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聞きに徹しようと背筋を伸ばす。眼鏡もいつもの位置にセット。これで聞く姿勢は完璧。そう自信たっぷりに表情まで作るも、杏さんの反応は真逆だった。
「今というか、ちょっと前までは彼氏と一緒に過ごしてたかな」
寂しげに頬をかく杏さん。自分の過ちに気付いた時にはもう遅い。よく考えれば分かることだった。しゃんと伸ばしていた背が猫のように丸まる。杏さんの表情がはっきり見える眼鏡なんて捨ててしまいたい。何が聞く姿勢だ。そもそも聞くべきではなかったのに。
「あんちゃんが嫌でなければ聞いてくれる?」
杏さんが寂しそうに笑ってみせた。
「私の自己満足で、聞いていい気分にはならないと思うけれど。どうかな」
「ぜひっ。お願いします」
テーブルにおなかが当たるほど前のめりで応えた。そんな私がおかしかったのか、杏さんが小さく笑みをこぼした。
「私ね、昔は引っ込み思案だったの。陰キャってやつ」
「そうなんですか?」
表情豊かな杏さんからは想像もできない。何があったらこうも変わるのだろう。ぜひとも聞きたい。
「だから友だちはできなかったし、何人か告白してくれた人はいたけれど、見た目でしか選んでなかったからすぐに別れちゃった」
杏さんが手にしたコップを揺らしている。音もなく波をたてる水に目をやりながら、再び口を開いた。
「就職しても変わらないと思っていた時に、同窓会で彼と出会ったの。最初は覚えてなくて冷たくしちゃったけれど」
「最初は?」
杏さんが下唇を噛みながら頷いた。
「話しているうちに妙に気が合ってね。いつの間にか好きになって私から告白したの。まあ、絶賛けんか中なんだけどね。あはは」
無理しているのが見て取れる。本当は後悔しているのではないだろうか。
「はいおまたせー」
しんみりとした空気を割くように、坂本さんが料理を運んできた。
「とんかつ定食二つね。残さず食べとくれよ」
大きな笑顔と一緒に運んできたそれから目を離せない。というか、視線が縫い付けられた。
「ご飯とみそ汁はおかわり自由。久しぶりに来てくれたから漬物もおかわりしていいよ」
「ほんと? さっすが坂本さん。相変わらず太っ腹」
「おい杏珠。今、俺の腹を見て言ったろ」
「そんなことないですって」
頭上を飛び交う会話が耳から耳へと抜けていく。じっと並べられた料理を見続けた。これは、何の間違いだろう。
所狭しと並ぶとんかつ定食は確かにおいしそう。食にこだわりのない私がそう思うほどに輝いて見える。しかし問題なのはその量だった。
山脈のように添えられたキャベツに始まり、こんもり盛られた白ご飯。みそ汁もなぜか片手で持てるか不安なほど大きいけれど、一番の問題はとんかつの枚数だった。
「三枚?」
誰に対しての疑問になるのだろう。坂本さんに対する驚きか、杏さんに対しての愚痴か。それとも自分に対する挑戦なのか。
「いただきます」
杏さんが手を合わせた。これを本当に食べるの? 杏さんみたいなモデル体型の痩せている人が? もしかして大食いが趣味だったりするのかな。
「あんちゃん」
目が合った杏さんが顔を寄せてきた。
「もしかしてとんかつ苦手?」
「あ、いや、大丈夫です」
「よかった。食べられないなんて言われたら、どうしようかと思って」
言ったらどうなるか聞いてみたい。そんな懸念を飲み込めないものの、テーブルに置かれた割り箸を手に取った。幸いにもおなかは空いている。自分を信じて完食するしかない。
優先度は上からとんかつ、ご飯、みそ汁、キャベツに漬物。最悪、みそ汁以下は残しても仕方がない。メインとご飯さえ残さなければなんとかなるはず。
そう考える時点で失礼なのは百も承知だけれど、今日ばかりは許してほしい。見知らぬ生産者と坂本さんと杏さんに胸の中で謝り、ソースのかかったとんかつを口に運んだ。
「あ、おいしい」
「でしょ? ソースも一味違うんだよ」
お母さんが作るものとは全く違う。さくさく、ジューシー。人並みの感想だけれどまさにそれ。それ以外は余計だと思うほどシンプルにおいしい。ソースもさっぱりして、これなら三枚いけるかもしれない。
活路を見いだし、切り分けられたとんかつを口に運ぶ。追い風のようにみそ汁も私好みで、味を変えるために調味料も使ってとんかつにかぶりついていった。
「ふう」
早くも脳が満腹を主張し始める。徐々に鈍くなる右手。持っていた箸を汁椀の上に置いてぎゅっと拳を握った。まるで喉にふたがされたように胃袋が受け付けてくれない。それどころか胃から――。
じっと米粒を見つめて全身の神経を研ぎ澄ます。危ない。なんとかやり過ごした。とんかつは残り一枚。それ以外はもう、無理。
「ごちそうさまでした」
驚きの一言にぐわんと顔を振り上げた。自分のとんかつに精いっぱいで、正面の杏さんを気にも留めていなかった。にしても早過ぎる。何をどうやったらこんな短時間で食べきったのだろう。
「え?」
杏さんの前に並ぶ空っぽの茶碗。けれどとんかつはまだ丸々一枚残っている。考えれば考えるほど満腹感は紛れるものの、正解は一向に思い付かない。
「食べ足りない? 私のでよかったら食べる?」
自分の分も食べきれないのにこれ以上は本当に無理だ。吐き気を感じないようにゆっくりと首を振った。
「大丈夫です。少し休憩していて」
「そっか。すいませーん!」
優しい微笑みを残して杏さんが手を挙げた。すると坂本さんとはまた違う男性がやって来た。
「はい」
「持ち帰り用のパンってまだありますか?」
「ありますよ。二人分で?」
持ち帰り? パン? 訳が分からないと固まる私に杏さんは振り返って、どうする? と口を動かした。とりあえず頷く。店員さんにも伝わったようで、踵を返して去っていった。
「もしかしてお腹いっぱい?」
「はい、実はもう」
「それならそうと言ってくれればいいのに」
「だって、その、杏さんが教えてくれたお店で残したくなくて」
「残す? 食べきれなくても持ち帰れるって……」
杏さんが目を見開き、両手で口を覆った。
「言わなかったっけ?」
「初めて聞きました」
「ごめんごめん。おなかが空いてて完全に忘れてた」
「今というか、ちょっと前までは彼氏と一緒に過ごしてたかな」
寂しげに頬をかく杏さん。自分の過ちに気付いた時にはもう遅い。よく考えれば分かることだった。しゃんと伸ばしていた背が猫のように丸まる。杏さんの表情がはっきり見える眼鏡なんて捨ててしまいたい。何が聞く姿勢だ。そもそも聞くべきではなかったのに。
「あんちゃんが嫌でなければ聞いてくれる?」
杏さんが寂しそうに笑ってみせた。
「私の自己満足で、聞いていい気分にはならないと思うけれど。どうかな」
「ぜひっ。お願いします」
テーブルにおなかが当たるほど前のめりで応えた。そんな私がおかしかったのか、杏さんが小さく笑みをこぼした。
「私ね、昔は引っ込み思案だったの。陰キャってやつ」
「そうなんですか?」
表情豊かな杏さんからは想像もできない。何があったらこうも変わるのだろう。ぜひとも聞きたい。
「だから友だちはできなかったし、何人か告白してくれた人はいたけれど、見た目でしか選んでなかったからすぐに別れちゃった」
杏さんが手にしたコップを揺らしている。音もなく波をたてる水に目をやりながら、再び口を開いた。
「就職しても変わらないと思っていた時に、同窓会で彼と出会ったの。最初は覚えてなくて冷たくしちゃったけれど」
「最初は?」
杏さんが下唇を噛みながら頷いた。
「話しているうちに妙に気が合ってね。いつの間にか好きになって私から告白したの。まあ、絶賛けんか中なんだけどね。あはは」
無理しているのが見て取れる。本当は後悔しているのではないだろうか。
「はいおまたせー」
しんみりとした空気を割くように、坂本さんが料理を運んできた。
「とんかつ定食二つね。残さず食べとくれよ」
大きな笑顔と一緒に運んできたそれから目を離せない。というか、視線が縫い付けられた。
「ご飯とみそ汁はおかわり自由。久しぶりに来てくれたから漬物もおかわりしていいよ」
「ほんと? さっすが坂本さん。相変わらず太っ腹」
「おい杏珠。今、俺の腹を見て言ったろ」
「そんなことないですって」
頭上を飛び交う会話が耳から耳へと抜けていく。じっと並べられた料理を見続けた。これは、何の間違いだろう。
所狭しと並ぶとんかつ定食は確かにおいしそう。食にこだわりのない私がそう思うほどに輝いて見える。しかし問題なのはその量だった。
山脈のように添えられたキャベツに始まり、こんもり盛られた白ご飯。みそ汁もなぜか片手で持てるか不安なほど大きいけれど、一番の問題はとんかつの枚数だった。
「三枚?」
誰に対しての疑問になるのだろう。坂本さんに対する驚きか、杏さんに対しての愚痴か。それとも自分に対する挑戦なのか。
「いただきます」
杏さんが手を合わせた。これを本当に食べるの? 杏さんみたいなモデル体型の痩せている人が? もしかして大食いが趣味だったりするのかな。
「あんちゃん」
目が合った杏さんが顔を寄せてきた。
「もしかしてとんかつ苦手?」
「あ、いや、大丈夫です」
「よかった。食べられないなんて言われたら、どうしようかと思って」
言ったらどうなるか聞いてみたい。そんな懸念を飲み込めないものの、テーブルに置かれた割り箸を手に取った。幸いにもおなかは空いている。自分を信じて完食するしかない。
優先度は上からとんかつ、ご飯、みそ汁、キャベツに漬物。最悪、みそ汁以下は残しても仕方がない。メインとご飯さえ残さなければなんとかなるはず。
そう考える時点で失礼なのは百も承知だけれど、今日ばかりは許してほしい。見知らぬ生産者と坂本さんと杏さんに胸の中で謝り、ソースのかかったとんかつを口に運んだ。
「あ、おいしい」
「でしょ? ソースも一味違うんだよ」
お母さんが作るものとは全く違う。さくさく、ジューシー。人並みの感想だけれどまさにそれ。それ以外は余計だと思うほどシンプルにおいしい。ソースもさっぱりして、これなら三枚いけるかもしれない。
活路を見いだし、切り分けられたとんかつを口に運ぶ。追い風のようにみそ汁も私好みで、味を変えるために調味料も使ってとんかつにかぶりついていった。
「ふう」
早くも脳が満腹を主張し始める。徐々に鈍くなる右手。持っていた箸を汁椀の上に置いてぎゅっと拳を握った。まるで喉にふたがされたように胃袋が受け付けてくれない。それどころか胃から――。
じっと米粒を見つめて全身の神経を研ぎ澄ます。危ない。なんとかやり過ごした。とんかつは残り一枚。それ以外はもう、無理。
「ごちそうさまでした」
驚きの一言にぐわんと顔を振り上げた。自分のとんかつに精いっぱいで、正面の杏さんを気にも留めていなかった。にしても早過ぎる。何をどうやったらこんな短時間で食べきったのだろう。
「え?」
杏さんの前に並ぶ空っぽの茶碗。けれどとんかつはまだ丸々一枚残っている。考えれば考えるほど満腹感は紛れるものの、正解は一向に思い付かない。
「食べ足りない? 私のでよかったら食べる?」
自分の分も食べきれないのにこれ以上は本当に無理だ。吐き気を感じないようにゆっくりと首を振った。
「大丈夫です。少し休憩していて」
「そっか。すいませーん!」
優しい微笑みを残して杏さんが手を挙げた。すると坂本さんとはまた違う男性がやって来た。
「はい」
「持ち帰り用のパンってまだありますか?」
「ありますよ。二人分で?」
持ち帰り? パン? 訳が分からないと固まる私に杏さんは振り返って、どうする? と口を動かした。とりあえず頷く。店員さんにも伝わったようで、踵を返して去っていった。
「もしかしてお腹いっぱい?」
「はい、実はもう」
「それならそうと言ってくれればいいのに」
「だって、その、杏さんが教えてくれたお店で残したくなくて」
「残す? 食べきれなくても持ち帰れるって……」
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