに変わりない……」
その言葉に、ルシェルの胸は強く締め付けられた。
ノアの謝罪は深く誠実で、彼の痛みと悔恨の重さが伝わってくる。
「…ひとまず、宮廷医が言うには疲れが溜まっているそうだから……ゆっくり休んで。そして、起きたらまた話しましょう……」
「…あぁ」
ノアはルシェルの態度が、これまでとは違うことに気づいていた。
自分を見つめるルシェルが、かつてのルシェルとは別人であるように見えた。
扉の外では、イザベルが息を詰めるように立っていた。
ルシェルが去った後、彼女はすぐに部屋に入る。
「……陛下、お加減は…?」
「…あぁ、大丈夫だ」
ノアは淡々と答えた。
心ここに在らずのようだった。
(陛下が私を見てくれない…)
「すまないが、休ませてくれ」
ノアがイザベルに背を向け、布団の中に入る。
「…はい、陛下」
イザベルはとても不安になった。
――私を、見てくださらない。
もしかしたら、自分はこのまま捨てられるのではないかーー。
(だめ……このままでは……)
イザベルは唇を強く噛んだ。
胸に広がる焦燥が、静かに彼女を追い詰めていった。
「ありがとう、カイン。助かったわ」
「いえ、私は自分の勤めを果たしただけですので」
カインは、ノアが幼い頃から信頼している護衛の一人だ。
ノアの診察を終えた宮廷医は、怪訝そうな顔をしている。
「陛下は大丈夫なの…?」
ルシェルが不安そうに聞く。
「はい、皇后陛下。陛下は疲れが溜まっておられたのかと思われます。睡眠も十分に取れていないようですので、しばらくの間は、どうか安静にして下さいますよう……」
「…そう、わかったわ。ありがとう」
しばらくして、ノアの瞳がゆっくりと開いた。
その瞬間、ルシェルの顔を見つめ、わずかに微笑む。
「……ルシェル……?」
声は弱々しいが、確かに彼女を認識していた。
(……今、ルシェルって言ったの……?)
「……陛下……私のことが…わかるのですか……?」
ノアが不思議そうな顔をしている。
「……なんだ、陛下だなんて……他人行儀だな。どうしたんだ…ルシェル?」
「…まさか…」
ルシェルは驚きを隠せない。
「宮廷医!どういうことなの!?陛下は…ノアは…記憶が戻ったの…!?」
宮廷医も驚いている。
「……そ、そのようです……皇后陛下。私にも、何が何だかさっぱりでして……」
「…ルシェル…?一体どうしたんだ……?大丈夫か……?」
「…ええ、ノア……大丈夫よ…」
ルシェルはしばらくの間嬉しさに浸ったが、ゼノンのことが頭をよぎった。
(さっき…彼の手を振り解いてしまったわ…)
「陛下…大丈夫ですか…?心配しました、急に倒れられて…」
イザベルがノアに声をかけると、ノアは一瞬頭を抱えて、「イザベル…?」と彼女の名を呼んだ。
「はい、陛下のイザベルですよ!」
ノアは何かを思い出したかのように、顔面蒼白になった。
「……そんな……俺は……なんてことを……そんな…まさか…」
ノアが急に涙を流し、言葉を失う。
「…ノア、大丈夫?」
ルシェルがノアに声をかけると、ノアはルシェルの腕を掴み、抱き寄せた。
「…ルシェル…ルシェル…すまない…。俺はなんてことを……」
ノアは涙を流しながらルシェルに謝り続けた。
「陛下はきっと、急に記憶が戻ったことで混乱されているのでしょう…」
宮廷医が静かに囁く。
「……皆……申し訳ないのだけれど、私と陛下を二人きりにしてくれないかしら」
カインや宮廷医は「はい、皇后陛下」と頭を下げて寝室を出ていった。
だが、イザベルだけは留まろうとした。
「……なぜ私まで追い出すのですか!?私も陛下のおそばに居させて下さい!」
「……」
ルシェルはノアを見る。
「……イザベル。ルシェルと二人きりで話したいんだ…」
ノアがイザベルにそう言うと、イザベルは力が抜けたようにしゃがみ込んだ。
「ユリアナ……イザベルを支えてあげてちょうだい」
「はい、皇后陛下。イザベル様、私につかまってください」
ユリアナに支えられて、イザベルは寝室をあとにした。
ノアはルシェルの胸に顔を埋めながら、心の奥で小さく震えていた。
彼女の心臓の鼓動が、頬に温く伝わる。
髪の間からかすかなライラックの香りが立ちのぼり、ノアは思わず目を閉じた。
彼の抱きしめる腕の強さに、胸の奥まで満たされる。
けれど同時に、庭園でゼノンと交わした静かな時間、彼の微笑み、彼の真剣な眼差しーーその全てがどうしても脳裏から離れなかった。
(ノアが……私の知ってるノアが……やっと戻ってきた……。これ以上の幸せなんてないはずなのに……どうして……ゼノン様のことを考えてしまうのかしら……)
「……本当にすまない……ルシェル……。どうか……俺を許してくれないか……」
その声は、弱くて、幼子のように不安げだった。
「ノア……」
唇が震える。
言葉にすれば簡単なのに、胸に溜まった罪悪感が喉を塞ぐ。
――私はノアを愛している。
――でも、ゼノンを想う心も消せない。
ルシェルは目を閉じ、彼の胸に顔を寄せた。
「……仕方ないわ。だってあなたは事故で記憶をなくしただけだもの…」
「……だが、ルシェルを傷つけたことに変わりない……」
その言葉に、ルシェルの胸は強く締め付けられた。
ノアの謝罪は深く誠実で、彼の痛みと悔恨の重さが伝わってくる。
「…ひとまず、宮廷医が言うには疲れが溜まっているそうだから……ゆっくり休んで。そして、起きたらまた話しましょう……」
「…あぁ」
ノアはルシェルの態度が、これまでとは違うことに気づいていた。
自分を見つめるルシェルが、かつてのルシェルとは別人であるように見えた。
扉の外では、イザベルが息を詰めるように立っていた。
ルシェルが去った後、彼女はすぐに部屋に入る。
「……陛下、お加減は…?」
「…あぁ、大丈夫だ」
ノアは淡々と答えた。
心ここに在らずのようだった。
(陛下が私を見てくれない…)
「すまないが、休ませてくれ」
ノアがイザベルに背を向け、布団の中に入る。
「…はい、陛下」
イザベルはとても不安になった。
――私を、見てくださらない。
もしかしたら、自分はこのまま捨てられるのではないかーー。
(だめ……このままでは……)
イザベルは唇を強く噛んだ。
胸に広がる焦燥が、静かに彼女を追い詰めていった。
あなたにおすすめの小説
【完結】私を忘れた貴方と、貴方を忘れた私の顛末
コツメカワウソ
恋愛
ローウェン王国西方騎士団で治癒師として働くソフィアには、魔導騎士の恋人アルフォンスがいる。
平民のソフィアと子爵家三男のアルフォンスは身分差があり、周囲には交際を気に入らない人間もいるが、それでも二人は幸せな生活をしていた。
そんな中、先見の家門魔法により今年が23年ぶりの厄災の年であると告げられる。
厄災に備えて準備を進めるが、そんな中アルフォンスは魔獣の呪いを受けてソフィアの事を忘れ、魔力を奪われてしまう。
アルフォンスの魔力を取り戻すために禁術である魔力回路の治癒を行うが、その代償としてソフィア自身も恋人であるアルフォンスの記憶を奪われてしまった。
お互いを忘れながらも対外的には恋人同士として過ごす事になるが…。
番外編始めました。
世界観は緩めです。
ご都合主義な所があります。
誤字脱字は随時修正していきます。
壊れた心はそのままで ~騙したのは貴方?それとも私?~
志波 連
恋愛
バージル王国の公爵令嬢として、優しい両親と兄に慈しまれ美しい淑女に育ったリリア・サザーランドは、貴族女子学園を卒業してすぐに、ジェラルド・パーシモン侯爵令息と結婚した。
政略結婚ではあったものの、二人はお互いを信頼し愛を深めていった。
社交界でも仲睦まじい夫婦として有名だった二人は、マーガレットという娘も授かり、順風満帆な生活を送っていた。
ある日、学生時代の友人と旅行に行った先でリリアは夫が自分でない女性と、夫にそっくりな男の子、そして娘のマーガレットと仲よく食事をしている場面に遭遇する。
ショックを受けて立ち去るリリアと、追いすがるジェラルド。
一緒にいた子供は確かにジェラルドの子供だったが、これには深い事情があるようで……。
リリアの心をなんとか取り戻そうと友人に相談していた時、リリアがバルコニーから転落したという知らせが飛び込んだ。
ジェラルドとマーガレットは、リリアの心を取り戻す決心をする。
そして関係者が頭を寄せ合って、ある破天荒な計画を遂行するのだった。
王家までも巻き込んだその作戦とは……。
他サイトでも掲載中です。
コメントありがとうございます。
タグのコメディに反対意見が多かったので修正しました。
必ず完結させますので、よろしくお願いします。
彼は亡国の令嬢を愛せない
黒猫子猫
恋愛
セシリアの祖国が滅んだ。もはや妻としておく価値もないと、夫から離縁を言い渡されたセシリアは、五年ぶりに祖国の地を踏もうとしている。その先に待つのは、敵国による処刑だ。夫に愛されることも、子を産むことも、祖国で生きることもできなかったセシリアの願いはたった一つ。長年傍に仕えてくれていた人々を守る事だ。その願いは、一人の男の手によって叶えられた。
ただ、男が見返りに求めてきたものは、セシリアの想像をはるかに超えるものだった。
※同一世界観の関連作がありますが、これのみで読めます。本シリーズ初の長編作品です。
※ヒーローはスパダリ時々ポンコツです。口も悪いです。
あなたの隣に私は必要ですか?
らんか
恋愛
政略結婚にて、3年前より婚約し、学園卒業と共に嫁ぐ予定であったアリーシア。
しかし、諸事情により結婚式は延期され、次の結婚式の日取りさえなかなか決められない状況であった。
そんなアリーシアの婚約者ルートヴィッヒは、護衛対象である第三王女ミーアの傍を片時も離れようとしない。
月1回の婚約者同士のお茶会もすぐに切り上げてしまい、夜会へのエスコートすらしてもらった事がない。
そんな状況で、アリーシアは思う。
私はあなたの隣に必要でしょうか? あなたが求めているのは別の人ではないのでしょうかと。
この罰は永遠に
豆狸
恋愛
「オードリー、そなたはいつも私達を見ているが、一体なにが楽しいんだ?」
「クロード様の黄金色の髪が光を浴びて、キラキラ輝いているのを見るのが好きなのです」
「……ふうん」
その灰色の瞳には、いつもクロードが映っていた。
なろう様でも公開中です。
【完結済】政略結婚予定の婚約者同士である私たちの間に、愛なんてあるはずがありません!……よね?
鳴宮野々花
恋愛
「どうせ互いに望まぬ政略結婚だ。結婚までは好きな男のことを自由に想い続けていればいい」「……あらそう。分かったわ」婚約が決まって以来初めて会った王立学園の入学式の日、私グレース・エイヴリー侯爵令嬢の婚約者となったレイモンド・ベイツ公爵令息は軽く笑ってあっさりとそう言った。仲良くやっていきたい気持ちはあったけど、なぜだか私は昔からレイモンドには嫌われていた。
そっちがそのつもりならまぁ仕方ない、と割り切る私。だけど学園生活を過ごすうちに少しずつ二人の関係が変わりはじめ……
※※ファンタジーなご都合主義の世界観でお送りする学園もののお話です。史実に照らし合わせたりすると「??」となりますので、どうぞ広い心でお読みくださいませ。
※※大したざまぁはない予定です。気持ちがすれ違ってしまっている二人のラブストーリーです。
※この作品は小説家になろうにも投稿しています。
【完結】そんなに嫌いなら婚約破棄して下さい! と口にした後、婚約者が記憶喪失になりまして
Rohdea
恋愛
──ある日、婚約者が記憶喪失になりました。
伯爵令嬢のアリーチェには、幼い頃からの想い人でもある婚約者のエドワードがいる。
幼馴染でもある彼は、ある日を境に無口で無愛想な人に変わってしまっていた。
素っ気無い態度を取られても一途にエドワードを想ってきたアリーチェだったけど、
ある日、つい心にも無い言葉……婚約破棄を口走ってしまう。
だけど、その事を謝る前にエドワードが事故にあってしまい、目を覚ました彼はこれまでの記憶を全て失っていた。
記憶を失ったエドワードは、まるで昔の彼に戻ったかのように優しく、
また婚約者のアリーチェを一途に愛してくれるようになったけど──……
そしてある日、一人の女性がエドワードを訪ねて来る。
※婚約者をざまぁする話ではありません
※2022.1.1 “謎の女”が登場したのでタグ追加しました
結婚式の翌朝、夫に「皇太子の愛人だろう」と捨てられました――ですが私は、亡き国王の娘です
柴田はつみ
恋愛
母の遺した薬草店を守りながら、慎ましく暮らしていたアンリ。
そんな彼女に求婚してきたのは、国内でも名高い騎士にして公爵家当主、アルファだった。
真っすぐな想いを向けられ、彼を信じて結婚したアンリ。
けれど幸せなはずの結婚式の翌朝、夫は冷たく言い放つ。
「君を愛していると本気で思っていたのかい? 」
彼はアンリが第一皇太子と深い仲にあり、自分との結婚は身を隠すための偽装だと誤解していたのだ。
アンリは実は、亡き国王の婚外子。
皇太子にとっては、隠して守らなければならない妹だったのである。