15 / 97
-1-
15
しおりを挟む
「記憶を失う前の私、好きだった?」
「いきなりどうしたの? 世界で一番好きだったけど」
ちらと見えた恥じらいの残る笑顔。黒い感情がすうっと消えていった。
ちーちゃんは私を愛し、私のために動いてくれる。何も疑うことなく、その想いを信じていればいい。全て私のためなのだと。
左手に触れていたぬくもりを握り返し、こちらから引っ張るように走る。頭の片隅に残っていた自分の闇から逃げるように、降り注ぐ明るい声だけを耳にしながら。
眩しい思い出はすぐに消える。そして再びやって来た退屈な毎日は無限に続くようだった。
ちーちゃんを見送ってからの時間は長く、暇つぶしでは到底補えないほどの時間に押し潰されてしまいそう。
三日前から受験勉強に手を出したものの、一ページ目でつまずいてすぐにやめた。知識は忘れることなく覚えているはずなのに、全てはカバーできなかったのかな。
そうして今日も時間との戦いが始まる。来週にはちーちゃんが夏休みに入り、毎日楽しく過ごせるだろう。そうわかっていても、溜まりに溜まったストレスは爆発寸前だった。
それなら発散すればいい。簡単だ。勝手に飛び出してしまえばいい。しかしちーちゃんを裏切りたくない。その一心で、昨日まで必死に耐えてきた。
「今日は何時に帰ってくるの?」
「課題片付けて帰るから六時くらいかな。何か買う物ってあるの?」
「後でまた連絡するわ。それじゃあ、いってらっしゃい」
「いってきまーす」
ちーちゃんがドアの向こうに消えた。階段を降りる足音が壁越しに伝わってきた後で、そっと窓から通りを覗いた。
たまに忘れ物で戻ってくるけれど、今日は大丈夫だろう。念のためにちーちゃんが見えなくなるまで見送り、時間を置いてから着替えを済ませた。次はメイク。ちょっとだけドレッサーを借りよう。
四角い椅子に腰掛けた。鏡に映る顔は強張っている。引き出しのつまみをつかんだ手も震えている。
やっぱりまだ、ちーちゃんを裏切ってしまうことが怖い。でも今なら戻れる。昨日までと同じように……。
「駄目。決めたでしょ」
拳を握って震えを止めた。鏡の中の自分に頷きかけて、引き出しを開けた。
メイク道具を取り出し、慎重に肌の上に練習の成果を描いていく。どんなメイクが似合うかはどうだっていい。考える時間は腐るほどあるもの。
軽くメイクを済ませ、いよいよ三和土に降り立った。ここから先、一人で一歩を踏み出すのは初めて。ちーちゃんとの約束を破ることも初めてで、罪悪感がないわけではない。だけどもう、外への好奇心は抑えきれそうになかった。
はやる手でドアノブに触れる。ひんやりとした金属の触感に手汗をかいていることに気が付いた。
「忘れ物、ないかな」
トートバッグの中を覗けば、昨夜準備したものがきちんとそろっている。本当に大丈夫かと少し神経質気味に考えて、ふと思い出した。
パンプスを乱暴に脱ぎ捨て、音を立ててドレッサーに戻る。無造作に置かれた青い花柄のヘアピンを手に取った。危うく遥である証を忘れるところで――いや、今日はこのまま置いていこう。
「どこだっけ……」
ドレッサーの引き出しを上から順に開けた。一段一段丁寧に探し続け、それは一番下の引き出しに眠っていた。水玉模様の涼しげなシュシュ。今日はこれでいこう。
髪をまとめ、適当に結ってポニーテールのできあがり。自分で言うのも何だけど、白いうなじが強調されて少し色っぽい。うん、よく似合っている。
三和土に戻ってようやくドアを開けた。顔だけ出して廊下をうかがうも誰もいない。よし、今だ。光差す隙間に体をねじ込んで外へと出た。
「うわあ」
茹だるような暑さと蝉の声が体を包み込む。無風よりはましな生ぬるい風が頬を撫でる。廊下から地平線を覗くと、今にも陽の光に焼かれそうな街並みが広がっていた。
「あっつ」
とっさに口をふさいだ。ちーちゃんが横にいれば今頃叱られていただろう。
はる姉はこんな言い方しない。暑いわね、日差しが厳しいわね。他にも優しい言い方だけだよ、と。そう教わってきたけれど、今日くらいはさぼってもいいだろう。
「あっつい。ほんと、何なのマジで」
「いきなりどうしたの? 世界で一番好きだったけど」
ちらと見えた恥じらいの残る笑顔。黒い感情がすうっと消えていった。
ちーちゃんは私を愛し、私のために動いてくれる。何も疑うことなく、その想いを信じていればいい。全て私のためなのだと。
左手に触れていたぬくもりを握り返し、こちらから引っ張るように走る。頭の片隅に残っていた自分の闇から逃げるように、降り注ぐ明るい声だけを耳にしながら。
眩しい思い出はすぐに消える。そして再びやって来た退屈な毎日は無限に続くようだった。
ちーちゃんを見送ってからの時間は長く、暇つぶしでは到底補えないほどの時間に押し潰されてしまいそう。
三日前から受験勉強に手を出したものの、一ページ目でつまずいてすぐにやめた。知識は忘れることなく覚えているはずなのに、全てはカバーできなかったのかな。
そうして今日も時間との戦いが始まる。来週にはちーちゃんが夏休みに入り、毎日楽しく過ごせるだろう。そうわかっていても、溜まりに溜まったストレスは爆発寸前だった。
それなら発散すればいい。簡単だ。勝手に飛び出してしまえばいい。しかしちーちゃんを裏切りたくない。その一心で、昨日まで必死に耐えてきた。
「今日は何時に帰ってくるの?」
「課題片付けて帰るから六時くらいかな。何か買う物ってあるの?」
「後でまた連絡するわ。それじゃあ、いってらっしゃい」
「いってきまーす」
ちーちゃんがドアの向こうに消えた。階段を降りる足音が壁越しに伝わってきた後で、そっと窓から通りを覗いた。
たまに忘れ物で戻ってくるけれど、今日は大丈夫だろう。念のためにちーちゃんが見えなくなるまで見送り、時間を置いてから着替えを済ませた。次はメイク。ちょっとだけドレッサーを借りよう。
四角い椅子に腰掛けた。鏡に映る顔は強張っている。引き出しのつまみをつかんだ手も震えている。
やっぱりまだ、ちーちゃんを裏切ってしまうことが怖い。でも今なら戻れる。昨日までと同じように……。
「駄目。決めたでしょ」
拳を握って震えを止めた。鏡の中の自分に頷きかけて、引き出しを開けた。
メイク道具を取り出し、慎重に肌の上に練習の成果を描いていく。どんなメイクが似合うかはどうだっていい。考える時間は腐るほどあるもの。
軽くメイクを済ませ、いよいよ三和土に降り立った。ここから先、一人で一歩を踏み出すのは初めて。ちーちゃんとの約束を破ることも初めてで、罪悪感がないわけではない。だけどもう、外への好奇心は抑えきれそうになかった。
はやる手でドアノブに触れる。ひんやりとした金属の触感に手汗をかいていることに気が付いた。
「忘れ物、ないかな」
トートバッグの中を覗けば、昨夜準備したものがきちんとそろっている。本当に大丈夫かと少し神経質気味に考えて、ふと思い出した。
パンプスを乱暴に脱ぎ捨て、音を立ててドレッサーに戻る。無造作に置かれた青い花柄のヘアピンを手に取った。危うく遥である証を忘れるところで――いや、今日はこのまま置いていこう。
「どこだっけ……」
ドレッサーの引き出しを上から順に開けた。一段一段丁寧に探し続け、それは一番下の引き出しに眠っていた。水玉模様の涼しげなシュシュ。今日はこれでいこう。
髪をまとめ、適当に結ってポニーテールのできあがり。自分で言うのも何だけど、白いうなじが強調されて少し色っぽい。うん、よく似合っている。
三和土に戻ってようやくドアを開けた。顔だけ出して廊下をうかがうも誰もいない。よし、今だ。光差す隙間に体をねじ込んで外へと出た。
「うわあ」
茹だるような暑さと蝉の声が体を包み込む。無風よりはましな生ぬるい風が頬を撫でる。廊下から地平線を覗くと、今にも陽の光に焼かれそうな街並みが広がっていた。
「あっつ」
とっさに口をふさいだ。ちーちゃんが横にいれば今頃叱られていただろう。
はる姉はこんな言い方しない。暑いわね、日差しが厳しいわね。他にも優しい言い方だけだよ、と。そう教わってきたけれど、今日くらいはさぼってもいいだろう。
「あっつい。ほんと、何なのマジで」
0
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
義姉妹百合恋愛
沢谷 暖日
青春
姫川瑞樹はある日、母親を交通事故でなくした。
「再婚するから」
そう言った父親が1ヶ月後連れてきたのは、新しい母親と、美人で可愛らしい義理の妹、楓だった。
次の日から、唐突に楓が急に積極的になる。
それもそのはず、楓にとっての瑞樹は幼稚園の頃の初恋相手だったのだ。
※他サイトにも掲載しております
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
【完結】年収三百万円台のアラサー社畜と総資産三億円以上の仮想通貨「億り人」JKが湾岸タワーマンションで同棲したら
瀬々良木 清
ライト文芸
主人公・宮本剛は、都内で働くごく普通の営業系サラリーマン。いわゆる社畜。
タワーマンションの聖地・豊洲にあるオフィスへ通勤しながらも、自分の給料では絶対に買えない高級マンションたちを見上げながら、夢のない毎日を送っていた。
しかしある日、会社の近所で苦しそうにうずくまる女子高生・常磐理瀬と出会う。理瀬は女子高生ながら仮想通貨への投資で『億り人』となった天才少女だった。
剛の何百倍もの資産を持ち、しかし心はまだ未完成な女子高生である理瀬と、日に日に心が枯れてゆくと感じるアラサー社畜剛が織りなす、ちぐはぐなラブコメディ。
【完結】【ママ友百合】ラテアートにハートをのせて
千鶴田ルト
恋愛
専業主婦の優菜は、夫・拓馬と娘の結と共に平穏な暮らしを送っていた。
そんな彼女の前に現れた、カフェ店員の千春。
夫婦仲は良好。別れる理由なんてどこにもない。
それでも――千春との時間は、日常の中でそっと息を潜め、やがて大きな存在へと変わっていく。
ちょっと変わったママ友不倫百合ほのぼのガールズラブ物語です。
ハッピーエンドになるのでご安心ください。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
せんせいとおばさん
悠生ゆう
恋愛
創作百合
樹梨は小学校の教師をしている。今年になりはじめてクラス担任を持つことになった。毎日張り詰めている中、クラスの児童の流里が怪我をした。母親に連絡をしたところ、引き取りに現れたのは流里の叔母のすみ枝だった。樹梨は、飄々としたすみ枝に惹かれていく。
※学校の先生のお仕事の実情は知りませんので、間違っている部分がっあたらすみません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる