前妻を忘れられない公爵に嫁ぎましたが、私は代わりにはなりません

れおぽん

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第12話 私は代わりではありません



 翌朝の食卓は、いつも以上に静かだった。

 グレンは普段から多くを語る人ではないし、私もまだこの屋敷の朝に慣れていない。けれど今朝の沈黙は、ただ言葉が少ないのとは違っていた。

 昨日、ルイスが来た。
 アデルの弟として、怒りを隠さずに。
 そして最後に、姉は皆が思うほど完璧な人ではなかった、と言い残した。

 その一言が、今もまだ食卓の上に残っているみたいだった。

 私はナイフを置く音ひとつにも気を遣いながら、目の前の皿へ視線を落としていた。グレンはいつも通り淡々としているように見えたが、視線が書類へ向かわないぶん、かえって意識がこの場へ留まっているのが分かる。

 ルイスは私の斜め向かいに座っていた。
 昨夜、客間へ通されたらしい。てっきり朝には帰るのかと思っていたけれど、そうではなかった。

 彼はパンに手を伸ばしながらも、ほとんど味わっていないようだった。苛立っているというより、何かを見定めようとしている顔だ。

「今日は」
 沈黙を破ったのはグレンだった。
「午前のうちに、支援の帳面を見ます」
「分かっています」
 ルイスが答える。
「その前に、姉の部屋を見たい」

 私の手が、かすかに止まった。

 グレンはすぐには答えない。
 その短い間に、ルイスの視線が私へ流れる。

「昨日のままですか」
「ええ」
 答えたのは私だった。
「大きくは何も動かしていません」
「あなたが“少しだけ”動かしたものは?」
「机の上の書類を崩さないよう、整えたくらいです」
「そうですか」

 その言い方にはまだ棘がある。
 でも昨日ほど露骨ではない。
 私はそれだけでも、少し救われる思いがした。

 朝食を終えると、グレンは急ぎの書類があると言って先に執務室へ戻った。
 ルイスはそれ以上何も言わなかったが、私が席を立つとほとんど同時に椅子を引いた。

「部屋へ行くのでしょう」
「ええ」
「私も行きます」

 断る理由はなかった。

 アデルの部屋へ向かう廊下は、昨夜よりずっと明るい。
 明るいはずなのに、そこへ近づくと空気が少し変わるのが分かる。もう閉ざされたままの場所ではないのに、それでも簡単には日常へ溶けない静けさがある。

 扉の前に立ち、私は鍵のかかっていないことを改めて確かめてから、中へ入った。

 窓は昨日のうちに開けている。
 薄い光が差し込み、机や椅子の輪郭を柔らかく浮かび上がらせていた。

 ルイスは一歩入ったところで立ち止まった。

 姉の部屋へ入るのは久しぶりなのだろう。
 彼の視線が、机、刺繍枠、本棚、小卓の順に移っていく。そのたびに表情がわずかに揺れる。怒っているだけの顔ではなかった。

「……そのままだ」

 呟く声は、昨日の執務室で聞いたものよりずっと若かった。

「ええ」
 私は静かに答える。
「途中で止まったままです」

 ルイスは返事をしない。
 代わりに窓際へ歩み寄り、刺繍枠に触れかけて、途中で手を止めた。

「これ」
 彼が言う。
「姉は、よく途中でやめるんです」
「途中で?」
「飽きたわけじゃなくて。あと少しで終わると思うと、別の用事が気になってしまって」
 そこまで言って、彼は苦く笑う。
「完璧だと思われたがっているわりに、案外そういうところがありました」

 私はその横顔を見る。

 昨日の彼は、姉を守るための怒りで立っていた。
 でも今は、その怒りの内側にある記憶が少しずつ漏れている。

「皆が思うほど完璧ではなかった、とおっしゃっていましたね」
 私がそう言うと、ルイスは振り返る。
「覚えていたんですか」
「ええ」
「……まあ、そうでしょうね」

 そして彼は、どこか挑むように続けた。

「姉は、見せ方が上手い人でした。弱音を吐かないし、人の前で困った顔をするのも嫌う。だから皆、姉は何でもできる人だと思っていた」
「あなたは違ったの?」
「弟ですから」
 その答えは短かったが、十分だった。
「家で一緒にいた頃の姉は、そこまで綺麗な人じゃなかった。怒るし、疲れるし、嫌な相手の愚痴も言うし、眠い時はとことん機嫌が悪かった」

 思わず、少しだけ笑ってしまう。
 自分でも驚くほど自然に。

 ルイスが眉をひそめた。
「何です」
「いえ」
 私は首を振る。
「少しだけ、安心したのです」
「安心?」
「もっと……遠い人だと思っていたので」

 完璧で、美しくて、亡くなったあとも皆の中で少しも崩れない人。
 そんなふうに思っていたから、苦しかったのかもしれない。

 でも、眠いと機嫌が悪くなる。
 刺繍を途中で放る。
 そういう話を聞くと、アデルは初めて“触れられる人”になる。

 ルイスは私を見つめたまま、少しだけ不思議そうな顔をした。

「あなたは、変な人ですね」
「よく言われます」
「褒めていません」
「知っています」

 それでも、昨日のような剥き出しの拒絶ではなかった。

 私は机へ近づき、整えた書類の束へ手を伸ばす。
 その時、背後からルイスの声が飛んできた。

「姉の手紙は?」

 振り返ると、彼は真っ直ぐこちらを見ている。

「グレン宛てのものです」
「それが見つかったのでしょう」
「ええ」
「読んだんですか」

 その問いに、私は少しだけ息を止めた。

「いいえ」
「本当に?」
「本当に」
「……あなたは」
 ルイスが薄く目を細める。
「こういう状況でも、他人の手紙を開けないんですね」

 その言い方が、皮肉なのか感心なのか、一瞬分からなかった。

「勝手に読んではいけないと思ったので」
「姉のこと、知りたくはないんですか」
「知りたいです」
 私は即答した。
「とても」
「なら、なぜ」
「知りたいことと、勝手に踏み越えることは別です」

 そう口にした瞬間、部屋の空気が少し変わった気がした。

 ルイスが何か言い返しかける。
 けれど、出てきたのは別の言葉だった。

「……そんなふうに言う人だとは思いませんでした」
「私も、あなたがそんな顔をする人だとは思いませんでした」
「どんな顔です」
「姉上の部屋に入って、怒る前に息を呑む顔です」

 しまった、と思ったのは言ってからだった。
 少し踏み込みすぎたかもしれない。

 けれどルイスは怒らなかった。
 ほんの一瞬だけ視線を逸らし、それから低く言う。

「当然でしょう。姉の部屋です」
「ええ」

 当然だ。
 その当然を、私は否定するつもりはない。

 だからこそ、その次の言葉はよく考えてから口にしようと思った。
 でも結局、出てきたのはあまり飾らない言葉だった。

「ルイス様」
「何です」
「あなたは、私がこの部屋にいるのが気に入らないでしょう」
「……そうですね」
「それでも私は、ここを見ないふりにはできません」

 彼が私を見る。
 鋭い、試すような目だ。

「どうして」
 昨日と同じ問いだった。
 でも今日のそれは、傷つけるためだけではなかった。

 私は机の端に指先を置く。

「この部屋だけではないからです」
「何が」
「止まったままなのは」
 帳面、支援、厨房の混乱、グレンの手の止まり方、イレーネの泣き顔。
 全部が繋がっている気がしていた。

「アデル様のお部屋を閉ざしていたことも、支援が途中で止まっていることも、皆が前へ進めないことも」
「……」
「私は、この家にいる以上、それを知らないままではいたくありません」

 ルイスの目が少しだけ険しくなる。

「だから姉の代わりを?」
「違います」

 今度は迷わなかった。

「私は代わりではありません」

 はっきり口にした瞬間、自分の中で何かが定まるのを感じた。

「なれませんし、なるつもりもありません」
 私は続ける。
「アデル様はアデル様です。私は、あの方にはなれない」
「なら、なぜ」
「けれど」
 私はルイスから目を逸らさなかった。
「だからこそ、勝手に消したくないんです」

 部屋が、しんと静まり返る。

 開いた窓から冬の空気が流れ込み、カーテンをわずかに揺らした。
 その音だけが、妙にはっきり聞こえる。

 ルイスは何も言わない。
 私も次の言葉を急がなかった。

 代わりではない。
 それはたぶん、私が誰に対しても一番先に言わなくてはいけないことだった。

 グレンに対しても。
 イレーネに対しても。
 そして自分自身に対しても。

 アデルの席を奪うつもりはない。
 けれど、何も知らないまま置かれているだけのつもりもない。

 その両方を、やっと言葉にできた気がした。

 しばらくして、ルイスが視線を落とす。

「……姉は」
 掠れたような声だった。
「そういうことを言う人は嫌いではなかったです」

 私は何も返せなかった。
 その一言が、思っていた以上に胸へ深く落ちたからだ。

 認められたわけではない。
 受け入れられたわけでもない。
 それでも、昨日より確かに違う場所へ来た気がした。

 その時、部屋の外で気配がした。

 振り返ると、扉のところにグレンが立っていた。
 いつからいたのか分からない。少なくとも、最後のやり取りは聞かれていたのだろう。

 私は一瞬だけ身構えたが、グレンは何も咎めなかった。

 ただ、静かにこちらを見て、それから私へ言う。

「その言葉を」
 低く、けれどはっきりした声だった。
「あなた自身が忘れないでください」

 私は目を見開く。

 それは注意のようでもあり、肯定のようでもあった。
 代わりではありません、と言った私の言葉を、グレンは否定しなかった。
 むしろ、忘れるなとまで言ったのだ。

「……はい」

 答える声は、少しだけ震えた。

 グレンはそれ以上何も言わず、部屋の中へ入ってくる。
 ルイスは兄を睨むでもなく、かといって和らぐでもなく、その様子を見ていた。

 けれど少なくとも、今この部屋にいる三人は、昨日までとは少し違う位置に立っている。

 アデルの部屋は、まだ過去の部屋だ。
 でもそこで交わされた言葉は、ちゃんと今へ向いていた。
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