アンズトレイル

ふみ

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「あの」
 おずおずと問いを投げる。杏さんが首をかしげた。
「バラ――あ、えっと、彼氏さんを埋めた後はどうするんですか」
「それは、うん。うん」
 杏さんがあごに手を当て唸る。後先考えずに殺した。よく耳にする動機はそんなものか。
 なんて、冷静な自分に気が付く。目の前にいるのは殺人犯。それなのにどうして落ち着いていられるのだろう。ひょっとしたら殺される可能性だってあるのに。
「二人きりの静かな場所で話したい。そのために連れてきたの」
 杏さんが入り口へ目をやっている。話す? 連れてきた? 冷静なのに理解できない。それとも冷静だから理解しようとしないのか。ただ、まばたきの数が増えていく。
「そうだ、あんちゃんも挨拶してあげて」
 跳ねるように立ち上がった杏さん。入り口横に置かれたリュックを手に戻ってきた。
 ホテルに入った時から気になっていた。昨夜はキャリーケースを部屋に持ち込んでいたのに、どうして今日はリュックに着替えを詰めて持ってきたのだろうかと。それに着替えや化粧道具だけでは、あそこまで膨らまないだろうと。まさか。
「はい、これが私の彼」
 リュックから現れた男性の頭。あれこれ考えるより先に、込み上げるものが口から漏れた。ごえっと普段は発しない音。口から乳白色の液体があふれ出る。とっさに腰を曲げ、崩れるようにカーペットへ膝を突いた。
 艶のあるカーペットに広がる嘔吐物。口の中に広がる酸っぱさに吐き気を覚え、両手を突いてまたも吐き出した。
「人の彼氏を見て吐かないでよ」
 降りかかる不機嫌な声色に答える暇なんかない。余裕ぶっていた私はどこへいったの。
 どうせ死ぬからと達観していたはずなのに、いざ死に触れただけでこのありさま。恥ずかしい、情けない、みっともない。冷静になった気でいた自分がばからしい。しかしそれ以上に、杏さんへの恐怖心が芽生えてしまった。
「ほら、謝って」
 杏さんの声と気配が一段と近くなる。カーペットに両手を突いて目をつむっても予想はできた。彼氏さんの気配と鼻をつく腐敗臭がすぐそこに。薄く目を開け、瞳だけ動かして前方を覗いた。
 首から下のない彼氏さん。再び吐き気を催すも、生あくびのように口を開けるだけで済んだ。見ないようにと目を強く閉じても、視界に入ってしまったあの顔はまぶたの裏に残り続けた。
 はっきりと開かれた生気のない目と、青ざめた肌。映画で見た作り物と全く違う。分かっていたはずなのに、こうも衝撃を受けてしまうとは。
「ねえ、聞こえてる?」
 先ほどよりも不機嫌の色が濃い。吐き気の中で存在感を強めたズキズキとした胸の痛みに応えるべく、開けっ放しでよだれが垂れる口を動かした。
「すみ、ません、でした。ごめん、なさい」
 彼氏さんを見ないように首を持ち上げ、まるで土下座のように謝罪を口にした。直接顔を合わせてと言われたら、どうしようもない。
「ちゃんと謝ってほしいのに……え? いいの? そっか」
 まるで通話しているような話し声。もちろん杏さん以外の声は聞こえない。誰と、話しているんだろう。
 待って、違う、誰なんかじゃない。あの時と同じだ。深夜、杏さんが話していたのは彼氏さんだったんだ。話すことのできない彼氏さんと、頭の中で話していたんだ。
「彼が許してあげるって。もう失礼なことしちゃ駄目だよ?」
 まぶたの裏の世界で、遠ざかる足音が聞こえる。とりあえずは、片付けないと。タオルとバケツと、後は何だろう。思考がうまくまとまらない。今にも吐き気を催しそうな緊張状態がずっと続いている。
「立てる?」
 荷物を仕舞うような音の後で、ふわりと温かい手が肩に触れた。ふるふると首を振る。正直、カーペットに突いている腕が今にも折れ曲がってしまいそう。
「私が片付けるから、ゆっくりお風呂に入っといで」
 頷けば、杏さんに肩を抱かれて浴室へと運ばれた。洗面台に映る私。顔色があからさまに悪い。まるで死人のようだ。
「うう」
 脳裏をよぎる彼氏さんの顔。洗面台の縁に手を突き、もう片方の手で口を覆う。出すものはもうないのに、人間の体は本当に不便だ。
 まるで一つ一つの動作を確認するような速度でルームウェアを脱ぎ捨てた。水色がところどころ乳白色になり、ひどい臭いを発している。できるだけ浴槽から遠ざけ、温度なんて感じないシャワーを浴びた。
「あんちゃん。ドアの前に着替え置いておくね。ルームウェアもらってもいい?」
 薄いドアの外から聞こえた優しい声。何気なく答えられた問いも、今日からは覚悟がいるようになってしまうのだろうか。
「あ、はい」
 ルームウェアの汚れた部分が内側になるように丸くし、ドアの外へ腕を伸ばした。
「ありがと。ランドリー行きながらタオル借りてくるからね」
 優しげな声を断ったドアの閉まる音。耳に入るのはシャワー音のみ。帰りを静かに待ち、戻ってきた杏さんからタオルと着替えを受け取った。
 いつもよりも時間をかけて下着を身に着け、普段着ているシャツとカーゴパンツを身に着けて浴室を出た。
「おかえり。大丈夫?」
 目に入ったのはまるで何もなかったように片付いた部屋。いや、カーペットに残る黄色いシミが現実だと教えてくれている。
「あ、う、あの」
「うん?」
 ベッドに腰かけ、不思議がる杏さんも何も変わっていない。私のひどい夢だと思いたかった。けれど胸元に抱くそれと目が合い、現実へ縛り付けられた。
「彼氏さん、まだいたんですね」
「まだって何?」
 杏さんの眼光が鋭くなる。慌てて「二人きりで話したかったんです」と弁明したところ、表情は柔らかくなった。
「それなら仕方ないか。ちょっと待ってて」
 膝に乗せていた彼氏さんの頭をひょいと持ち上げ、ベッドに優しく置いた杏さん。首の断面図があらわになり、透明なフィルムに包まれた赤い肉が見える。ラップを巻いて血が零れないようにしたのだろうか。
 尋ねる勇気もなく見守り、彼氏さんの入ったリュックを運び終えた杏さんが戻ってから口を開いた。
「いろいろと、すみません」
「ほんとにね。私じゃなかったらもっと怒られてるよ?」
 頬を膨らます杏さん。かわいいという感情はすでに消え、そのしぐさすらも今は怖い。
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