【完結】初恋のアルファには番がいた—番までの距離—

水樹りと

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第6章 健吾side

第二話

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 治療が進むにつれて、健吾は別の変化も感じるようになっていた。
 蛍のフェロモンを、以前よりもはっきりと感じるようになったのだ。

 最初に気づいたのは、治療開始から三週間ほど経った頃だった。
 いつものように蛍が研究室を訪れた時、ふわりと甘い香りが鼻腔をくすぐった。
 一瞬、気のせいかと思った。
 番の絆で結ばれたアルファが他のオメガのフェロモンを感じるなど、通常はあり得ないことだからだ。

 しかし、その後も蛍が近くにいるたび、同じような香りを感じるようになった。
 温かく、優しく、なぜか心を落ち着かせる匂い。
 それは確実に蛍から発せられているものだった。

 一ヶ月が過ぎる頃には、それがはっきりと蛍のフェロモンだと認識できるようになっていた。
 番の絆が強い時には感じられなかった、蛍本来の香り。
 健吾の神経を不思議と安らがせる、やわらかな芳香。

 担当医師に相談すると、予想通りの答えが返ってきた。

「番の絆が弱くなると、他の人のフェロモンに対する感受性が徐々に回復します。特に、相性の良い相手のフェロモンは早い段階で感じられるようになることが多いです」
 相性が良い——その言葉が、健吾の心に小さな波紋を広げた。



 そんな中、大学は夏休みに入った。

 健吾は治療に専念できる期間として夏休みを歓迎していた。
 定期的な通院と薬の調整、そして論文執筆に集中できる貴重な時間だ。
 研究室は静かで、冷房の効いた空間で資料と向き合う日々は、ある意味で心地よくもあった。

 しかし一方で、蛍に会えない日々が続くことに、予想外の寂しさを感じていた。
 研究室で一人作業をしていても、蛍がふらりと現れないかと、つい入り口に視線を向けてしまう。
 いつもなら午後の三時頃にノックの音が響くはずなのに、その音が聞こえない静寂が妙に重く感じられた。

 夏休みに入って三週間ほど経った頃、蛍からメッセージが届いた。

『お疲れさま。夏休み、どう過ごしてる?』
 健吾は画面を見つめながら、胸の奥が温かくなるのを感じた。
 久しぶりに見る蛍の名前に、思っていた以上に嬉しさを感じる自分に少し驚く。

『いつもと変わらず研究で忙しくしているよ。蛍はどう?』
『サークルしたり、バイトしたり。ねえ、時間があるときに映画でも見に行かない?』
 その提案に、健吾の心は大きく揺れた。
 蛍と二人で過ごす時間への憧れと、今はまだその時ではないという理性が激しく葛藤する。
 番の問題が完全に解決していない状況で、蛍に曖昧な期待を抱かせてしまうのは適切ではない。

 しかし、治療の疲れと研究の孤独感に包まれていた健吾にとって、蛍との時間は何よりの癒しになると感じられた。
 医師からも「適度な気分転換は治療にとって良い影響を与える」と言われていたこともある。

 健吾は少し迷いながらも返信を打った。

『良いね。久しぶりに映画を見たい気分だった』



 約束の日、健吾は新宿の映画館で蛍と待ち合わせた。
 夏の陽射しが強い午後、人混みの中に蛍の姿を見つけた時、健吾の心臓は静かに跳ねた。
 白いシャツにジーンズという軽やかな服装の蛍は、夏の光に映えて一段と魅力的に見える。

「健ちゃん、久しぶり」
「うん、久しぶりだね」
 蛍の笑顔を見た瞬間、健吾は胸の奥が温かくなるのを感じた。
 三週間ぶりに会う蛍は、なぜか以前より大人っぽく見える。

「何を見ようか?」
「実は、『ホーリー・モーターズ』の再上映があるんだ。上映時に話題になったけど、都合が合わなくて見られなかった」
 健吾の提案に、蛍は興味深そうに頷いた。

「前衛的な作品らしくて、レオス・カラックス監督の最新作だから、見ておきたくて」

 チケットを購入し、開演まで少し時間があったので、二人はロビーのカフェで軽く話をした。
 蛍はサークル活動の話、バイトでの小さなエピソードを楽しそうに語る。
 その表情を見ていると、健吾は自然と微笑みがこぼれる。

「健ちゃんは夏休み、ずっと研究してるの?」
「まあ、そんなところかな。あとは……」
 治療のことを話しかけて、健吾は言葉を飲み込んだ。

「あとは?」
「病院通いがあって。定期検診みたいなものだから、大したことじゃない」
 嘘ではないが、全てを話しているわけでもない。
 蛍の心配そうな表情を見て、健吾は少し罪悪感を覚えた。

 暗い館内で、二人は並んで座った。
『ホーリー・モーターズ』は確かに前衛的な作品で、一人の男性が様々な役を演じ分けながら謎めいた一日を過ごす物語だった。

 スクリーンからの光に照らされた蛍の横顔は真剣で、時に微笑み、時に困惑の表情を浮かべる。
 そしてそれ以上に、蛍から漂う甘い香りは、健吾を落ち着かせると同時に、集中力を静かに奪っていく。
 不思議な感覚だった。

 映画の中で主人公が次々と異なる人格を演じる様子を見ながら、健吾は自分自身のことを考えていた。
 番に縛られた自分、蛍を想う自分、研究者としての自分——どれが本当の自分なのだろう。

 映画が終わり、二人はカフェで感想を語り合った。


「なんかシュールな映画だったね」
「ああ。主人公の演じ分けがすごかった。一人の俳優があれだけ違う人物になれるなんて」
「最後のシーンはちょっと切なかった」
 映画について語り合える相手がいることの喜び。
 それは学術的な議論とは違う種類の充実感をもたらした。

 話し方の仕草、考え込む時の表情、時折零れる笑顔——すべてが健吾にとって特別に思えた。
 アイスコーヒーのストローを回す指先の動きまでが、なぜか愛おしく感じられる。
 そんな自分に戸惑いを覚えた。

 時計を見ると、既に夕方になっていた。

「そろそろ帰ろうか」
「うん」
 別れ際、蛍が少し寂しそうに言った。

「また誘ってもいい?」
「もちろん」
 健吾は答えたが、内心では複雑な気持ちを抱いていた。
 蛍といると心が安らぐ。
 彼の笑顔を見ていると、治療の疲れも研究の行き詰まりも忘れられる。
 でも同時に、まだ番の問題が解決していない自分が、蛍に中途半端な期待を抱かせてしまうことへの不安もあった。



 夏休みの残り期間、健吾は治療と研究に集中した。
 番解消は順調に進み、体調も安定していた。
 尚との関係も、友人として自然なものに変化している。
 すべてが良い方向に向かっているのに、心の中には一つの疑問が残り続けていた。

 蛍への想いは、番の絆が弱くなったことによる一時的な現象なのか。
 それとも、本来からあった感情が表面化したのか。

 夏休みが明け、後期の講義が始まった。 
 キャンパスに学生たちの声が戻り、研究室も再び活気を取り戻す。

 そして十月の初旬、健吾の研究室に正式に配属される学部生が発表された。
 蛍を含む五人の学生が選ばれていた。
 指導教授から名簿を受け取った時、蛍の名前を見つけた健吾の心は静かに躍った。

「配属おめでとう」
 研究室での初回ミーティングで、健吾は蛍に声をかけた。

「ありがとう。よろしくね」
 蛍の笑顔は嬉しそうだった。

 健吾は、これから蛍との距離がより近くなることに、期待と不安を同時に感じていた。

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