12 / 27
第12話 私は代わりではありません
翌朝の食卓は、いつも以上に静かだった。
グレンは普段から多くを語る人ではないし、私もまだこの屋敷の朝に慣れていない。けれど今朝の沈黙は、ただ言葉が少ないのとは違っていた。
昨日、ルイスが来た。
アデルの弟として、怒りを隠さずに。
そして最後に、姉は皆が思うほど完璧な人ではなかった、と言い残した。
その一言が、今もまだ食卓の上に残っているみたいだった。
私はナイフを置く音ひとつにも気を遣いながら、目の前の皿へ視線を落としていた。グレンはいつも通り淡々としているように見えたが、視線が書類へ向かわないぶん、かえって意識がこの場へ留まっているのが分かる。
ルイスは私の斜め向かいに座っていた。
昨夜、客間へ通されたらしい。てっきり朝には帰るのかと思っていたけれど、そうではなかった。
彼はパンに手を伸ばしながらも、ほとんど味わっていないようだった。苛立っているというより、何かを見定めようとしている顔だ。
「今日は」
沈黙を破ったのはグレンだった。
「午前のうちに、支援の帳面を見ます」
「分かっています」
ルイスが答える。
「その前に、姉の部屋を見たい」
私の手が、かすかに止まった。
グレンはすぐには答えない。
その短い間に、ルイスの視線が私へ流れる。
「昨日のままですか」
「ええ」
答えたのは私だった。
「大きくは何も動かしていません」
「あなたが“少しだけ”動かしたものは?」
「机の上の書類を崩さないよう、整えたくらいです」
「そうですか」
その言い方にはまだ棘がある。
でも昨日ほど露骨ではない。
私はそれだけでも、少し救われる思いがした。
朝食を終えると、グレンは急ぎの書類があると言って先に執務室へ戻った。
ルイスはそれ以上何も言わなかったが、私が席を立つとほとんど同時に椅子を引いた。
「部屋へ行くのでしょう」
「ええ」
「私も行きます」
断る理由はなかった。
アデルの部屋へ向かう廊下は、昨夜よりずっと明るい。
明るいはずなのに、そこへ近づくと空気が少し変わるのが分かる。もう閉ざされたままの場所ではないのに、それでも簡単には日常へ溶けない静けさがある。
扉の前に立ち、私は鍵のかかっていないことを改めて確かめてから、中へ入った。
窓は昨日のうちに開けている。
薄い光が差し込み、机や椅子の輪郭を柔らかく浮かび上がらせていた。
ルイスは一歩入ったところで立ち止まった。
姉の部屋へ入るのは久しぶりなのだろう。
彼の視線が、机、刺繍枠、本棚、小卓の順に移っていく。そのたびに表情がわずかに揺れる。怒っているだけの顔ではなかった。
「……そのままだ」
呟く声は、昨日の執務室で聞いたものよりずっと若かった。
「ええ」
私は静かに答える。
「途中で止まったままです」
ルイスは返事をしない。
代わりに窓際へ歩み寄り、刺繍枠に触れかけて、途中で手を止めた。
「これ」
彼が言う。
「姉は、よく途中でやめるんです」
「途中で?」
「飽きたわけじゃなくて。あと少しで終わると思うと、別の用事が気になってしまって」
そこまで言って、彼は苦く笑う。
「完璧だと思われたがっているわりに、案外そういうところがありました」
私はその横顔を見る。
昨日の彼は、姉を守るための怒りで立っていた。
でも今は、その怒りの内側にある記憶が少しずつ漏れている。
「皆が思うほど完璧ではなかった、とおっしゃっていましたね」
私がそう言うと、ルイスは振り返る。
「覚えていたんですか」
「ええ」
「……まあ、そうでしょうね」
そして彼は、どこか挑むように続けた。
「姉は、見せ方が上手い人でした。弱音を吐かないし、人の前で困った顔をするのも嫌う。だから皆、姉は何でもできる人だと思っていた」
「あなたは違ったの?」
「弟ですから」
その答えは短かったが、十分だった。
「家で一緒にいた頃の姉は、そこまで綺麗な人じゃなかった。怒るし、疲れるし、嫌な相手の愚痴も言うし、眠い時はとことん機嫌が悪かった」
思わず、少しだけ笑ってしまう。
自分でも驚くほど自然に。
ルイスが眉をひそめた。
「何です」
「いえ」
私は首を振る。
「少しだけ、安心したのです」
「安心?」
「もっと……遠い人だと思っていたので」
完璧で、美しくて、亡くなったあとも皆の中で少しも崩れない人。
そんなふうに思っていたから、苦しかったのかもしれない。
でも、眠いと機嫌が悪くなる。
刺繍を途中で放る。
そういう話を聞くと、アデルは初めて“触れられる人”になる。
ルイスは私を見つめたまま、少しだけ不思議そうな顔をした。
「あなたは、変な人ですね」
「よく言われます」
「褒めていません」
「知っています」
それでも、昨日のような剥き出しの拒絶ではなかった。
私は机へ近づき、整えた書類の束へ手を伸ばす。
その時、背後からルイスの声が飛んできた。
「姉の手紙は?」
振り返ると、彼は真っ直ぐこちらを見ている。
「グレン宛てのものです」
「それが見つかったのでしょう」
「ええ」
「読んだんですか」
その問いに、私は少しだけ息を止めた。
「いいえ」
「本当に?」
「本当に」
「……あなたは」
ルイスが薄く目を細める。
「こういう状況でも、他人の手紙を開けないんですね」
その言い方が、皮肉なのか感心なのか、一瞬分からなかった。
「勝手に読んではいけないと思ったので」
「姉のこと、知りたくはないんですか」
「知りたいです」
私は即答した。
「とても」
「なら、なぜ」
「知りたいことと、勝手に踏み越えることは別です」
そう口にした瞬間、部屋の空気が少し変わった気がした。
ルイスが何か言い返しかける。
けれど、出てきたのは別の言葉だった。
「……そんなふうに言う人だとは思いませんでした」
「私も、あなたがそんな顔をする人だとは思いませんでした」
「どんな顔です」
「姉上の部屋に入って、怒る前に息を呑む顔です」
しまった、と思ったのは言ってからだった。
少し踏み込みすぎたかもしれない。
けれどルイスは怒らなかった。
ほんの一瞬だけ視線を逸らし、それから低く言う。
「当然でしょう。姉の部屋です」
「ええ」
当然だ。
その当然を、私は否定するつもりはない。
だからこそ、その次の言葉はよく考えてから口にしようと思った。
でも結局、出てきたのはあまり飾らない言葉だった。
「ルイス様」
「何です」
「あなたは、私がこの部屋にいるのが気に入らないでしょう」
「……そうですね」
「それでも私は、ここを見ないふりにはできません」
彼が私を見る。
鋭い、試すような目だ。
「どうして」
昨日と同じ問いだった。
でも今日のそれは、傷つけるためだけではなかった。
私は机の端に指先を置く。
「この部屋だけではないからです」
「何が」
「止まったままなのは」
帳面、支援、厨房の混乱、グレンの手の止まり方、イレーネの泣き顔。
全部が繋がっている気がしていた。
「アデル様のお部屋を閉ざしていたことも、支援が途中で止まっていることも、皆が前へ進めないことも」
「……」
「私は、この家にいる以上、それを知らないままではいたくありません」
ルイスの目が少しだけ険しくなる。
「だから姉の代わりを?」
「違います」
今度は迷わなかった。
「私は代わりではありません」
はっきり口にした瞬間、自分の中で何かが定まるのを感じた。
「なれませんし、なるつもりもありません」
私は続ける。
「アデル様はアデル様です。私は、あの方にはなれない」
「なら、なぜ」
「けれど」
私はルイスから目を逸らさなかった。
「だからこそ、勝手に消したくないんです」
部屋が、しんと静まり返る。
開いた窓から冬の空気が流れ込み、カーテンをわずかに揺らした。
その音だけが、妙にはっきり聞こえる。
ルイスは何も言わない。
私も次の言葉を急がなかった。
代わりではない。
それはたぶん、私が誰に対しても一番先に言わなくてはいけないことだった。
グレンに対しても。
イレーネに対しても。
そして自分自身に対しても。
アデルの席を奪うつもりはない。
けれど、何も知らないまま置かれているだけのつもりもない。
その両方を、やっと言葉にできた気がした。
しばらくして、ルイスが視線を落とす。
「……姉は」
掠れたような声だった。
「そういうことを言う人は嫌いではなかったです」
私は何も返せなかった。
その一言が、思っていた以上に胸へ深く落ちたからだ。
認められたわけではない。
受け入れられたわけでもない。
それでも、昨日より確かに違う場所へ来た気がした。
その時、部屋の外で気配がした。
振り返ると、扉のところにグレンが立っていた。
いつからいたのか分からない。少なくとも、最後のやり取りは聞かれていたのだろう。
私は一瞬だけ身構えたが、グレンは何も咎めなかった。
ただ、静かにこちらを見て、それから私へ言う。
「その言葉を」
低く、けれどはっきりした声だった。
「あなた自身が忘れないでください」
私は目を見開く。
それは注意のようでもあり、肯定のようでもあった。
代わりではありません、と言った私の言葉を、グレンは否定しなかった。
むしろ、忘れるなとまで言ったのだ。
「……はい」
答える声は、少しだけ震えた。
グレンはそれ以上何も言わず、部屋の中へ入ってくる。
ルイスは兄を睨むでもなく、かといって和らぐでもなく、その様子を見ていた。
けれど少なくとも、今この部屋にいる三人は、昨日までとは少し違う位置に立っている。
アデルの部屋は、まだ過去の部屋だ。
でもそこで交わされた言葉は、ちゃんと今へ向いていた。
あなたにおすすめの小説
彼は亡国の令嬢を愛せない
黒猫子猫
恋愛
セシリアの祖国が滅んだ。もはや妻としておく価値もないと、夫から離縁を言い渡されたセシリアは、五年ぶりに祖国の地を踏もうとしている。その先に待つのは、敵国による処刑だ。夫に愛されることも、子を産むことも、祖国で生きることもできなかったセシリアの願いはたった一つ。長年傍に仕えてくれていた人々を守る事だ。その願いは、一人の男の手によって叶えられた。
ただ、男が見返りに求めてきたものは、セシリアの想像をはるかに超えるものだった。
※同一世界観の関連作がありますが、これのみで読めます。本シリーズ初の長編作品です。
※ヒーローはスパダリ時々ポンコツです。口も悪いです。
大嫌いな従兄と結婚するぐらいなら…
みみぢあん
恋愛
子供の頃、両親を亡くしたベレニスは伯父のロンヴィル侯爵に引き取られた。 隣国の宣戦布告で戦争が始まり、伯父の頼みでベレニスは病弱な従妹のかわりに、側妃候補とは名ばかりの人質として、後宮へ入ることになった。 戦争が終わりベレニスが人質生活から解放されたら、伯父は後継者の従兄ジャコブと結婚させると約束する。 だがベレニスはジャコブが大嫌いなうえ、密かに思いを寄せる騎士フェルナンがいた。
戦場から帰らぬ夫は、隣国の姫君に恋文を送っていました
Mag_Mel
恋愛
しばらく床に臥せていたエルマが久方ぶりに参加した祝宴で、隣国の姫君ルーシアは戦地にいるはずの夫ジェイミーの名を口にした。
「彼から恋文をもらっていますの」。
二年もの間、自分には便りひとつ届かなかったのに?
真実を確かめるため、エルマは姫君の茶会へと足を運ぶ。
そこで待っていたのは「身を引いて欲しい」と別れを迫る、ルーシアの取り巻きたちだった。
※小説家になろう様にも投稿しています
平凡令嬢の婚活事情〜あの人だけは、絶対ナイから!〜
本見りん
恋愛
「……だから、ミランダは無理だって!!」
王立学園に通う、ミランダ シュミット伯爵令嬢17歳。
偶然通りかかった学園の裏庭でミランダ本人がここにいるとも知らず噂しているのはこの学園の貴族令息たち。
……彼らは、決して『高嶺の花ミランダ』として噂している訳ではない。
それは、ミランダが『平凡令嬢』だから。
いつからか『平凡令嬢』と噂されるようになっていたミランダ。『絶賛婚約者募集中』の彼女にはかなり不利な状況。
チラリと向こうを見てみれば、1人の女子生徒に3人の男子学生が。あちらも良くない噂の方々。
……ミランダは、『あの人達だけはナイ!』と思っていだのだが……。
3万字少しの短編です。『完結保証』『ハッピーエンド』です!
[完結]「私が婚約者だったはずなのに」愛する人が別の人と婚約するとしたら〜恋する二人を切り裂く政略結婚の行方は〜
h.h
恋愛
王子グレンの婚約者候補であったはずのルーラ。互いに想いあう二人だったが、政略結婚によりグレンは隣国の王女と結婚することになる。そしてルーラもまた別の人と婚約することに……。「将来僕のお嫁さんになって」そんな約束を記憶の奥にしまいこんで、二人は国のために自らの心を犠牲にしようとしていた。ある日、隣国の王女に関する重大な秘密を知ってしまったルーラは、一人真実を解明するために動き出す。「国のためと言いながら、本当はグレン様を取られたくなだけなのかもしれないの」「国のためと言いながら、彼女を俺のものにしたくて抗っているみたいだ」
二人は再び手を取り合うことができるのか……。
全23話で完結(すでに完結済みで投稿しています)
女性として見れない私は、もう不要な様です〜俺の事は忘れて幸せになって欲しい。と言われたのでそうする事にした結果〜
流雲青人
恋愛
子爵令嬢のプレセアは目の前に広がる光景に静かに涙を零した。
偶然にも居合わせてしまったのだ。
学園の裏庭で、婚約者がプレセアの友人へと告白している場面に。
そして後日、婚約者に呼び出され告げられた。
「君を女性として見ることが出来ない」
幼馴染であり、共に過ごして来た時間はとても長い。
その中でどうやら彼はプレセアを友人以上として見れなくなってしまったらしい。
「俺の事は忘れて幸せになって欲しい。君は幸せになるべき人だから」
大切な二人だからこそ、清く身を引いて、大好きな人と友人の恋を応援したい。
そう思っている筈なのに、恋心がその気持ちを邪魔してきて...。
※
ゆるふわ設定です。
完結しました。
王太子妃は離婚したい
凛江
恋愛
アルゴン国の第二王女フレイアは、婚約者であり、幼い頃より想いを寄せていた隣国テルルの王太子セレンに嫁ぐ。
だが、期待を胸に臨んだ婚姻の日、待っていたのは夫セレンの冷たい瞳だった。
※この作品は、読んでいただいた皆さまのおかげで書籍化することができました。
綺麗なイラストまでつけていただき感無量です。
これまで応援いただき、本当にありがとうございました。
レジーナのサイトで番外編が読めますので、そちらものぞいていただけると嬉しいです。
https://www.regina-books.com/extra/login
冷遇夫がお探しの私は、隣にいます
終日ひもの干す紐
恋愛
愛人がいるなら、さっさと言ってくれればいいのに!
妻に駆け落ちされた、傷心の辺境伯ロシェのもとへ嫁いでほしい。
シャノンが王命を受け、嫁いでから一年……とんでもない場面に立ち会ってしまう。
「サフィール……またそんなふうに僕を見つめて、かわいいね」
シャノンには冷たいの夫の、甘ったるい囁き。
扉の向こうの、不貞行為。
これまでの我慢も苦労も全て無駄になり、沸々と湧き上がる怒りを、ロシェの愛猫『アンブル』に愚痴った。
まさかそれが、こんなことになるなんて!
目が覚めると『アンブル』になっていたシャノン。
猫の姿に向けられる夫からの愛情。
夫ロシェの“本当の姿”を垣間見たシャノンは……?
* * *
他のサイトにも投稿しています。