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「記憶を失う前の私、好きだった?」
「いきなりどうしたの? 世界で一番好きだったけど」
ちらと見えた恥じらいの残る笑顔。黒い感情がすうっと消えていった。
ちーちゃんは私を愛し、私のために動いてくれる。何も疑うことなく、その想いを信じていればいい。全て私のためなのだと。
左手に触れていたぬくもりを握り返し、こちらから引っ張るように走る。頭の片隅に残っていた自分の闇から逃げるように、降り注ぐ明るい声だけを耳にしながら。
眩しい思い出はすぐに消える。そして再びやって来た退屈な毎日は無限に続くようだった。
ちーちゃんを見送ってからの時間は長く、暇つぶしでは到底補えないほどの時間に押し潰されてしまいそう。
三日前から受験勉強に手を出したものの、一ページ目でつまずいてすぐにやめた。知識は忘れることなく覚えているはずなのに、全てはカバーできなかったのかな。
そうして今日も時間との戦いが始まる。来週にはちーちゃんが夏休みに入り、毎日楽しく過ごせるだろう。そうわかっていても、溜まりに溜まったストレスは爆発寸前だった。
それなら発散すればいい。簡単だ。勝手に飛び出してしまえばいい。しかしちーちゃんを裏切りたくない。その一心で、昨日まで必死に耐えてきた。
「今日は何時に帰ってくるの?」
「課題片付けて帰るから六時くらいかな。何か買う物ってあるの?」
「後でまた連絡するわ。それじゃあ、いってらっしゃい」
「いってきまーす」
ちーちゃんがドアの向こうに消えた。階段を降りる足音が壁越しに伝わってきた後で、そっと窓から通りを覗いた。
たまに忘れ物で戻ってくるけれど、今日は大丈夫だろう。念のためにちーちゃんが見えなくなるまで見送り、時間を置いてから着替えを済ませた。次はメイク。ちょっとだけドレッサーを借りよう。
四角い椅子に腰掛けた。鏡に映る顔は強張っている。引き出しのつまみをつかんだ手も震えている。
やっぱりまだ、ちーちゃんを裏切ってしまうことが怖い。でも今なら戻れる。昨日までと同じように……。
「駄目。決めたでしょ」
拳を握って震えを止めた。鏡の中の自分に頷きかけて、引き出しを開けた。
メイク道具を取り出し、慎重に肌の上に練習の成果を描いていく。どんなメイクが似合うかはどうだっていい。考える時間は腐るほどあるもの。
軽くメイクを済ませ、いよいよ三和土に降り立った。ここから先、一人で一歩を踏み出すのは初めて。ちーちゃんとの約束を破ることも初めてで、罪悪感がないわけではない。だけどもう、外への好奇心は抑えきれそうになかった。
はやる手でドアノブに触れる。ひんやりとした金属の触感に手汗をかいていることに気が付いた。
「忘れ物、ないかな」
トートバッグの中を覗けば、昨夜準備したものがきちんとそろっている。本当に大丈夫かと少し神経質気味に考えて、ふと思い出した。
パンプスを乱暴に脱ぎ捨て、音を立ててドレッサーに戻る。無造作に置かれた青い花柄のヘアピンを手に取った。危うく遥である証を忘れるところで――いや、今日はこのまま置いていこう。
「どこだっけ……」
ドレッサーの引き出しを上から順に開けた。一段一段丁寧に探し続け、それは一番下の引き出しに眠っていた。水玉模様の涼しげなシュシュ。今日はこれでいこう。
髪をまとめ、適当に結ってポニーテールのできあがり。自分で言うのも何だけど、白いうなじが強調されて少し色っぽい。うん、よく似合っている。
三和土に戻ってようやくドアを開けた。顔だけ出して廊下をうかがうも誰もいない。よし、今だ。光差す隙間に体をねじ込んで外へと出た。
「うわあ」
茹だるような暑さと蝉の声が体を包み込む。無風よりはましな生ぬるい風が頬を撫でる。廊下から地平線を覗くと、今にも陽の光に焼かれそうな街並みが広がっていた。
「あっつ」
とっさに口をふさいだ。ちーちゃんが横にいれば今頃叱られていただろう。
はる姉はこんな言い方しない。暑いわね、日差しが厳しいわね。他にも優しい言い方だけだよ、と。そう教わってきたけれど、今日くらいはさぼってもいいだろう。
「あっつい。ほんと、何なのマジで」
「いきなりどうしたの? 世界で一番好きだったけど」
ちらと見えた恥じらいの残る笑顔。黒い感情がすうっと消えていった。
ちーちゃんは私を愛し、私のために動いてくれる。何も疑うことなく、その想いを信じていればいい。全て私のためなのだと。
左手に触れていたぬくもりを握り返し、こちらから引っ張るように走る。頭の片隅に残っていた自分の闇から逃げるように、降り注ぐ明るい声だけを耳にしながら。
眩しい思い出はすぐに消える。そして再びやって来た退屈な毎日は無限に続くようだった。
ちーちゃんを見送ってからの時間は長く、暇つぶしでは到底補えないほどの時間に押し潰されてしまいそう。
三日前から受験勉強に手を出したものの、一ページ目でつまずいてすぐにやめた。知識は忘れることなく覚えているはずなのに、全てはカバーできなかったのかな。
そうして今日も時間との戦いが始まる。来週にはちーちゃんが夏休みに入り、毎日楽しく過ごせるだろう。そうわかっていても、溜まりに溜まったストレスは爆発寸前だった。
それなら発散すればいい。簡単だ。勝手に飛び出してしまえばいい。しかしちーちゃんを裏切りたくない。その一心で、昨日まで必死に耐えてきた。
「今日は何時に帰ってくるの?」
「課題片付けて帰るから六時くらいかな。何か買う物ってあるの?」
「後でまた連絡するわ。それじゃあ、いってらっしゃい」
「いってきまーす」
ちーちゃんがドアの向こうに消えた。階段を降りる足音が壁越しに伝わってきた後で、そっと窓から通りを覗いた。
たまに忘れ物で戻ってくるけれど、今日は大丈夫だろう。念のためにちーちゃんが見えなくなるまで見送り、時間を置いてから着替えを済ませた。次はメイク。ちょっとだけドレッサーを借りよう。
四角い椅子に腰掛けた。鏡に映る顔は強張っている。引き出しのつまみをつかんだ手も震えている。
やっぱりまだ、ちーちゃんを裏切ってしまうことが怖い。でも今なら戻れる。昨日までと同じように……。
「駄目。決めたでしょ」
拳を握って震えを止めた。鏡の中の自分に頷きかけて、引き出しを開けた。
メイク道具を取り出し、慎重に肌の上に練習の成果を描いていく。どんなメイクが似合うかはどうだっていい。考える時間は腐るほどあるもの。
軽くメイクを済ませ、いよいよ三和土に降り立った。ここから先、一人で一歩を踏み出すのは初めて。ちーちゃんとの約束を破ることも初めてで、罪悪感がないわけではない。だけどもう、外への好奇心は抑えきれそうになかった。
はやる手でドアノブに触れる。ひんやりとした金属の触感に手汗をかいていることに気が付いた。
「忘れ物、ないかな」
トートバッグの中を覗けば、昨夜準備したものがきちんとそろっている。本当に大丈夫かと少し神経質気味に考えて、ふと思い出した。
パンプスを乱暴に脱ぎ捨て、音を立ててドレッサーに戻る。無造作に置かれた青い花柄のヘアピンを手に取った。危うく遥である証を忘れるところで――いや、今日はこのまま置いていこう。
「どこだっけ……」
ドレッサーの引き出しを上から順に開けた。一段一段丁寧に探し続け、それは一番下の引き出しに眠っていた。水玉模様の涼しげなシュシュ。今日はこれでいこう。
髪をまとめ、適当に結ってポニーテールのできあがり。自分で言うのも何だけど、白いうなじが強調されて少し色っぽい。うん、よく似合っている。
三和土に戻ってようやくドアを開けた。顔だけ出して廊下をうかがうも誰もいない。よし、今だ。光差す隙間に体をねじ込んで外へと出た。
「うわあ」
茹だるような暑さと蝉の声が体を包み込む。無風よりはましな生ぬるい風が頬を撫でる。廊下から地平線を覗くと、今にも陽の光に焼かれそうな街並みが広がっていた。
「あっつ」
とっさに口をふさいだ。ちーちゃんが横にいれば今頃叱られていただろう。
はる姉はこんな言い方しない。暑いわね、日差しが厳しいわね。他にも優しい言い方だけだよ、と。そう教わってきたけれど、今日くらいはさぼってもいいだろう。
「あっつい。ほんと、何なのマジで」
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