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031 傲慢と誠実
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ノアはルシェルの胸に顔を埋めながら、心の奥で小さく震えていた。
彼女の心臓の鼓動が、頬に温く伝わる。
髪の間からかすかなライラックの香りが立ちのぼり、ノアは思わず目を閉じた。
彼の抱きしめる腕の強さに、胸の奥まで満たされる。
けれど同時に、庭園でゼノンと交わした静かな時間、彼の微笑み、彼の真剣な眼差しーーその全てがどうしても脳裏から離れなかった。
(ノアが…戻ってきた。これ以上の幸せなんてないはずなのに……どうして……ゼノン様のことを考えてしまうの…?)
「……本当にすまない…ルシェル。どうか…俺を許してくれないか…」
その声は、弱くて、幼子のように不安げだった。
「ノア……」
唇が震える。言葉にすれば簡単なのに、胸に溜まった罪悪感が喉を塞ぐ。
――私はあなたを愛している。
――でも、ゼノン様を想う心も消せない。
ルシェルは目を閉じ、彼の胸に顔を寄せた。
「…仕方ないわ。だってあなたは事故で記憶をなくしただけだもの…」
「…だが、ルシェルを傷つけたことに変わりない…」
その言葉に、ルシェルの胸は強く締め付けられた。
ノアの謝罪は深く誠実で、彼の痛みと悔恨の重さが伝わってくる。
「…ひとまず、宮廷医が言うには疲れが溜まっているとのことだったから、ゆっくり休んで。そして、起きたらまたゆっくり話しましょう…」
「…あぁ」
ノアはルシェルの態度がこれまでとは違うことに気づいていた。
自分を見つめるルシェルが、かつてのルシェルとは別人であるように見えた。
扉の外では、イザベルが息を詰めるように立っていた。ルシェルが去った後、彼女はすぐに部屋に入る。
「……陛下、お加減は…?」
「…あぁ、大丈夫だ」
ノアは淡々と答えた。
心ここに在らずのようだった。
(陛下が私を見てくれない…)
「すまないが、休ませてくれ」
ノアがイザベルに背を向け、布団の中に入る。
「…はい、陛下」
イザベルはとても不安になった。
――私を、見てくださらない。
もしかしたら、自分はこのまま捨てられるのではないかーー。
(だめ……このままでは……)
イザベルは唇を強く噛んだ。
胸に広がる焦燥が、静かに彼女を追い詰めていった。
***
ーー南方の使節団が宿泊している客殿の一室。
ゼノンは窓辺に立ち、夜空を仰いでいた。
彼の周りには銀色の蝶が舞っている。
「…殿下、眠れないのですか?」
レイセルがそっと声をかける。
彼は書簡を机に置き、一礼する。
「…あぁ」
ゼノンは静かに答え、窓硝子に映る自らの影をじっと見つめた。
レイセルは少し眉を曇らせた。
「……皇后陛下のことをお考えですか?」
「……」
ゼノンはしばらく黙していたが、やがて低く答えた。
「……皇帝が倒れた時…ルシェル様は俺の手を払いのけて真っ先に駆け寄られた…まるで俺など見えてないかのようにな…」
言葉は淡々としているが、内に揺れるものは隠しきれない。
レイセルは、主の拳が窓枠を強く握りしめているのを見逃さなかった。
「皇后陛下にとって、あの方は……」
「あぁ、わかっている」
ゼノンは自らの言葉で断ち切るように答えた。
「……殿下。皇后陛下は、あの瞬間、ご自身の心に正直に動かれたのでしょう。皇后陛下にとって皇帝陛下は、長く寄り添った唯一の伴侶。駆け寄るのは当然のことかと…」
ゼノンの肩が小さく震えた。
握りしめた拳から、節の白さが際立つ。
「…お前の言うとおりだな」
ゼノンはそれ以上、何も言わなかった。
***
ーー夜も更けた頃、宮殿の広間。
セリスは月明かりの下で静かに佇み、広間で月明かりに照らされた精霊たちの壁画を見つめていた。
ゼノンは少し距離を置き、足音を忍ばせながら近づく。
「…セリス」
「これは…王子殿下。こんな夜更けに、何かご用でしょうか」
「……君と話がしたくてな」
ゼノンの声は低く、しかし柔らかく響く。
「…彼女のことだが」
セリスは軽く息を吐き、月光に照らされた輪郭がわずかに緩む。
「……やはり、皇后陛下のことで悩んでいるのですね」
「……あぁ」
ゼノンは壁画を見つめながら険しい表情になる。
「殿下…人の心は、潮のように満ち引きします。見えるものだけが全てではありません。あなたが今何を考えているのか分かりませんが、その悩みもまた…精霊の導きなのでしょう」
ゼノンはその比喩に、小さく笑みを漏らす。
「…精霊信仰は相変わらずだな、セリス。俺が怖れているのはな…もし俺がここにいることが、彼女の心を惑わし曇らせるのであれば――それは俺の傲慢に過ぎないということだ。彼女の幸せを願うと言いながら、己の欲を満たすことに等しい。…そうだろう?」
「そうですね…。大切なのは、あなたが彼女のために何を為すか、どのように振る舞うか──それが誠意の尺度となるでしょう」
ゼノンはしばらく考えを巡らせる。
「もし、あなたが彼女の元を去ることを選ぶのなら、その理由を伝えればいい。留まるのなら、何を以て留まるのかーー誠意を持って示せばよいと思います」
「だが、彼女を困らせたくはないんだ…」
「殿下…揺れる心を持つ人に、完璧な心の安定を与えようとするのは酷です。むしろ、相手が揺れるのを見守る勇気も必要なのですよ。あなたは、あなたの誠意を示し続ける。その誠意が、彼女にとって一つの拠り所になれば、彼女が未来を選ぶための力になるのではないでしょうか?」
ゼノンは眼差しを遠くへ向けたまま、セリスの言葉を反芻する。
「誠意を示す、か。だが、示し方次第でそれは押し付けにもなるだろう?」
「押し付けと誠意の違いは、相手の尊厳を侵さぬかどうかにあります。あなたがどれほど何かを強く願っていても、相手の選択を脅かしてはならない。分かりやすくいえば、相手の『選ぶ自由を奪わぬ配慮』が大切なのです」
ゼノンはやっとセリスに顔を向ける。
「…そうだな。君の言うとおりだ」
「加えて、私から一つだけ助言を。心が動くとき、人は言葉より先に行動を取ることがあります。あなたの行動は彼女を安心させることも、不安にさせることもある。何かをするときは、その行動に裏打ちされた言葉を添えることを忘れないでください」
ゼノンは短く笑い、頷いた。
「ありがとう、セリス。君の言葉はいつも俺の救いになる」
セリスは柔らかく頭を下げる。
「恐れ多いお言葉です」
二人はしばらく言葉を交わさず、ただ精霊たちが描かれた壁画を見つめていた。
回廊に差し込む光が少しずつ増し、ゼノンの胸にあった重さが、風に流されるように和らいでいくのが感じられた。
彼女の心臓の鼓動が、頬に温く伝わる。
髪の間からかすかなライラックの香りが立ちのぼり、ノアは思わず目を閉じた。
彼の抱きしめる腕の強さに、胸の奥まで満たされる。
けれど同時に、庭園でゼノンと交わした静かな時間、彼の微笑み、彼の真剣な眼差しーーその全てがどうしても脳裏から離れなかった。
(ノアが…戻ってきた。これ以上の幸せなんてないはずなのに……どうして……ゼノン様のことを考えてしまうの…?)
「……本当にすまない…ルシェル。どうか…俺を許してくれないか…」
その声は、弱くて、幼子のように不安げだった。
「ノア……」
唇が震える。言葉にすれば簡単なのに、胸に溜まった罪悪感が喉を塞ぐ。
――私はあなたを愛している。
――でも、ゼノン様を想う心も消せない。
ルシェルは目を閉じ、彼の胸に顔を寄せた。
「…仕方ないわ。だってあなたは事故で記憶をなくしただけだもの…」
「…だが、ルシェルを傷つけたことに変わりない…」
その言葉に、ルシェルの胸は強く締め付けられた。
ノアの謝罪は深く誠実で、彼の痛みと悔恨の重さが伝わってくる。
「…ひとまず、宮廷医が言うには疲れが溜まっているとのことだったから、ゆっくり休んで。そして、起きたらまたゆっくり話しましょう…」
「…あぁ」
ノアはルシェルの態度がこれまでとは違うことに気づいていた。
自分を見つめるルシェルが、かつてのルシェルとは別人であるように見えた。
扉の外では、イザベルが息を詰めるように立っていた。ルシェルが去った後、彼女はすぐに部屋に入る。
「……陛下、お加減は…?」
「…あぁ、大丈夫だ」
ノアは淡々と答えた。
心ここに在らずのようだった。
(陛下が私を見てくれない…)
「すまないが、休ませてくれ」
ノアがイザベルに背を向け、布団の中に入る。
「…はい、陛下」
イザベルはとても不安になった。
――私を、見てくださらない。
もしかしたら、自分はこのまま捨てられるのではないかーー。
(だめ……このままでは……)
イザベルは唇を強く噛んだ。
胸に広がる焦燥が、静かに彼女を追い詰めていった。
***
ーー南方の使節団が宿泊している客殿の一室。
ゼノンは窓辺に立ち、夜空を仰いでいた。
彼の周りには銀色の蝶が舞っている。
「…殿下、眠れないのですか?」
レイセルがそっと声をかける。
彼は書簡を机に置き、一礼する。
「…あぁ」
ゼノンは静かに答え、窓硝子に映る自らの影をじっと見つめた。
レイセルは少し眉を曇らせた。
「……皇后陛下のことをお考えですか?」
「……」
ゼノンはしばらく黙していたが、やがて低く答えた。
「……皇帝が倒れた時…ルシェル様は俺の手を払いのけて真っ先に駆け寄られた…まるで俺など見えてないかのようにな…」
言葉は淡々としているが、内に揺れるものは隠しきれない。
レイセルは、主の拳が窓枠を強く握りしめているのを見逃さなかった。
「皇后陛下にとって、あの方は……」
「あぁ、わかっている」
ゼノンは自らの言葉で断ち切るように答えた。
「……殿下。皇后陛下は、あの瞬間、ご自身の心に正直に動かれたのでしょう。皇后陛下にとって皇帝陛下は、長く寄り添った唯一の伴侶。駆け寄るのは当然のことかと…」
ゼノンの肩が小さく震えた。
握りしめた拳から、節の白さが際立つ。
「…お前の言うとおりだな」
ゼノンはそれ以上、何も言わなかった。
***
ーー夜も更けた頃、宮殿の広間。
セリスは月明かりの下で静かに佇み、広間で月明かりに照らされた精霊たちの壁画を見つめていた。
ゼノンは少し距離を置き、足音を忍ばせながら近づく。
「…セリス」
「これは…王子殿下。こんな夜更けに、何かご用でしょうか」
「……君と話がしたくてな」
ゼノンの声は低く、しかし柔らかく響く。
「…彼女のことだが」
セリスは軽く息を吐き、月光に照らされた輪郭がわずかに緩む。
「……やはり、皇后陛下のことで悩んでいるのですね」
「……あぁ」
ゼノンは壁画を見つめながら険しい表情になる。
「殿下…人の心は、潮のように満ち引きします。見えるものだけが全てではありません。あなたが今何を考えているのか分かりませんが、その悩みもまた…精霊の導きなのでしょう」
ゼノンはその比喩に、小さく笑みを漏らす。
「…精霊信仰は相変わらずだな、セリス。俺が怖れているのはな…もし俺がここにいることが、彼女の心を惑わし曇らせるのであれば――それは俺の傲慢に過ぎないということだ。彼女の幸せを願うと言いながら、己の欲を満たすことに等しい。…そうだろう?」
「そうですね…。大切なのは、あなたが彼女のために何を為すか、どのように振る舞うか──それが誠意の尺度となるでしょう」
ゼノンはしばらく考えを巡らせる。
「もし、あなたが彼女の元を去ることを選ぶのなら、その理由を伝えればいい。留まるのなら、何を以て留まるのかーー誠意を持って示せばよいと思います」
「だが、彼女を困らせたくはないんだ…」
「殿下…揺れる心を持つ人に、完璧な心の安定を与えようとするのは酷です。むしろ、相手が揺れるのを見守る勇気も必要なのですよ。あなたは、あなたの誠意を示し続ける。その誠意が、彼女にとって一つの拠り所になれば、彼女が未来を選ぶための力になるのではないでしょうか?」
ゼノンは眼差しを遠くへ向けたまま、セリスの言葉を反芻する。
「誠意を示す、か。だが、示し方次第でそれは押し付けにもなるだろう?」
「押し付けと誠意の違いは、相手の尊厳を侵さぬかどうかにあります。あなたがどれほど何かを強く願っていても、相手の選択を脅かしてはならない。分かりやすくいえば、相手の『選ぶ自由を奪わぬ配慮』が大切なのです」
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「加えて、私から一つだけ助言を。心が動くとき、人は言葉より先に行動を取ることがあります。あなたの行動は彼女を安心させることも、不安にさせることもある。何かをするときは、その行動に裏打ちされた言葉を添えることを忘れないでください」
ゼノンは短く笑い、頷いた。
「ありがとう、セリス。君の言葉はいつも俺の救いになる」
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