アンズトレイル

ふみ

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 絶望に駆られながら、普通を演じるようにして言葉を紡いだ。
「もしかして樹海のど真ん中に車で行くと思った?」
 杏さんが一度外に出て後部座席へと移る。そんな杏さんから目を離し、とりあえず外に出てみた。
 日焼け止めを塗っていなければ、一日で真っ黒になってしまいそうな日差し。けれどもそんなことお構いなしと、駐車場の奥の建物に人が群がっている。人々と自然の喧騒が否応なしに耳に入ってくる。
 ぱっと見、家族連れや若い人のグループが多い。夏休みを利用して遊びに来たのだろうか。樹海に? ますます謎が深まる。
「風穴?」
 木造の建物に掲げられた看板。意味は分からないけれど、レストランだろうか。樹海のそばのレストラン。映画の見過ぎで嫌な想像をしてしまった。連鎖的に脳裏に浮かぶ彼氏さんの冷たい視線。大きく頭を振って思考を吹き飛ばした。
「あの、ここってどこですか?」
 車内に戻って後部座席へ声をかける。なぜかブラウスを脱いだ杏さんが顔を出した。
「樹海の入り口。ここから歩くよ」
 そう答える間も杏さんは着替え続ける。紺色のTシャツに袖を通し、真っ黒なスキニーから灰色のズボンへ。パーカーとつばの広い帽子まで被って、まるで登山者のような格好になってしまった。
「どう? おかしくない? ただのハイキングに来た観光客に見える?」
「え、まあ。え?」
 私の驚きに杏さんもまばたきを繰り返す。深く淀んでいた瞳はいつの間にかキラキラと輝き、こちらがおかしなことを言っている気になってくる。
「あの、ハイキングに来たんですか?」
「ううん。死ぬためだよ」
「それじゃあなぜ?」
「ふふふ」
 わざとらしい笑み。河口湖で見たあの表情とは違い、この旅でずっと見てきた軽やかなもの。幾度となく心洗われたものは、今となっては不安でしかない。もう吹っきれてしまったのだろうか。説得は不可能なのだろうか。
「やっぱりあんちゃんは何も知らないんだ。準備してほんとによかった。とりあえず後ろに座って。そこで説明するから」
 手招きに応じて後部座席へ移った。そこで説明を受けるはずが、まず手渡されたのは重みのあるビニール袋。まさか彼氏さんの遺体? 中身を見ずに固まってしまった。
「一応言っておくけれど、彼じゃないからね。途中で買った洋服だから」
「洋服?」
 恐る恐る袋の中を覗く。見えたのは深い色をした洋服というか、杏さんが着替えたものの色違いばかり。
「ここから散策コースを通って樹海へ行くけれど、そう簡単に中へは行けないんだよね」
「そうなんですか?」
「うん。自殺防止の声かけ隊が怪しい人に目を光らせて、あんちゃんみたいに普通の恰好で来た人に声をかけているの」
「カーゴパンツとTシャツって普通なんですか?」
「ハイキングをする格好ではないよ。えっと、どこまで話したっけ。ああ、声かけ隊か」
 杏さんが斜め上に向けていた視線をこちらに戻した。
「声をかけられて怪しまれたらそこでおしまい。残念ながら警察のお世話になっちゃうってわけ」
 それは、知らなかった。樹海に着いてしまえば、後はもう首を吊るだけと思っていた。けれどよく考えれば自殺の名所なのだから、対策を講じているに決まっている。
「そのためにハイキングの洋服をそろえたの。ここに来る途中、作業服の店に寄ったでしょ」
「ああ、えっと、寄りましたっけ」
「河口湖に行く前に寄ったよ。あんちゃんってば返事もしてくれないから、適当にサイズ見繕って買ってきたの」
 頬を膨らませる杏さんに頭を下げる。周囲が見えないほど考え込んだのに何も浮かばなかった。消えかけていた絶望が再び浮かび上がる。胸の奥がひどく痛む。
「それを着て普通にしていれば大丈夫。ほらほら、さっさと着替えて。あんちゃんが着替えてる間にトイレ行ってくるね」
 上機嫌に車を離れた杏さんを目で追う。死を選んだ人の背中。そうとは思えないほどに軽やかで、まるで観光客のよう。
 自殺を悟られないように振る舞っているのか、それとも死への恐怖すら乗り越えたのか。
 杏さんがトイレに入った後もしばらく眺めてしまい、着替え始めたのは戻ってくる杏さんに気付いてからだった。
「ただいま。まだ着替えてるの?」
「すみません。すぐに終わらせます」
 狭い後部座席をいっぱいに使っている間も、ずっと杏さんに目がいってしまう。トランクを開け、空っぽのリュックに何か詰め込んでいる。恐らくは彼氏さんの頭部だろう。そのまま抱えて行こうとしなくて本当によかった。
 わざと着替えを遅らせようとひらめくも、すでに灰色のパーカーを羽織った後。帽子だけ残してもたつくなんて到底不可能だった。
「着替えた? あれ、どうしたの?」
 急にドアを開けた杏さんと目が合う。困り果てて今にも泣きそうだったのだろう。しかしその原因を伝えたところで何も変わらない。無理に明るい表情を作って外へ出た。
「いえ、大丈夫です」
「そっか。かなり歩くから、気を付けながら行こうね」
 荷物を手にし、車を後にした。ただでさえ暑いのに長袖長ズボン、リュックに帽子という重装備にため息がもれる。樹海に着くまでに熱中症で倒れたりしないだろうか。そう心配になるほどの汗がもうにじみだしていた。
 そんな私に対して、杏さんは軽やかに人の群れへと進んでいく。今から死ぬとは思えないほどの軽快さ。置いていかれないように駆け足で追いかけた。
 車内から見えていた景色は近付いても変わらず、建物周りに人混みが集中している。一体何の施設なのだろう。もう一度看板を見てみると風穴と書かれた下に、小さく『森の駅』とあった。道の駅の仲間だろうか。
「なんだか面白そう。お土産もあるみたい」
 杏さんに肩を叩かれ、ガラス戸から中を覗く。富士山がプリントされたTシャツにお酒、スマホケースに箱入りのお菓子。所狭しと富士山を推している。道の駅の仲間というのは当たっていたらしい。
「お土産買おうか?」
「買ってどうするんですか」
「んー、三途の土産?」
 笑えない冗談をにこやかに言われても。無意識に浮かべた苦笑いをすぐにやめ、建物の右手に伸びる砂利道へ目を向けた。昼過ぎとはいえ、樹海へと伸びる道はうねっていて先は見えない。あの闇の中で、私は死ぬんだ。
「なんか違うなあ」
「え?」
「昨日調べた時はさ、道がもっと暗くてこれぞ樹海! って感じだったの。砂利道じゃなかったけどなあ」
 きょろきょろと辺りを見回す杏さん。もう一つ入り口があるのだろうか。
「ちょっと中で聞いてくる。少し待ってて」
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